ソルフェージュの無人教室

九日晴一

1. 空き教室のピアノ

 その日の僕は、窓から庭を囲む桜を眺めていた。


 新入生向けの簡単なガイダンスを終えて、教室の空気はわずかに弛緩しかん。中学からの知り合い同士か、それともすでに仲良くなったのか、クラスメイトたちは口々に話し始めた。

 高校生活において、まさに走り出しとも言える今日。クラス内における立ち位置、ヒエラルキーが形成される重要な時間。それを理解しておきながら、僕は孤独に外を見下ろしている。

 この時点で、クラスメイト諸君は気づいたことだろう。人間関係構築に欠かせない最初の一歩を棒に振る僕が、どういう存在なのか。


「あの、」

「……はい?」

「瀬川リツキくん、だっけ。席近いし、交換しない?」


 話しかけられ、ゆるく笑みを浮かべながら、内心では事務作業をするように携帯を操作した。

 僕にも連絡先交換の機会がまわってきたのは、予兆だったのだろう。

 クラスのカースト上位を独占した集団が交換会を始めたのを横目に見て、僕は席を立った。巻き込まれないように、教室を出ようとして。


 そのときだった。

 あのピアノが聞こえたのは。




 教室を出て、耳を澄ませる。

 生徒の喧噪けんそうに交じり、隠れるようにひっそりと流れてくる音の連続。

 知らない曲だった。

 音楽の知識は中学で受けた授業止まり。楽譜の読み方の基礎は押さえていても、すこしその道に踏み込めば迷子になる僕だ。有名な楽曲の名前も知らず、この手の世界に関しては無知に等しかった。今まで興味を引く演奏など一度も聴いたことがなかったのだ。


 なのに――その音には不思議と惹かれた。


 音楽室で聴くものとは全くの別物。

 今までピアノだと思っていたものからは感じられなかった、透明感のある音の連続。廊下を彷徨い歩くうちに大きくなる楽曲は、遠くからでも胸の奥にさざ波を立てた。

 わずかに反響し、声に紛れる音をたぐり寄せるように追いかけた。

 止まらないうちに。

 見失わないうちに。

 早歩きで、部活の勧誘も全部無視して歩いた。


 ようやく騒がしい一帯を抜けて、気づいた。

 その音が、音楽室とはまったく別の方向から響いていることに。

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