3. 顔の見えない演奏者

 翌日。春休み前の最終日、月曜。

 午前中に憂鬱な授業がひとつ。

 続いて体育館に整列して、眠気を誘う長話がひとつ。


 春の陽気ようきはどこにいても僕ら生徒を包み込み、そのせいでうつらうつらとする者は少なくない。反して、明日からはじまる長期の休みに落ち着かない者もいる。

 聞き飽きた注意事項や心構えを、ステージ上から長時間にわたり流し込まれる。間違いなく睡魔に負けたであろう糸杉と、そうならないよう抗う僕。気が抜けてどうしても目蓋を閉じたくなり、気づいたら寝てしまっていた、というのを繰り返した。


 そんな地獄から解放されたのは、二限目の長話を終えて教室に戻ってからだった。今日一日の面倒ごとは終わり、生徒たちは晴れて春休みへと突入する。

 浮かれるクラスメイト。

 寄り道しようと仲間をつのる男子に、休日の予定を確認しあう女子。その他雑談をはじめる者。休日まえ最後の放課後は、皆の気分を底上げする。


 ……喧噪にまぎれ、帰り支度じたくをしていた僕もそのひとり。

 授業という日々の重りから解放され、明日からはのんびりできる。寝坊も許される。

 糸杉からの『昇降口で待ち合わせねー』というおなじみの文面も、いつもとは違って見えた。


 少しはやいけど、先に行って待っていよう。

 席を立とうとした、そのときだった。



 ――、――。



 不意に、どこかから高い音が聴こえた。


 ハッとして、顔を上げる。


 喧噪にあふれる教室では、注意して耳を澄まさなければ気づかない。気づいたとしても、ほとんどの生徒は『耳鳴りか』と無視するだろう。

 だが、僕は聴き逃さなかった。

 動きを止め、喧噪を遠ざける。自分の鼓動すらも意識から外し、音を拾う。


「……」


 僕は帰り支度をしていた鞄を放って、足早に教室から出た。



 ――、――。



 ――、――、――。



 後ろ手に扉を閉めて喧噪を和らげると、導かれるように歩く。

 廊下の向こうから響く軽い音が、あの日と同じように僕を誘った。

 壁に反射し、複雑な校舎の中を吹き抜ける演奏。たぐり寄せる気持ちで追いかけ、結果的に発生源を間違えた過去の僕は、もういない。今はどこから聴こえてくるのかを把握している。

 落ち着いて記憶に刻みつけたい。一方で、弾いている誰かがどんな人なのか知りたい。欲求と焦りが僕の中でうず巻き、ただ僕を突き動かした。


 喧噪が薄れ、あの空き教室に近づくにつれ、長調のメロディーははっきりとしてくる。

 校舎の端っこへ足を踏み出す度に、ヒトの心を透明に洗うような音の連続。

 遠くなる喧噪と一緒に、自分の中の色を置いてきてしまったようにも感じられる。

 同じ間隔。

 同じ高さ。

 同じ共鳴。

 同じ組み合わせ。

 一年前の入学式、僕の胸の奥を叩いたソレが、廊下の向こうから空気を揺らす。

 ほら、また。



 ――、――。



 ここまで近づいた今、走ればすぐにでも辿りつけるだろう。顔の見えない演奏者の正体にも、手が届くに違いない。

 走りだしたらこの音楽が聴こえなくなる? 動悸と息づかい、足音が邪魔をする?

