第2話 夜明けは遠く

 日常を暮らす中で、エアポケットにハマることはないだろうか。

 ふとした瞬間、自分が何をしていたのか、何を考えていたのかわからなくなる瞬間だ。

 集中が途切れたのか、はたまた、集中しすぎてどこかへ意識が飛んでいるのか定かではないが、はたと我に帰った時に生まれている空白。私が頻繁に起こすのは、浴室で頭を洗っている時だ。

 考え事をしている時もあれば、無心で洗髪をしている場合もある。ふと気づくと、シャワーを頭から浴びている。髪は濡れ、身体は温かい。おそらく、長い間、湯に打たれている。手を止めて、私は困惑するのだ。

 シャンプーをつけたまでは覚えている。わしゃわしゃと盛大に泡をたて、じっくりと頭皮をマッサージする。だが、意識はそこで途切れているのだ。

 伸ばした手を空で彷徨わせ、狼狽える。

 コンディショナーは、これからか。それとも、すでにそれを終えて、あとは湯に浸かるだけなのか。髪に触れるが、洗い流しすぎたのか、手触りはぎし、っとしている。これではコンディショナー前か後かもわからない。

 わからないならつけてしまえと、ええい。ボトルのポンプを押し込む。その感触に、あ、と思うのだ。押したな、さっき。

 だが、無くした記憶が蘇ったところで、もう遅いのだ。手のひらには、押し出されたコンディショナーが、へにゃっと乗っている。まあいいか。どうせ、髪はきっしきしだ。

 そうして私は二度目のコンディショナーを髪に塗り込む。さっきこうしていた間、私はいったい、何を考えていたのか。

 何故、人はこうまでぼんやりすることがあるのだろうか。

 私はふと思い出す。

 あれは靴屋で働いていた時だ。紳士靴専門店だったので、お客様は男性ばかりである。どれも同じような革靴の、微細な差に心をときめかせ、嬉しげに買い求めていく紳士たち。

 毎回同じ靴を買い求める人、頻繁にお越しになる洒落者、履ければ何でもいい派、靴を愛してやまない趣味人、そして、ビジネスの戦友として靴を買い求める企業人。

 その日も、スーツ姿の男性がひとり、入店した。彼は棚も見ずに試着の椅子にすとんと座り、ゆっくりと私を見た。

「靴が欲しいんだけど」

 靴屋なので、断る理由などあろうはずがない。どのような靴がお好みですかと尋ねれば、紐ぐつなら何でもいいという。

 あまりにも漠然とした答えに、私は彼の足元を見た。サイズと好みを知るためには、今履いているものを見ればいい。

 そうして私は、無言で瞬く。座っている紳士の顔を見る。彼は悟りを開いたような笑みで私を見返した。

「どうされたんですか、それ」

「わかんないんだよね」

 紳士の足元は、片方が内羽根のストレートチップ、もう片方はスリッポンだった。

「いや、履くとき気づきませんでした?」

 紐の結び方を見る限り、毎回紐を結び直してきちんと履いている人の履き方だ。片側がスリッポンだったら、気づくだろう。いや、そもそも。

「靴箱から出すとき気づくでしょ」

「それが、全然……覚えてなくて。今日さ、これからお得意さんのとこ行かなきゃいけなくて、さっき気づいたんだよね。靴が右と左で違うの」

「そりゃ、マズいですね」

「でしょ。だから、靴が欲しくて」

「すぐご用意いたします。……でも、奥様、何も仰らなかったんですか」

 紳士は結婚指輪をしていた。

「ね、本当に」

 紳士は相変わらずに、しょっぱい顔で微笑むばかりだ。

 新しい靴を履いて紳士がお帰りになった後、私は客足の途切れた店内で、先輩に「今、こんなお客様がいらして」と報告した。すると先輩は、先程の紳士と同じ、どこか切ないような笑みを浮かべて優しく言ったのだ。

「意外と多い、そういうお客様……」

「多いんだ……。何が起こってるんですかね、玄関で」

 靴マニアの先輩は、慈愛に満ちた笑みを浮かべるばかりだった。

 紳士たちの夢と希望が渦巻く朝の玄関には、きっとエアポケットが存在しているのだ。

 そんなことを思い出していた私は、ふと我に帰る。シャワーは出続け、浴室は雲の如き白く揺蕩う湯気に満ちている。髪から雫が滴り、私は身体を見下ろす。

 はて、身体をどこまで洗ったっけ。

 石鹸はとうに乾いて、素知らぬ顔で白く沈黙している。湯船という海を見下ろし、湯気の雲の中で、私は途方に暮れる。

 なんて広いのだろう。この浴室という名の空は。私が目的地にたどり着くまで、あと幾つのエアポケットにハマれば良いのか。

 だが、明けない夜はないのだ。なすべきことを成せば。

 そっと指を伸ばし、白い石鹸に触れる。たとえそれが二度目のインパクトだとしても、越えて行かねばならないのだから。

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