4. 初めて聴く曲

 新聞に載せられるといっても、読書感想文がごとく長文のスペースを与えられているわけではない。せいぜいがひとつの紙面の半分ほどだろう。

 求められるのは読者を魅了する素晴らしい文章、ということでもなく、単に生活環境に対する生の声である。無論、貶めるような内容は書かないが。

 とにかく、僕と糸杉――二人だけの課題は、時間を費やせば一週間もかからないものだった。


 春休みに突入してから三日は、それこそジムノペディのように穏やかに過ぎていく。

 空いている時間を見つけては原稿用紙に書き込み、ときには「気に入らない」とボツにして。何度も首をひねる糸杉を助けながら、互いの方向性をすり合わせて。あるときはサボって街へと繰り出して。また書いて、気分転換と称した音楽を聴いて。

 毎日を、糸杉とともに。

 一人でやった方が効率がいい。そんなことは当然、理解している。

 けれど、そんな結論を無視してでも堪能する価値が、この日々にはある。

 未来、将来、極論を言ってしまえば、明日。不確定で真っ暗で、足を踏み外したら終わりを迎えそうな『これから』。

 憂鬱で怖いそれらに脅かされる人生。目覚めにも勇気が必要な数多あまたの一日。

 そんな連続に入り込む糸杉と僕だけの時間は、この上なく幸せで、心地の良いもの。ありきたりな恐怖を安心感で塗りつぶしてくれる、救いの光だった。

 たとえちっぽけな課題でも、取り組んでいるときは足並みをそろえている気分に浸れた。二十四時間に含まれる一時間でも、ともに人生を歩んでいる気分になれた。

 クラスメイトに押しつけられ、意図せずしてつくられた時間だったが。それはまぎれもなく、誰にも邪魔されない、僕のたから物だった。


 だけど、幸せな時間というものは永遠じゃないことを僕は知っている。

 糸杉と同じ日々を積み重ねていけば、並行して原稿用紙も埋まっていく。完成に近づいていく。

 徐々に縮まり、気づけばすぐそこにまで迫っていた終わり。僕は止めるすべを持たない。

 変わらず間延びした口調で笑う糸杉とは逆に、独りで焦る自分がいた。


 ――そしてついに、最後の日が訪れた。




 ピンポーン、と、来客のインターホンが鳴る。

 目を開けると、鏡に映った僕と目が合った。かきあげられた前髪の先から、ぽたぽたと水滴が落ちる。

 手元に置いてあったタオルで顔を拭き、玄関へ向かう。

 見るまでもなくそこにいるだろう彼女を出迎えた。


「わぁー! なにしてんのー!」


 変な遠慮はほとんどない間柄だと思っていた糸杉が、見るなり顔を手で覆った。


「え、なにって……」

「はやく服着てー!」

「あっ」


 顔を洗っていたからか、上半身裸であることを今更思い出した。

 耳まで真っ赤にする糸杉が僕の羞恥心を一気に増大させ、あいだに変な空気が流れた。それがいたたまれなくなり、すぐに引っ込み、急いで服を着る。


「ご、ごめん」


 もう一度顔を出すと、糸杉は指の隙間からチラリと僕を見、深くため息をついた。


「もぉー、目のやり場に困るよー……はやく準備して」




 春休みに突入して五日後。春山先生に原稿用紙を渡された日を含めれば、ちょうど七日目。

 提出期限日である今日は、僕と糸杉で学校へ行く予定だった。

 提出するだけなのだから、わざわざ登校するのはひとりで十分。そう言ったのだが、糸杉は「ついてく」の一点張りで譲らない。結局、いつもは寝坊するのに、朝から僕の家を訪ねたのである。

