第364話 夜の森の迷宮(37)

 鈍く発光する壁や天井に薄っすらと照らされ、黒アリスちゃんがベッドの上に薄っすらと浮かび上がる。

 ネグリジェ姿だ。薄く柔らかな布が身体のラインを俺の視覚に伝える。


「ミチナガさん――」


 顔の距離が近い。

 夕食前とは打って変わった、か細いささやきがかすかに聞こえた。吐息といきが喉元に掛かる。


「――来ちゃいました」


 そう言うと頬を染めてわずかに視線を逸らす。彼女の左手が俺の右胸にそっと置かれた。


 初めて出会った頃のように、少しおどおどしたところがある。

 酒場で大勢の酔客に怯えながらも、俺の後ろを付いてきた頃の彼女を彷彿ほうふつとさせる。遠慮がちに俺の服の端をつまんで、離れないように必死に付いてきた。その時の光景が鮮明に蘇る。

 あの頃は本気で守ってあげたい、と思ったな。


「来ちゃったって……」


 喉元まで出かかった説教くさい言葉を呑み込む。名残惜しいが黒アリスちゃんの左手をそっと引きはがし、少しだけ身体を起こす。


「迷惑ですか?」


 ハッキリ言って迷惑だ。いや、色々と捨てて掛かれば大歓迎なのだが、今は態度を明らかにするわけにはいかない。

 平常心だ、俺。

 ここを乗り切れば何とかなる。ダンジョンを攻略して黒アリスちゃんとベスを引き離せばすべて元通りだ。


「迷惑な訳ないだろ」


 少し不安げな顔をした彼女に向けて優しい笑みを返すと、それに応えるように彼女の顔に笑みが浮かんだ。


「嬉しい」


 ささやくような一言。はにかんだ表情と仕草。

 そう言って身体を密着させると、覆い被さるように抱き付いてきた。下着を着けていないのはすぐに分かった。薄く柔らかな布一枚を隔てて彼女の胸が当たる。若い女性特有の甘い香りが鼻孔をくすぐる。


 まずい。一線を越えたらパーティー崩壊だ。

 このまま流されたりしたら『普段は黒アリスちゃん。落ち着いたら、ときどき遠方のベス』、というバラ色の未来が露と消える。


「黒アリスちゃん――」


 出来るだけ平静を装って語り掛けた。


「ミチナガさん、同じ転移者同士です。私を――」


「皆のところへ戻るんだ」


 後に続く言葉を聞くわけにはいかない。彼女のセリフを途中で遮って、大人の余裕と分別を示す。


「無理ですよ――」


 瞳に妖艶な光が宿る。


「――だって、ミチナガさんが腰に手を回して、私、動けませんから」


 言われて初めて気付いた。無意識のうちに彼女の腰に手を回していた。


 黒アリスちゃんの口元が勝ち誇ったように綻ぶ。動けないと言いながら、身体をずらして俺の上に覆い被さる。


 俺の腹部に押し付けた双丘の位置が、腹部から胸へと艶めかしい動きを伴ってゆっくりと移動する。

 瞳をうるませた顔が近づいてくる。唇がわずかに開かれていた。


 うるんだ瞳が閉じられ、唇が迫る。

 彼女を抱きしめ、目を閉じて唇を重ねる。柔らかく暖かい感触が広がる。


 彼女の唇が先をうながすように、さらに開かれた。

 背中に回した両腕に力がこもる。俺の胸に押し当てられた彼女の双丘が形を変える。柔らかな身体の感触に思考力を奪われる。


『黒アリスちゃんは女子高校生で俺は社会人、ここは大人として毅然とした態度を取るんだ』


 そんな地球にいた頃の良識と、


『十五歳で成人、彼女はもう大人の女性だ。責任さえ取れるなら何をしても問題ない』


 こちらの異世界の常識が交互に頭のなに浮かんでは消える。


 柔らかな感触と温もり、開かれた唇の誘惑を振り払って、体勢を入れ替える。

 一旦身体を起こして、ベッドに横たわる黒アリスちゃんの顔を見下ろす。


「ミチナガ、今夜は随分と情熱的なのですね」


 輝く金色の髪がベッドに広がり、潤んだエメラルドグリーンの瞳が妖しく輝いていた。


「女、神さま……なぜ? え?」


 あれ? これ、夢だったのか? いつから?


