力士少女の義父探し

大鳥居まう

序章 六年前

師の背中(前編)

 六年前、チャヤが相撲拳闘術のシオリ師匠の一家と出会ったあの日。

 それは、森の小鳥たちの声が孤児院にも届く春先のうららかな日だった。



 ◇


 東の山脈の雪解け水が川を流れ、やがて川は街を横切っていく。背後の街はすでに遠く、孤児院から抜け出した女の子二人は森に踏み入った。

 年少の幼女は好奇心いっぱいの小走りで、年長の少女はびくびくと辺りを見回しながらの足取りだ。


「チャヤおねえちゃん、おそいよ~。ついてきてってば~」

「やっぱり帰ろうよ、シスターに怒られちゃうよ……」

「帰らない!」

「子どもだけで森に入っちゃだめ、って言われてるんだよ……」


 背の高いやせっぽちの体を丸め、木陰に恐々こわごわと視線を送るチャヤは、三つ年下の活発な幼女に連れ回されている。二人の質素な麻のズボンは跳ねた泥で汚れ、革の靴にもいつの間にか染みができていた。


 森は孤児院の狭い庭より早く春の賑わいを見せていた。若芽を出し始める木々と、ぬかるむ土の上で咲く黄色の小花たち。枝を走るリスは、鷹の鳴き声が聞こえた途端にピクリと止まる。幼女はそれらにいちいち指を指して騒ぐ。

 しかしチャヤは気が気でない。この森はまれに角猪ホーン・ボアが出ると、孤児院のシスターから言われたことがあるからだ。


「ね? もういいよね? 帰ろうよ……」


 チャヤは駆け出そうとする幼女を引き留めようとした。が、目の前のお転婆は構わず進もうとする。


「まだ! 来たばっかりだよ!」

「そんなことないよ……ね?」

「そんなに帰りたいなら、チャヤおねえちゃんだけ帰って!」


 幼女の大声が耳に響いた。数度目の催促も不発に終わる。分からず屋の幼女に帰宅を促そうとしたが、案の定逆効果だった。

 チャヤは小さくため息を吐いた。

 孤児院の廊下でこの子にせがまれ、仕方がなく森の入り口まで連れて行くことになった。だが、先に先にと引っ張られ、結局森の中へ入ってしまったのだ。

 言い合いに疲れてきたチャヤが黙ると、幼女が追い打ちを続ける。


「チャヤおねえちゃんは怖がりだよね? だからいつもおねしょしちゃうんだよ」

「し……してないっ! いつもじゃないっ!」

「でもコラリーちゃんより多いでしょ? おねえちゃん、寝る時におむつ履く赤ちゃんだもん」


 粗相の話題を向けられ、チャヤは顔を赤くしながら涙を浮かべていく。

 名前を挙げられた一歳年下の子は滅多に寝小便を漏らさなくなったのに、自分はかなり多い頻度で失敗してしまう。身長は年上の子より高いのに、と思ってしまうとさらに惨めになっていく。

 やがて堪えきれなくなり、チャヤは年下の前で泣いてしまう。


「うええん、うええん、赤ちゃんじゃないもん、うえええん!」


 気弱なチャヤの大音量が静かな森に響く。泣いてしまった申し訳なさとこれしきで泣く情けなさの両方を感じながら、止められず涙を零し続ける。

 


 ◇

 

 森の雰囲気が変化したのは、十数分続いた泣き声が収まり始めた時だった。

 ズズウン、と轟音が鳴る。

 二人の耳に届くとほとんど同時に近くの鳥たちが一斉に飛び上がった。遅れて地響きが伝わってくる。まるで何かが大木に衝突したかのような――。


「な、なに?」


 幼女はビクリと震え、体の大きなチャヤの腕を取った。チャヤは驚いてしゃっくりが止まり、潤んだ目で辺りを見回す。

 ズチャリ、ズチャリ、と何かが泥の地面を踏みしめる音が近づいてくる。

 やがて木の影から、のそり、と巨体が姿を見せた。


「ひぃ!」


 少女たちは硬直した。その後、指先が小刻みに震え出す。

 角猪ホーン・ボアだった。

 黒ずんだ剛毛をなびかせる大猪。通常の猪より一回り以上は大きく、ひづめが地面にめり込んでいる。そして、何より目を引くのは額の角。短刀ほどの角は雪のように白く、黒い体毛の中でひときわ異彩を放っている。

 爛々と光る眼が少女たちに向けられる。

 ブヒヒ、と白い息が獣臭さを伴って漂ってくる。


「あ、わわ、わ……」


 幼女がチャヤの腕を掴む力を強め、怯えながら後ずさる。

 すると角猪は、先に動いてしまった幼女に角を向けた。そして一歩距離を詰める。

 頭が真っ白になりかけていたチャヤは動けない。が、幼女が腕を強く引いたことでやっと思考が戻ってきた。

 掴まれている腕に幼女の震えを感じる。しかし同時に、チャヤ自身の下半身に嫌な生暖かさが広がっていくのも感じてしまった。

 

 ――漏らし、た……。


 冷たさの残る空気の中、チャヤの股間から湯気が昇る。

 穴の開いた下着と吸水性の悪い麻のズボンでは吸いきれず、太ももからすねを伝って靴下まで尿が染み込んでいく。


 ――怖い怖い怖い怖い――。

 ――なんで……こんなことに……?


 恐怖と後悔が再び目頭の温度を上げる。また泣いてしまいそうになり――。



 一方、角猪は相手の垂れ流し続ける異臭にブヒブヒと鼻を鳴らした。

 機敏そうな小さいほうと、戦意喪失のチビった大きいほう。

 どちらを優先して排除すべきか。

 角の先端を左右に揺らし、さらに距離を詰めようと足を上げる。

 自分は草食、こんな小物たちは縄張りから追い出すだけでいい。だが、二度と来られないように血を流させてやるのもいい――。

 角猪がそう思考を巡らしていると、小さいほうが視界から隠れた。否、大きいほうがチビを隠した。チビを庇うように立ち塞がったではないか。

 ブヒリッと鼻を大きく鳴らし、牙を覗かせて笑みを向けた。



 泣きそうになったチャヤは、角猪が歩みをわずかに止めた隙に幼女を盗み見た。震えてこそいるが、自分のように失禁せず、むしろ逃げられるチャンスを窺っているようだった。

 この子に比べてなんと情けない姿か――。そう思うと、恐怖の中に悔しさが湧いてくる。やがて、いつも孤児同士の揉め事では泣かされるチャヤにも、一握りの闘志が生まれ始める。

 この子を背中に隠してやりたい。

 だが怖さで足が重い。一歩歩くためになけなしの闘志が消えそうになる。でも消してはいけない。消さないためには歩け――。


 やがて、ついに幼女と角猪の間に立ち塞がることができた。

 動悸は激しく、脇汗は脇腹に流れていく。涙でくしゃくしゃになった顔に、鼻水も加わる。だが、食いしばっていた歯を持ち上げ――。


「逃げて……逃げてーーーっ!!」


 先刻の泣き声よりもはるかに大きな叫び声を、背後の幼女に向けて放った。

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