 心配はいらない。

 こんなにもハッキリと聴こえるのだ。一音一音を丁寧に紡ぎ、確かな優しい色を持たせているのだ。走ったって、内側には同様の響きを届けてくれる。

 例えこんなに透き通っている音でも、世界の見え方を変えるほどのチカラを持っている。

 そう気づいた途端、僕は走り出した。


「……っ、はぁっ、はぁっ!」


 最後の角を曲がり、廊下の先に見えた戸を視界に入れた。

 入学式の日に見つけた空き教室の戸。

 自分を変えてくれた音楽を内包した戸。

 演奏者に出会うために通い詰めたあの戸。

 昨日の昼を一緒に食べた、白色のげた戸。


 僕は音を走って追いかけ、ついに戸に手をかけた。

 一枚の壁の向こうから、なおも音は貫通してくる。

 触れた指先が苦く躊躇を生み、離れる。

 思いとどまり、一度、小窓から覗く。

 黒いピアノの屋根に隠れて素顔は見えない。

 それでも、イスにはスカートと細い足が見えた。 

 演奏を邪魔しないように。跳ねる心臓を押さえ付けながら。僕はできる限りそっと、戸を引いた。



「っ、!」



 鍵に邪魔されることなく開かれた境界の向こう側。

 閉じ込められた空気が廊下の空気と混ざり合い、空き教室特有のホコリっぽい匂いが鼻をかすめた。


「……な、ん」


 そこには、誰もいなかった。

 たった数秒まえまで、この教室で弾いていた女の子。素顔の見えない演奏者。そいつは一瞬のうちに空気に溶け、姿を消していた。

 曲もウソだったかのように途絶え、霧散していた。

 混乱で頭がおかしくなったのかと思った。自分の目を疑い、背後を振り返ってからもう一度見ても、そこは無人の空き教室だった。


「どういう、ことだ」


 何が起こったのだろう。

 疑問が晴れないまま、ピアノに近づく。変わらず楽譜がないことを確認する。

 ……いつもは屋根が閉じられ、埃が積もっていた。それが、今はいつでも弾ける状態になっていた。鍵盤にかけられた布も今はないし、イスの位置はピアノに近づいていた。

 それだけじゃない。

 いったいなぜ、この教室は鍵がかかっていないのだろうか。いつもは鍵がかけられて入れないのに。


 理解できないことづくめで、自分がおかしくなったようで。

 僕はしばらく、その場に立ち尽くしていた。



◇◇◇




「わっかんないー!」


 シャーペンを投げだし、糸杉がテーブルの向こうで大の字に寝転んだ。

 午後は僕の家に糸杉を招き、くだんの文章を書くことに時間をあてる約束だった。

 しかし、原稿用紙に向かい三十分もしないうちに、相方は根を上げる。

 そろそろ休憩しよー、とでも言いそうだった。

 想像してたよりもはやく横になったので、呆れ半分、安心半分にため息を吐く。昨日は恋バナなんかをはじめるから驚いたのだが、やはり糸杉は僕の知る糸杉だった。


「やるって意気込んでたわりに、手のひらを返すのは早かったね」

「だってぇ……『学生からの一言』ってよく分からなくないー? 学校の良いところを紹介すればいいの? そんなの本文で取り上げるだろうしー。なら学生は別にいいじゃんー」

「それは春山先生に言ってくれ」

「わかってないなー。知ってるー? 春山先生は学校のドレイにすぎないんだよー」


 起き上がり、両手で僕を撃つ仕草をされた。

 「そんなことも知らないんだー」という風な、その偉そうな表情がちょっとムカつく。


「春山先生、教頭先生の愛人らしいよ」

「えっ!?」


 糸杉が目を見開き、表情を驚愕に染める。

 あまりに意外すぎて、口があんぐりと空いていた。何事もなかったかのようにペンを動かす僕を、信じられないという目でまじまじ見つめた。


「え、あっ、ええ……はるやませんせいが……」

「ウソだけど」

「ウソなのかよー! ちょっと信じちゃったじゃんー!」


 ぽかぽかと殴る糸杉をやんわりとあしらい、僕は謝罪した。

 あまり痛くはない。

 悪戯いたずらをすると、気づいた糸杉は決まって殴ってくる。友達に『ちょっとなにしてんだー』と小突くアレと似ているのだと思う。本気で勘に障って怒ったときは、本気の痛みを感じるからよく分かる。僕も糸杉を何度か怒らせたことがある。ずいぶん子供のときの話だけど。