 普段からそうしてれば、遅刻する頻度ひんども減るんじゃない? なんて疑問は野暮だ。

 きっと、糸杉にもいろいろあるのだろう。

 僕らは人間。思考し考えすぎてしまう人間。毎日やってくる明日への不安を、誰もが持ち合わせている。無意識が目覚めを拒むことだってある。

 今、玄関の外で待っている糸杉も、例外なく。


 ドライヤーの風で眠気を飛ばしつつ、そんなことを思った。


「お待たせ」

「ううん。いつもは私が待たせてるしねー」


 朝食をバナナと紅茶だけで済ませた僕は、若干の空腹感を覚えながら、晴天の下を歩き出した。

 時刻は十時すぎ。

 休日とはいえ、いつも八時前に出ていることを考えると、とてものんびりしている気分だ。となりを歩くのが糸杉ともなれば特に。

 だけど、それすらも僕にとっては心地良い。登校時のこういう朝は滅多にない分、いつもより新鮮な気持ちだった。


「りっくんはー、職員室、だけー?」


 少しの間を置いて、脳内で『用事は職員室だけ?』と変換された。

 僕のかばんには、しっかりと清書された原稿用紙が入っている。それ以外には特になにも入っていない。強いて言うなら財布と筆記用具くらい。記憶を検索してみるも、やらねばならない用事は思い浮かばなかった。


「僕はないけど。糸杉はなんかあるの?」


 歩きながら、糸杉は小さく頷く。


「大した用事じゃないんだけどねー。もし終わったあとにどこか寄り道するなら、先に済ませようかと思ってー」

「寄り道、か」

「ほらー、打ち上げしようぜ! みたいなさー」


 ジョッキで乾杯する仕草を身振りで表現しながら、ふふふ、と笑った。なるほどと思った。

 またハーベストにでも行くつもりだろうか。それとも別の店か、もしくはカラオケ? とにかく、糸杉の提案はとても魅力的だった。

 些細な打ち上げ。良い。

 僕らだけに与えられた課題をクリアしたご褒美。楽しそうだし、それ以前に、二人の約束ができることが嬉しい。


「わかった。じゃあ春山先生の方には僕が行ってくるから、そっちはヤボ用の方を片付けてきてくれ。終わったら校門で待ち合わせで」

「りょーかいー」


 ほわほわと、朗らかに返事を返す糸杉。どこか足取りも軽くなった気がした。

 楽しみにしてくれているのが僕だけでないことが、また胸の奥を温めた。安らぎを与えた。


 ――そうだ。

 課題が終わったって、この関係性が終わるわけじゃない。

 明日も、その次の日も、それからも。今までと同じように、この先も糸杉は生きていく。だったら、まだ同じ時間を共有する機会はあるのだ。

 理由がないならつくればいい。

 今みたいに、楽しいことを考えながら一緒に歩く。喫茶店で、他愛もない会話をする。ダラダラと一緒になまける。落ち着く音楽を聴く。


 僕は午後の予定に胸を躍らせながら、学校へと向かった。




 ◇◇◇




「じゃあねー」


 糸杉は職員室の前で手を振ると、タッタッと廊下の向こうへ走っていった。休日ゆえに咎める者も少ない。小さくなる後ろ姿は子犬みたいだった。

 角を曲がるまで見送ると、僕は口の端が持ち上がっていたのを直す。

 自然とにやけてしまっていた顔を、冷静な表情で隠す。春山先生に見られでもしたら、「糸杉さんとなにかあった?」なんて訊かれそうだ。根掘り葉掘り突っ込むクラスメイトよりはマシだろうが、あまり詮索せんさくされたくはない。


