第363話 夜の森の迷宮(36)

 一糸まとわぬ少女が瞳を閉じたまま、白い霧の中に立っていた。いや、浮いていた。


 ツーサイドアップにして尚腰まで届く漆黒の髪。白磁の肌に漆黒の髪が映える。豊かなその髪が風もないのに白い霧の中になびく。

 不意にまぶたを開けると澄んだエメラルドグリーンの瞳が露わとなった。


 北欧の人種を連想させる白い肌とエメラルドグリーンの瞳と、どこか東洋の人種を思わせる漆黒の髪と容貌。

 それは少女が二つ以上の人種の血を引いている事を容易に想像させた。

 

 少女は一糸まとわぬ自分の姿を気にする事無く、その美しい瞳をせわし気に動かして辺りを探りだす。


「女神さま? 女神さまですよね? ――」


 涼やかな声が辺りに響く。少女は自身の声が消えても反応がない事に不安げな表情を見せる。


「――女神さま、女神ノールさま。お願いです、返事をして下さい!」


「くうか、んが不あ、てい、です。じか、んも、あり、せん」


 途切れ途切れで声が聞こえた。それは少女にとっては数回目となる、聞き覚えのある声が響く。

 少女はいつも以上に言葉が聞き取りづらい事に若干の苛立ちを覚えた。


「女神さま! 今日はどのようなお話でしょうか?」


「コ、トノ・タ、チバ、ナ、や、なさい。闇、じょ、お、を、し、とめ、さい」


 女神ノールからコトノ・タチバナと呼びかけられた少女はすぐに反応を示す。


「闇の女王? 闇の女王ですよね? それは誰のことですか?」


 誰と問うが、コトノ・タチバナの脳裏には一人の少女の姿が浮かんでいた。


「も、塞、がって、し、う」


「待って! 約束は? 約束は守ってくれるの?」


「守り、す、必ず。女、神ノー、ル、名に、懸、て」


 女神ノールの声が消え、霧が一層深くなると、コトノ・タチバナはそのまま意識を失った。


 ◇

 ◆

 ◇


 見張りをしているティナとアレクシスの二人以外は全員寝静まったようで、聞こえてくるのは静かな寝息だけだった。


 俺はベッドの上で何度目かの寝返りを打つ。

 夕食後に白アリに言われた言葉が頭に浮かんでは消えを繰り返していた。


 ▽


「ベスちゃんは人から優しくされた事がないって言っていたから、優しくされて舞い上がっているだけかと思ったけど、違うようね――」


 真っすぐに俺を見てそう言った。どこか責められているように感じたのは俺に後ろめたさがあったからだ。


「――ベスちゃん、本気であんたに惚れているわよ」


「さっき説明した通りだ。勘違いさせるような接し方をしたかもしれない、誤解されるような言葉を並べたかもしれない。だが、誓って責任を取らなければならない事はしていない」


 瞬間、ベスの『責任取って下さいね』というセリフがフラッシュバックした。


「何にもなしで、あそこまで入れ込む女がどこの世界にいるのよ? ――」


 言わんとしている事は分かるが、実際に何にもなしで入れ込まれているんだよ。

 白アリの俺を睨む目が険しくなった。


「――はぐれていた間にベスちゃんに何をしたの? 白状しなさい」


 まるで信用していないんだな。


 確かにベスの俺に対する態度は少し行き過ぎな気もする。

 細かい事を言えば幾つも思い当たるところがあるが、最たるものは『騙すだけだ』との俺のセリフから『一生騙し続けてください』とベスがつぶやくまでの流れだろう。


 何か勘違いしているとすればその辺りだ。


「思い当たるところが一つだけある――――」


 俺は青オルトロスを仕留めたときの流れから、そのときに聞いたベスの不幸な過去の話を詳細に説明をした。

 最後に俺とベスのセリフをそのまま白アリに伝える。


「――――『信用出来る男が現れるまで俺が騙してやる。ちゃんと騙されろよ』そう口にした俺に向かって、ベスは涙を流しながら『別に騙されるのはいいんです。ずっと騙し続けてくれるなら、それで満足です。ですから、一生、騙し続けてくださいね』って。そう言うと抱きついて泣いていた」


「はあ? 本当にそんな事を言ったの?」


「青オルトロスとの激戦と勝利しての安堵、吊り橋効果もあってベスも舞い上がっているだけだ。ダンジョンの攻略を終えて元の生活に戻れば元通りの関係に戻るさ」


「あんたって、バカだったのね、本当にバカだったのね――」


 右手の人差し指と中指をこめかみに当てて小さくかぶりを振る。続いて一つため息を吐くといつになく真剣な表情を見せた。


「――黒ちゃんは本気であんたの事が好きよ」


 黒アリスちゃんの話題?

 銀髪との戦闘のとき、黒アリスちゃんに左胸をメッタ刺しにされた光景がフラッシュバックした。


「ああ、知っている」


「ベスちゃんも本気であんたの事が好き。きっと黒ちゃん以上に周りが見えていないわ、彼女」


「そうなのかもしれない」


 白アリの眉が跳ね上がった。


「愛情に飢えていたどころか、彼女は男性から向けられる好意や愛情すら知らなかった。田舎の村を飛び出したばかりの娘が、刺激の中で出会った頼りになる男性。今まで想像もした事の無い刺激的な世界に手を引かれるままに連れ出される。不安と興奮に翻弄ほんろうされる中、次々と訪れる危険と冒険。優しい言葉を掛け、自分が傷つく事も顧みずに守ってくれる――」


 改めて白アリの口から聞かされると、世間知らずの田舎娘を騙す悪い男に聞こえる。

 しかもベスを襲う危険や冒険のほとんどがマッチポンプ。やっているのは俺だ。


「――迂闊うかつだったわ。あんたとベスちゃんを接近させすぎた」


 白アリが心底後悔した様子で唇を噛んだ。


「誤解があるようだが、俺はベスを選ぶつもりはないぞ」


「当たり前でしょう。ベスちゃんを選んだら、パーティー崩壊しかねないもの」


 ▽


「パーティー崩壊……」


 俺はなかなか眠れない事に苛立ちを覚えて大きく寝返りを打つと、無意識のうちに白アリのセリフをつぶやいていた。


 パーティーを崩壊させるわけにはいかない。


 黒アリスちゃんは確かに好みの容姿ではある。俺に好意を抱いていてくれるのも嬉しい。

 初めて出会ったときに可愛らしいと思った。付き合えないかな? などと考え、あれこれと妄想を巡らせたのは事実だ。


 だが、今の距離感に慣れてしまったのも確かだ。

 特にこれ以上の進展を望んでいない、というのが偽らざる気持ちだ。


 逆にベスはどうだろう。

 危うくって手が掛かって、コロコロと表情が変わって、本気で甘えたり怯えたり泣いたりする。傍にいて守ってやりたい、構ってやりたいと思う。


 うん、間違いなく俺はベスの事が好きだ。

 だが白アリの言うようにベスを選ぶわけにはいかない。


 ダンジョンの攻略を終えたらベスにはラウラ姫の下に戻ってもらおう。それでパーティーはもとのまま。黒アリスちