2. ありきたりな一日
あの日、止んでしまった音楽の出所を探して辿り着いたのが、校舎の端っこの端っこに位置する、この教室。
ガランとしていて、壁際にひとつ、理科の試験管やら備品を詰め込んだ棚。黒板は綺麗に深みどりを保ち、チョークは置かれていない。机がすみっこに置かれている以外は、ど真ん中にピアノがあるだけのもの寂しい教室。
当時は鍵もかかっていなくて、自由に入ることができた。もちろん演奏者はすでに立ち去っていて、楽譜すら残されてはいなかった。
僕は詰まった空気と積もった埃を、戸の小窓からのぞき込んで確認した。
あの日のピアノに対する衝撃。間近で聞けなかったことに対する落胆。
――あれから一年。
恋にも似たあの経験は、僕を
ピアノの音が流れていないのだから、奏でる演奏者もいないはずなのに、毎日バカみたいに通いつめていた。
今日だって、もしかしたら演奏者に会えるかも、なんて密かな期待を胸にここへ来ている。しかも出入り口の前で昼飯なんて食べている。休日でもなければ、僕は生徒から変人として見られていることだろう。
もちろん平日は目立たないように、食後に見に来るだけだ。しかし誰もいない休日くらいは、ここでコンビニのパンを食べたい。そんな願望を、一年後の今日、叶えたのだ。
まあ実際、こんなことをしても演奏者に会えるわけじゃないんだけど。
考えてみれば、生徒はみんな休みなんだから、演奏者もここへ来るわけがない。
つまりはただの変なヤツ。
僕は休日に変なところで飯を食う、ただの不審者だった。
しかし、ここまで来てしまった手前、戻るのも面倒。僕は座ったまま、もぐもぐと咀嚼を再開した。
食べ慣れたピザトーストの味が染み渡る。床の冷たさに耐え、無音の廊下の先を眺めながら食事を続けた。
……やっぱ教室行こうかな。
はやくそうすればいいものを、数十分にわたりその場にいた僕の懐が、不意に振動した。
「ん」
幼馴染の糸杉カヤノから、メールの着信だった。
『着いたよー、職員室前で待ってるー』
のほほんとした口調がそのまま表れた文面。寝坊で遅刻した彼女が、ようやく到着したようだ。
僕は立ち上がりズボンを叩くと、空き教室の戸を一瞥して職員室へ向かった。
「もー、また空き教室行ってたのー? 懲りないねぇりっくん」
「休日にくることなんてめったにないんだから、いいだろう」
薄い茶色の髪を揺らした糸杉に「バカだねー」と笑われながら、僕は職員室の扉を開けた。
「ああ、来た来た」
休日ということもあり、まばらにしかいない職員室。
その一画で、手を挙げる先生がいた。
「すみません遅れて」
「いやいや。休日だものね」
化学の授業を受け持ちながら、僕のクラスの担任も務める春山先生が笑った。
優しい、生徒にも人気の美人な女性教員。クラスメイトには「アタリだやったぜ」と騒ぎ、怒られた生徒もいる。生徒個人の悩みなどにも真摯に向き合ってくれる、男女問わず好かれている先生だ。
春山先生はなぜか職員室でも白衣を羽織っていたが、それを気にするまえに紙の束を渡される。
「多いねー」
のぞき込んできた糸杉が間延びした声で驚く。
手渡されたのは原稿用紙だった。
「ごめんなさいね、春休み前の最後の休日に。その原稿用紙すべてを埋めなさいってわけじゃないから安心して」
「は、はあ……」
なんでも、この学校の記事が新聞の特集に載ることになったらしく、生徒代表として僕が選ばれたようなのだ。先生曰く、友人と一部ずつ書いてもいいらしいので、構成は糸杉と二分することにした。
二年生の帰宅部である僕らに任された――否、押しつけられた大役だった。
書く内容なんてあまり思いつかない。
そんなのはどのクラスのどの生徒にも言えたこと。ただ帰宅部でまわりから『暇そうに見える』、いち男子生徒が選ばれてしまっただけのこと。
そんな僕を案じて協力してくれる糸杉には、感謝しかない。
糸杉はそこまで成績が良くない。定期試験の勉強は僕が見ることが多く、そのためなんとか赤点を回避できているが、ちょっと目を離した
ゆえに、彼女がこういったことが苦手なのを理解している分、余計にありがたかった。
「じゃあ一週間後までに仕上げて、持ってきてね。事務には話を通しておくから」
「わかりました。糸杉の分までがんばります」
「えー、酷いんですけどぉ! いきなり戦力外通告じゃんー」
「ふふ、頑張って」
微笑む春山先生はとても美人で、クラスメイトが騒ぐのも頷ける気がした。
もちろん、僕は顔に出さない。いつもの冷静な自分の仮面を貼り付けて、素直な当たり障りのない生徒を演出した。
職員室を後にすると、僕の言葉に憤慨する糸杉を宥めながら帰路についた。
人気のない校内を抜け、僕らの家がある方へ向かう。コンビニでご機嫌直しにお
糸杉は缶を片手に、またのほほんとした受け答えをする。僕にとってはこの高校における数少ない話し相手であり、こういう時間は落ち着くことができる。学校では変に気を引き締めなければならない人ばかりだが、この糸杉だけは例外だ。
さしあたって話題は、先ほど渡された原稿用紙についてであった。
「どうするー? わたし的にはりっくんの家で書きたいんだけど」
「構わないよ。明日は午前だけ登校だから、午後でもいい?」
「いいよー」
糸杉はなにもない歩道を、たん、たん、と飛びこえるような歩き方をしていた。
子供が戯れる様にも似た、不思議な一歩。チョークで円が描いてあるわけでもなければ、横断歩道のような
地下通路にさしかかると、糸杉はすこしテンションがあがったのか、ふらふらと身体を揺らしながら歩いた。そして地下通路を抜けた先で僕の方を振り向き、こんなことを言う。
「で、なに書けばいいのー?」
僕は頭にチョップした。「あいてっ」と声を漏らす糸杉の、向こう見ずさに呆れる。
「話を耳にしたとき、面倒そうだな、とは思わなかったのか?」
「……思ったけど」
「糸杉の苦手な内容だってことに気づいてたんなら、無理して僕に付き合わなくてもいいんだよ」
言っておきながら、僕は口走ったことが恥ずかしくなり、先立って歩いた。
正直、一緒に犠牲になってくれるのはありがたい。一人で取り組むよりはずっと
だがそこには、どうしても申し訳なさが同居してしまう。
幼少期からマイペースな気分屋の糸杉は、周囲から可愛がられることが多い。天然、不思議ちゃん、小動物。様々なキャラ付けがされていた。だけどここまで付き合いが長いと、新しく見えてくることもある。
例えばそれは、内面の成長。
糸杉も一人の人間であり、成長とは切っても切れない関係。誰かの背中を追いかけていたこいつも自分で考え、判断くらいする。
だから、糸杉が協力してくれる意図も察してしまう。
『単純に幼馴染みだから』、『なんとなく』などという行動理由は彼女の中からは消えている。糸杉は糸杉なりに考え、選択し、こうして休日を削ったのだ。
その証拠に、小走りで近づいてきた糸杉は僕に追いつき、頬を膨らませた。
「別にいいでしょー、私の勝手なんだからー」
「いやでも、糸杉にまで迷惑をかけるのは……」
「
並んで歩く糸杉が、僕の横腹を小突いた。
「じゃあこうしよー。ハーベストでお昼奢ってよー。私まだ食べてない」
「なにがどうつながって『じゃあ』になった。さっきお汁粉奢ったじゃん」
「あれはおやつみたいなものだから関係ないのー!」
わざわざ前に回り込んで、糸杉は僕の足を止めた。
その理由は一目瞭然だった。
気づけば学校を出てからしばらく歩いたようで、僕らは左に曲がればもうすぐ自宅、というところまで来ていた。つまり、『ハーベスト』に行くのであればここで右へ行かなければならない。
「ハーベストで奢ってもらうから、その見返りに私が手伝う。おーけー?」
提案された強引な理由づくりに冷ややかな視線を送るが、彼女の意思は変わらないらしく、さっさと歩きはじめてしまった。ハーベストの方角へ。
「頑固者はどっちだ……」
僕はため息を吐いて、呑気なその背中を追いかけた。
ランチハウス『ハーベスト』は、僕と糸杉が幼いころからお世話になっている店だ。アーチ状の屋根が特徴的な、昔ながらの雰囲気を残す木造の飲食店である。
僕と糸杉は、ちょうど空いていた奥のテーブル席に座った。互いに向き合うカタチで、窓へ寄って腰を落ち着ける。
休日ということもあってか、店内はいつもより客が多い。中には同じ学校の生徒も見受けられた。もちろん僕らとは異なり、私服だったけれど。
この店の良いところは、テーブル席とテーブル席の間に観葉植物が置かれ、視線をいくらか避けられるところだ。僕と糸杉がそろって窓側へ身を寄せるのは、単純に景色を楽しみたいだけではない。通路側よりも人目に付きにくいからである。
家族四人で来店した客が二人で見せ合うメニューを、それぞれ独占して開く。
僕はアイスティーとポテトを適当に決め、糸杉を待った。
糸杉はというと、ステーキとオムライスのページを行ったり来たりしていた。どうやら僕の奢りであることを気にしているらしい。値段? それともカロリーだろうか。
「いらっしゃいま――おう、来たんか」
お冷やとおしぼりを持ってきたスタッフが、かしこまった言葉づかいを崩した。二人が見知った客であるとわかった途端、おじさんはニヤニヤと笑う。
「なんだぁ? 休日に制服とは、悪事でもやらかしたんか」
「違いますよ。むしろ逆、クラスの人柱になる手続きをしてきたんです。ポテトとアイスティー」
「なんだそりゃ。お前さんの学校は祟りでも起きてるんか? ポテトとアイスティーね」
いつもより客足が多いというのに、この男は暇つぶしのように僕らと話していた。バイトもいるとはいえ、キッチンのお
と、糸杉がメニューから顔を上げた。
「ねぇー、りっくん。このステーキとこっちのオムライス、どっちがいいと思うー?」
「訊いてみればいい。おじさん。これとこっちのページのこれ。どっちが料理の手間かかる?」
「え? うーん、オムライスの方じゃねえかなぁ。肉はバイトに任せられるけど、オムライスはそうもいかねえからな」
「じゃあオムライスで」
「……」
僕が追加で注文すると、おじさんは露骨に嫌な顔をした。
おそらく、オムライスをつくる担当がお上さんなのだ。焼くだけの肉はともかく、卵で包まなければならないオムライスは、この混み具合で注文されたくないのだろう。叔母さんから理不尽に怒鳴られている光景が目に浮かぶ。
「あとオレンジジュース、ぜんざいでー」
糸杉が追い打ちをかけた。
「いつもどおり、オレンジシュースは先、ぜんざいは食後にしてよ」
「はぁ……。嫌な顔されるこっちの気も遣ってくれよ。ただでさえ面倒だっつうのに。まあいいけどよ。オムライス、オレンジ、ぜんざいな」
ダルそうに注文を伝えに行くおじさんを見届け、糸杉はクスリと笑った。
ここへ来るときはだいたいあのおじさんがいる。僕らにはとてもよくしてくれる親切な人で、クリスマスや誕生日に来るとサービスしてくれることもある。
僕と糸杉にとって、ここは落ち着いて話せる貴重な場所であった。
「相変わらずいいお店だねー」
水で
僕も口にはしなかったが、同意見だった。
「そういえば、さっき気になったんだけどー」
「なにが?」
思い出したように話題をふった彼女。
いったいなんの話なのかわからず、聞きかえした。おじさんのことだろうか? それとも注文内容のこと? コンビニで買ったお汁粉のこと? 原稿用紙のこと?
しかし、糸杉が答えたのはそのどれでもなかった。
「先生に鼻の下、延ばしてたでしょー」
「は?」
思わずぽかんとしてしまった。
向こうは真面目な顔で、真っ直ぐ見つめてくる。どうやら本気でそう思っているご様子。心外だった。
「まぁわからなくはないよー? 美人だもんね。足は長いし、髪もキレイだし。男子が騒ぐのもわかるよー」
「いやいや、待て。僕はべつに鼻の下を伸ばしてなんかいないはずだけど。うん、間違いない」
「顔じゃなくてー、頭の中の話。どうせ『やっぱこのひと美人だなぁ』とか『踏まれたいなぁ』って思ってたんでしょう」
「ないない」
「ほんとにー?」
「ないよ。僕がどういうヤツか糸杉ならよく知ってるだろうに」
「むぅ……」
幼馴染みにだけ効果のある言い返しを放つと、糸杉は難しい顔で黙りこくってしまった。僕は内心、『勝った』と思った。
しかし、今度は別の疑問が浮かんだらしい。また返答に困る質問が飛んできた。
「りっくんは好きなひと、いないのー?」
「……」
「りっくんは好きなひと、いないのー?」
「聞こえてる、聞こえてるから」
「真面目に答えて」
こ、これは……あれか? いわゆる恋バナというやつでは?
まさかあの糸杉がこの話題を持ち出してくるなんて。いつもはテレビ番組とかゲームのこととか、どうでもいいことばかりのはずなのに。
僕以外の友達とはよくしていることなのかもしれない。けれど、幼馴染みの僕とはまるでしたことがなかった。
なぜか?
友達の少ない自分に、よく付き添ってくれる糸杉。その関係性をもてはやす存在が中学にはたくさんいたからだ。互いに暗黙の了解のように、この手の話題は避けてきたつもりだった。
だというのに、今更になってこの変わりよう。彼女の心境になにか変化があったのだろうか。
「――から、男子はけっこう簡単に恋に……りっくん聞いてる?」
「え、ああうん」
「嘘つき。ぼーっとしてたー」
「聞いてたよ。で、なんの話だっけ。モル計算の話だっけ」
「やっぱり……聞いてないじゃん」
不満げな表情をする糸杉に、僕は「ははは……」と笑いかけ、ご機嫌をとる。そこから、初めて恋愛についての会話をはじめる。
糸杉の思うあこがれのシチュエーションや、僕の知らない生徒の恋愛模様など、次々と話が広げられていく。
やや気恥ずかしさはあったけれど。ただでさえこういうことを話す相手がいない僕にとっては、幼馴染みとのやりとりはとても新鮮で、楽しかった。
注文したポテトやオムライスが来てからは、意識も食べ物に持って行かれた。
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