 それだけに、こうやって冗談みたくやりとりをできるのは、やはり幼馴染みとして距離感を保っていられるからにほかならない。

 近すぎず、遠すぎず。

 二人きりでも、変な緊張はなく。

 無論、異性として意識していないのかと問われれば言葉は濁すことになるけれど。それでもやはり、二人の時間は心地よかった。まるで、互いの空気をわかり合っている気分で。


「って……なにそれ」

「んー?」


 ようやく執筆に戻ったかと思うと、いつの間にか糸杉が携帯を取り出していた。

 横画面にして、自身の筆箱に立てかける。普段の僕が動画を楽しむときのように。そして案の定、糸杉は音量ボタンを押した。

 画面の見えない携帯から、曲が流れ出す。


「気分転換ー」

「……」


 E.サティ、『ジムノペディ』。

 誰もが一度は聴いたことのある曲だろう。学校の授業か、テレビか……正確にどこで聴いたかは思い出せないが、うとい僕も名前は聞いたことがあった。

 音楽という存在が部屋に加わる。

 それだけで、空気はガラリと変わった。

 糸杉と僕を包んだ四角い箱の中。窓の外と隔絶されたここだけが、時間がゆったりしているようにも感じた。決してそんなことはないのだけど。

 優しい流れのジムノペディを聴きながら携帯を見つめていると、糸杉が嬉しそうに笑いかけた。思わず僕も微笑みかえした。


 誰かのアレンジなのか、一音一音がすこし強く、深く感じた。だけど、優雅さはそのまま。ジムノペディは、さっきまでとはまたひと味違った時間を演出してくれる。

 気分転換、リラックスにはちょうどいい曲かもしれない。

 テーブルに頬杖を着く糸杉を見て、漠然とそう思った。


「ねぇ、りっくん」

「ん?」


 携帯の画面に視線を落としたまま、口を開いた糸杉。

 なんだろう、と、また目を向ける僕。

 そしてこのときばかりは、彼女が別人に写った。

 だって、


「ソルフェジオ音階って、知ってる?」


 そう問う表情は、いままでにないくらい大人びて見えて。それでいて、魅力的だったから。

 細められた瞳はきれいで、長いまつげは揺れて。ふわりとしたベージュの髪が、絹みたいにまとまっていて。こうして見つめていると、学校で人気の先生にも勝る美人だと再確認する。


「……ソルフェジオ音階?」

「そう」


 テストの点は毎回低いが、こういうことには詳しい糸杉。実は頭いいんじゃないか? と疑いたくなる。

 しかし、そんなことはない。

 糸杉のこの知識は……例えるなら、ゲームに出てくるモンスターをこと細かに覚えられるのに、英単語を覚えるのは苦手、といった、そんな人間らしい特徴だ。つまりは好みの表われである。

 興味のある分野は水のように知識を吸収するのに、嫌いな分野はまるで手がつかない。僕にも心当たりはたくさんある。

 それだけに――糸杉が勉強の代わりに脳を費やすこの手の話には、興味が尽きなかった。


「ソルフェジオ音階っていうのはねー、簡単に言うと、心身に影響を与えるかもしれない音の並びのこと」

「心身に……」

「レオナルド・G・ホロウィッツによって提唱された、六つの周波数から構成された音階。よくあるヒーリングミュージックとかがイメージしやすいかな」


 知識の一端をこぼしながら、糸杉が携帯の音量を調整した。曲がすこしだけ小さくなる。

 それから、今度は画面から僕へと視線を移した。穏やかで暖かい感情の込められた瞳が、僕を捉える。

 基本的に、男は他人から視線を外し、女は相手の目を見て話す傾向があるという。今まさに実感していた。

 妙に気恥ずかしくて、目を逸らしたくなる。


「安心させてくれるだけじゃない。脳を活性化して、癒やしてくれたり、恐怖を取り除いてくれたり。身体の調子を整えて、良い方向へ持って行ってくれる効果があるの」

「へぇ……そのソルフェジオ音階が、どうしたの?」

「ううん、特になんでもないの。ただ、」

「ただ?」


 訊きかえすと、糸杉はまた、花のような笑顔を咲かせた。


「ふふふっ、りっくんみたいだなー、って思っただけ」


 僕しかいない部屋で、僕しかいない時間で、僕だけにその笑顔を向けた。それがどんなに幸せで、恵まれているのかを理解した。


 ソルフェジオ音階の話が終わっても、ジムノペディの再生が途切れても、その日は一緒に過ごした。

 シャーペンが原稿用紙を叩く音は、窓の外の日が暮れるまで互いの耳に届いた。

 ときどき挟む休憩が、僕の心を癒やした。

 糸杉の方こそ、僕にとっては安息だった。

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