師の背中(後編)

 駆けた幼女の足音が次第に遠くなっていく。チャヤは安堵すると同時に心細さが胸の中で大きくなる。


 ――これでいいんだ。

 ――あとは私が逃げるだけだもん。絶対、できるはずだよ。


 必死に自分に言い聞かせ、彼女は膝を震わせながら角猪ホーン・ボアと対峙する。

 だが、木漏れ日が当たって相手の角が白く煌めくと、「ひ」と短い悲鳴を漏らしてしまう。


 ――あんなので刺されたら……死……。


 最悪の想像が脳裏をよぎり、荒い呼吸がますます早くなる。

 鉄の棒のように固まる足に渾身の力を込めて動かす。

 後ずさり。

 ようやくできた。しかし、脚を開いたことで残っていた尿が染み出した。太ももに新たな水路みずみちを作り、再び湯気が立つ。


 ――う、うううう、情けない、恥ずかしい。


 醜態を晒すと、角猪も気付いたようで、ブヒブヒと鳴きながら鼻を細かく動かしている。

 嗅がれている――。

 そう感じてしまうと、チャヤは思わず内股になる。

 

 現実逃避しそうになって、ふと孤児院の朝が思い浮かんだ。

 起きた時の濡れた股間の感触。オムツを脱がされている時の情けなさ。シスターのため息。

 それらをまるで朝の風物詩とばかりに笑う孤児たちの小馬鹿にした視線――。

 他人が向ける格下への視線――それがチャヤの気弱さの根源の一つだ。

 だが、この場で失態を眺めているのは、嫌らしく鼻を鳴らす角猪だけ。

 獣の視線なんてどうして気にする必要がある?


 ――無事に逃げられたら、下着もズボンも洗って、川に落ちたと言い訳しよう。

 

 そう自分に言い聞かせると、少しだけ心が軽くなった……気がする。

 角猪を視界の端に収めながら、辺りを見る余裕ができた。武器、とはいかないまでも体を守れそうな何かがないか。

 最初に映ったのは、落ちている枝。

 ダメ。拾えない。膝を曲げたならば、そのまま座り込んでしまいそう。

 次に目にしたのは、低木の枝。ちょうどチャヤの肩の高さにある。

 まだ新芽を付けない節くれだった枝だ。これならば。


 手を伸ばす。足ばかりか、腕まで重い。まるで満杯の水桶を持ち上げるかのようだ。


「はあはあはあ……づうう!」


 やっと枝を握れた。しかし、今度はその枝が折れない。

 チャヤが枝に手こずっていると、今まで小便小娘ザコの動きを楽しむかのように歩かなかった角猪が急に前へ踏み出した。

 武器を持たれると面白くないのだろう。角を突き出してゆっくりと狙いを定めていく。

 そして泥を蹴り飛ばし、黒い巨体がチャヤへ駆け出す。気付いたチャヤの体が強張った。


「きゃんッ」


 突進を避けられたのはただの偶然だった。

 引っ張っていた枝から手がすっぽ抜け、チャヤは勢い余って背後の幹に背中を打ったのだ。

 「かふっ」と音を漏らし、肺から空気が抜ける。今まで自分の体があった所を角猪の巨体が通り過ぎる。


 ――助かった?