 コホン、と咳払いをして、ノック。

 休日なので返事を待たずに入室する。それを咎める者もやはりここにはおらず、代わりに、一週間まえと同じように手を挙げる教員がいた。

 不在なデスクの間を縫って近づくと、出勤した数名のうちのひとりである春山先生は、お手本のように微笑んだ。


「おはよう。持ってきてくれたのね」

「はい。この場で目を通しますか?」

「ええ。信用してないわけではないけど、一応ね。あ、鞄はそこに置いていいよ」


 春山先生はとなりのデスク――香ヶ峰かがみね先生の机を指差した。座るよう促されたのもその先生のイス。くるくる回る上に肘掛けが備え付けられていた。

 僕は原稿用紙数枚を手渡すと、その席に座って確認を待った。座り心地も相まってか、妙に落ち着かなかった。

 気を紛らわす思いで、周囲に目を向ける。


 職員室はもの静かな雰囲気だった。

 普段の教室と比べて職員室は大人のスペース。騒がしさとは縁遠いことは知っている。だが今日は一段と静かだ。

 遠くの喧噪は届かないし、聞こえるのは数名の教員が作業する音のみ。廊下の冷たい温度との差もあって、いつも以上に異空間。

 ふと前に視線を戻せば、そこには足を組んで目を細める、白衣の担任。加えて、僕と糸杉の文字が刻まれた原稿用紙。

 それがさらに、落ちつかない空気に拍車をかけた。


「……」

「……」


 一枚目を読み終えたのか、紙の擦れる音がした。

 先生が足を組み直し、体勢を変えた。

 秒針の音が大きくなった気がした。


 糸杉は、今ごろなにをしているのだろう。そも、なんの用事だったのだろう。

 僕はいつしか、窓の外の庭を眺めてそんなことを考えはじめていた。意識を職員室の外、庭の向こうに並ぶ桜に移して、ぼんやりと思考する。


 また一枚、紙の擦れる音がした。


 これが終わったら、どこに行こう。

 ハーベスト……は行き慣れているけれど、ちょっと面白みがない。いつもはいかないところで打ち上げをしたいものだ。

 コレが先生のお眼鏡に叶えば、だけど。


 また一枚、紙の擦れる音がした。


 カラオケもまぁそれなりの選択ではあるけど。今は食べ物をがっつりと食べたい気分だ。ぱーっと。思い切って焼き肉なんかもいいかもしれない。


 また一枚、紙の擦れる音がした。


 糸杉は、どこに行きたいのだろうか。

 考えておいて、と言ってあるが、さっそく意見を聞きたい自分がいる。さすがに先生の前で携帯を弄る気にはなれないし、職員室を出たら真っ先に確認しよう。



 どれだけ経っただろうか。おもむろに、目の前の足組みが解かれる。

 そして考え事を繰り返す僕に、チェックを終えた春山先生が口を開いた。


「良い内容だと思う。よくできてるし、学生の言葉としては申し分ないわね」


 空気が弛緩した。


「ほんとですか」

「ええ。ちょっと長いけど、特に直すところもないし、大丈夫」


 僕がホッと安堵すると、春山先生は優しい表情を浮かべた。

 どうやら無事終わりそうだ。これで午後は予定どおり事を進められる。


「お疲れさま。今日はもう帰って問題ないわ。春休みも適度に満喫してちょうだい」

「ありがとうございます」


 はやる気持ちを抑えながら、席を立つ。

 念のため忘れ物がないか確認もして、鞄の口を閉じる。時計の針を見ると、糸杉と別れてから二十分ほどが経過していた。もしかしたらもう校門にいるかもしれない。


「それにしても、すごいわね」


 僕が帰り支度をしていると、春山先生が関心したように声をかけた。


「……? なにがですか?」

「まさかこんなにしっかりと仕上げてくるなんて。担任として、誇らしいわ」


 こんどは腕を組んで、ウンウンと頷く春山先生。

 そこまで褒めるようなことだろうか? イヤな気分ではないが、そんな反応をされるとちょっと恥ずかしいのでやめてもらいたい。そもそも、この文章は僕だけの成果ではないのだ。