「何故、もないでしょう? いつも通りですよ」


 そうだ、いつものように夢の中に女神さまが現れたのか。

 と、いうことは、助かった、のか?

 いつもの夢の中の出来事だと分かった途端、安堵と虚脱感が襲ってきた。


「夢、ですよね?」


 取り敢えずパーティー崩壊の危機は回避できたようだ。


「どうしました? 何をほうけているのですか?」


「女神さま。良かった。女神さまで、本当に良かった」


「だからどうしたのですか? 話してくれないと分かりませんよ」


 覆い被さる俺を受け入れながら優しく微笑む。


「いえ、なんでもありません。ちょっと夢を見ていました」


「またいつものように私が来たことを認識するまでの間、他の女の夢を見ていたのですか?」


 ベッドに横たわったまま、少し拗ねた様子で俺の事を見上げた。

 バレている。


「その、申し訳ありません」


 正直、助かった。あれが本物の黒アリスちゃんだったら、あのまま流されていたら大ごとになっていた。


「別に謝る必要はありません。こうして貴方を独り占め出来ているのですから、ほんの少しだけ夢を見るくらいは許してあげます。私はこう見えても寛容な女なんですよ」


 あれ? 女神さまじゃなく『女』になっている?

『寛容』という単語にも引っ掛かるが、それ以上に『独り占め』『少しだけ夢を見るくらい』という言葉の方が気になる。まさか誰の夢を見ていたとかどんな夢だったかが筒抜けだったりしないよな?


「女神さまは俺が誰の夢を見ていたのか分かるんですよね」


 恐る恐る聞くと、何でもない事のようにさらりと答えが返ってくる。


「分かりませんよ」


「本当に?」


「本当です。仮にミチナガの夢の中を覗く事が出来たとしても絶対にしません」


 あ、拗ねた。可愛いな。


「俺がどんな夢を見ているのか気になりませんか? ――」


 少しだけ意地悪をしたくなる。


「――もしかしたら、他の女性の夢を見ているかもしれませんよ」


 俺の笑みを見ると、わざとらしく顔を横に向けて視線を逸らす。


「気にならないと言ったら嘘になります。ですが、たとえ夢の中でも貴方が他の女と仲良くしているところは見たくありません」


 顔を横に向けた状態で視線だけ動かし、俺の表情を探るように見ているのが分かった。

 女神さまとは思えないほど俗物的だけど、こういうところは本当に可愛らしいよな。


「納得しました」


「ということは、やっぱり他の女の夢を見ていたんですね」

 

 女神さまの力強い視線が俺に向けられた。

 あれ? もしかして妬いているのか?


「白状しましょうか?」


「女神である私に対してなら、そこは『白状』ではなく『懺悔ざんげ』でしょ――」


 そう言って小さなため息を吐く。


「――私と一緒にいるときに他の女の話はしないでください」


「そうですね、無粋ぶすいでした」


「さあ、続きをしましょう」


 俺はベッドの上に身を投げ出した女神さまにいざなわれるまま、彼女に覆い被さって唇を重ねた。


 ◇

 ◆

 ◇


 傍らで穏やかにほほ笑む女神さまの髪を撫でながら聞く。


「二つの世界が共存する事は出来ないのですか? 二柱の女神さまが手を取り合えば、どちらの世界も存続できますよね?」


「あり得ません。生き残るのはどちらか一方です」


「一度、女神さま同士で話し合いをしてはどうでしょうか?」


「あんな女と手を取り合うなんてあり得ません」


 髪を撫でる俺の右手を取ると自身の左頬にそっと持っていった。


「歩み寄るのは?」


「私は歩み寄っても良いと思っていますが、向こうは違うでしょう。私たちが互いに手を取り合うときは、もう一方の手にナイフを握っているはずです」


 何というか、ルール無視に裏工作。さらに意地の張り合いと、どっちの女神さまも神さまとは思えないほどに狭量だよな。

 というか、本当に五千年も女神さまをやっているのか? とても年上とは思えない。


「可能性も残されていないのでしょうか?」


「微塵もありません」


 きっぱりと言い切ると左腕を俺の首へと回す。


 どちらか一方だけか。何とも後味が悪すぎる。

 出来るなら、どちらの異世界も救いたい。これについては後で皆に相談をしてみよう。


 俺は抱えた質問と積み上がった問題を一先ず思考の外へと追い出して、女神さまに応じる事にした。

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