 だが、通り抜けざまの角猪の白い角が目に焼き付いてしまった。

 自分が居たはずの空間をあの角が突き刺した。――その事実に思い当たり、直後呼吸が乱れた。うまく息を吐けない。過呼吸だ。


「はひっ、はひっ、はひっ」


 角先が通った軌道は、細い少女の体から決意の灯を消すには十分すぎた。先ほどまでわずかにあったはずの対抗心と、逃走への希望が消えていく。

 呼吸が乱れている。下半身から力が抜けていく。頭では逃げないとと考えているのに、体はうまく動いてくれない。まるで体の奥に思考が閉じ込められてしまったかのよう。


 ぶっ。


 そして音が遠のいた世界の中、チャヤの尻から場違いな音が聞こえた。

 放屁の直後、ズボンの臀部でんぶが膨らみ始め、尿とは別の異臭が漂う。

 止まって引き返してきた角猪が、ブヒヒッと鼻を動かしてから顔を背けた。

 脱糞。

 気弱な少女にとっての恐怖と脱力の極致だった。


 ――ぁ、ぁ、うんち、漏れてるよね……。このまま死にたくないなぁ……。


 体の奥底に意識が遠ざかっていく。もはや脱糞の羞恥を感じることすらなく、諦めの暗い水底に落ちていく。

 意思を失った視界で、白い角が迫ってくる――。



「諦めが早すぎじゃないの? さっきの『逃げてーーーっ』って声はもっと希望があったわよ?」


 その時、諦めの水底にいたチャヤの耳に聞き覚えの無い声が響いた。その声に水中から引き上げられる。

 そして、意思を取り戻したチャヤはギョッとした。


 が角猪とをしていたからだ。


 女は角を脇に抱えながら、「フゴーーッ」っと鼻息を荒げる角猪と押し合いを繰り広げている。

 

「くっさ……。ねえ、チャヤちゃん、大きいほうまで漏らしたでしょう?」


 素手の女に名前を呼ばれたが、気付くのに時間が掛かった。

 チャヤは驚いて答えられず、呆然とその大きな背中を見つめる。

 黒のぴっちりした密着着レオタードに全身が包まれ、濡れ羽色の長髪を一つにまとめたポニーテール。密着着は女の体格を隠さず見せつけ、広い肩幅と鍛えられた太い四肢はしっかりと角猪の動きを止めている。そして相手の動きに合わせ、肉厚な体の奥の筋肉が伸縮する。

 しかし、彼女の姿で最も目を引くのは、腰に締められている黄ばんだ白の分厚い帯。チャヤは知らなかったが、東方で《まわし》と呼ばれている布製の防具だ。何重にも巻かれ、急所である下腹部と股間を守っている。


「ふっん、ん! パテュース、着いた~?」


 互角の押し合いをしながら女が男の名を呼んだ。


「……ああ、着いた! 子どもを二人も抱えて走るのはきついって!」


 間を置いて、どこからか男の声が返ってきた。

 声の出所をチャヤが見つけるより早く、女が両足でぐっと踏み込む。


「ふはああああっっ!!」


 女が巧みに角猪の体勢を崩し、なんと前足を地面から浮き上がらせた。後足だけで立たされた角猪は押し込まれていく。女は鼻息を荒くした相手の抵抗を許さず、背後のチャヤから遠ざける。

 そしてついには、あの巨体がひっくり返され、あろうことか背中から地面に倒される。

 そこへ、幹の陰から姿を見せた男が何かを唱えると、三筋の赤い光が角猪へ殺到する。

 光の直撃を受けた獣はぴくぴくと四肢を震わせていたが、やがて動かなくなった。

 

「はふ~~」


 女がゆっくり息を吐いた。そのまま首や肩を回し、体をほぐしている。あんな怪物を相手にしたのに、興奮も恐怖も感じられない。

 チャヤはそんな女の大きな背中を見続ける。


 そこへ魔術師の男が連れてきた子どもたちがチャヤに気付き、駆け寄ってくる。一人は逃げた孤児院の幼女で、もう一人はその幼女より背が高い女の子だった。


「チャヤおねえちゃん、だいじょうぶ? くさいよ!?」

「お父さんお母さん、このおねえちゃん、おもらししちゃってるよ~」


「こ、こら、サヤカ! 黙ってなさい」

 男が慌てて背の高い子の口を押えた。娘だろうか。


 この一家は何なのか、どうしてここにやって来たのか、そのような疑問はこの時のチャヤには思い付かなかった。目の前の女の背中に釘付けになっているチャヤには些末なことだったのだ。

 熱を失っていた掌にじわりと汗が噴き出す。


 ――悔しい、悔しい、悔しい。

 ――あの人はあんなに簡単にあいつを倒したのに、私は。


 年下の子どもたちに失禁を晒して笑われ、やって来た女に事も無げに助けられた。

 助かったという安堵よりも、この女性のようになりたいという憧憬よりも、さらに大きなこの悔しさ。

 気付くと、歯を食いしばってぼたぼたと大粒の悔し涙を流していた。


「おばさん……わたしも、強く、なりたい、です」

「お、おばっ!?」



 普段の眠そうな垂れた細目が「おばさん」と呼ばれた怒りのせいで引きつっていた。

 それがチャヤの最初に見た師匠シオリの顔だった。

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