 糸杉の存在があったからこその――



に押しつけるカタチになっちゃって、内心ちょっと心配だったのよ」



 こそ、の……。


「……」


「……」


 ……。


 …………。


「……あっ」


 長い沈黙を経て、春山先生の表情が強張こわばった。手が口元を隠した。

 まずいことを言ってしまったんだ、と、僕でも感じられた。


 僕の世界に、ひびが、はいる。

 こわれていく。


「い、今のは、その、違くて」


 そのときだった。

 静かなソレは、唐突に響いた。





 ――、――……、――……。




 水面に水滴が落ちたように、そして波紋がゆっくりと広がるように、音が聴こえた。


 最初は軽く。

 でも、連続する一音一音が、知っている曲とは別の方向へとかじを取る。


「瀬、川くん……?」


 あの日と、曲調が違う。

 全身に電流が走ったように、僕は振り返った。


 記憶に刻まれたあの曲は、未来に対する光を透かすように奏でたメロディーだったのに。木漏れ日に手のひらをかざすような旋律だったのに。

 今流れるコレはまるっきり……逆の……。


 硬直した手から、鞄がすべり落ちた。


「瀬川くん? 瀬川くん、大丈夫?」


 ガサリと床に叩きつけられる音も、先生が心配する声も、僕には届かない。

 遠くから聴こえる音に全身を貫かれて、気にならない。

 そう。

 ずっと遠くから、

 廊下を反響して、

 微かに、でも、確かに。


「っ!」

「瀬川くん!? まさか――ダメっ!」


 僕は反射的に走り出した。

 ガラッと乱暴に戸を開け放ち、止める声も振り切って駆けた。


 以前と異なる曲調でも、感覚でわかる。同一人物であると。

 この丁寧な弾き方。心に直接響かせる透明感あふれた弾き方。ピアノが同じというだけじゃ説明できない確信が、強く僕の背中を押す。

 きっと、どこかで分かっていたんだ。ただ目をそらし、見ないようにしていただけ。

 顔の見えない演奏者。

 そいつから放たれる空気の振動が、数日まえとは別の色を形づくっている。危機感にも似た焦燥が僕を満たし、走らずにはいられない。



 ……、――、――……。



 今ふたたび胸を打つ旋律。

 それは神秘的、かつ、ありふれたイメージを彷彿ほうふつとさせる。

 誰もが心に飼っている、恐怖という化け物を表わしている。

 込められたうれいの感情。

 混ざる悲哀。

 暗い水面を透過するかのような感覚に、鳥肌が立つ。息切れの合間にノドを鳴らして、僕は走った。


 階段のまえを抜け、棟を分かつ連絡扉をくぐる。休日にもかかわらず開けっぱなしのソレを抜ければ、音はさらに鮮明に世界を彩る。

 視界の横、流れる景色に入り込む淡い色はそのままに、世界が存在感を増したような気がする。僅かな光を混ぜて、行く先を照らす。

 角を曲がり、彼方かなたに目を向ければ、それをさらに強く意識した。




 ――……、――。



 ――、――、――。




 音は心に直接、さらに深く、訴えかけてくる。

 複雑に絡み合い複雑に混ざり合い、できあがったどうしようもない世界観。

 憂鬱も、後悔も、暗い面をどこまでも透明に描いている。

 だが、それだけじゃない。

 ただ暗いだけでは決してない。


「はぁ、はぁ……っ、」


 一度止まり、息を整える。


 廊下の向こう。

 見慣れたはずの、空き教室の戸が、開け放たれていた。

 間に合え。

 そう願い、僕は最後の直線を走った。


 濃くなる存在感に、酷使する足が震えた。


 音から見え隠れする感情に僕は気づいた。気づいてしまった。


 この、曲は、



「……ッ!!!!」



 声にならない声で、名前を呼んだ。

 開け放たれた戸の向こうに飛び込んだ。

 

 踏み入れた空き教室。

 小窓というフィルターを通してしか見ていなかった世界に、僕は目を見開いた。



 木目の床。

 教室のど真ん中に置かれたピアノ。


 持ち上げられた屋根に、白と黒を覗かせる鍵盤。


 埃と息苦しい空気に満たされていたはずの空き教室は、窓がすべて解放され、庭に並ぶ桜の花弁が舞い込んでいた。



 ――、――、



 ――、――、――……。



 窓際の床に薄く積もった桃色が、微風にすべる。

 斜めに差し込む光が、部屋に日なたと日かげの対比を生む。



 演奏者はいない。

 なのに、音は確かにそこに残っていた。


 初めて聴いたものとも違う。先日聴いていたものとも違う。

 にもかかわらず、彼女のものと理解できる不思議な音で満たされている。


 呆然と、その光景を見つめた。

 指をピクリとでも動かしてしまえば、不思議に惹かれるこの音が、途切れてしまう気がした。



「……、」



 人生とは、憂鬱で、息苦しくて、どうしようもなく真っ暗だ。

 後ろを振り返れば、すべてを失った色のない現実が口を開ける。

 いつだって、僕の底なしの世界は、水面が覆っていた。

 冷えた感情が、ぽっかりと空いた胸の奥を満たしていた。



 ――、――。



 ――、――……。



 そんな僕の世界に、波紋が広がる気分だった。

 桃色の花弁が浮くように、暗いだけの水面に色が落とされた。

 先の見えない、暗い目で見つめるだけの未来に、淡い光を見いだした。



 音が、小さくなっていく。

 僕の内面に弱く、されど確かなものを残して去って行く。暗いものを取り除いて消えていく。


 役目を終えたように、ゆっくりと、遠ざかっていく。


 追いかけることはできない。

 きっと、最初で最後。







 いつしか、教室には。


 舞い落ちる花弁と、沈黙するピアノと、静寂に包まれた空気。


 そして、袖で目元を拭う僕だけ。




 演奏者のイスに供えられたお汁粉しるこの缶には、ひとひらの花びらが乗っていた。







 ――fin.

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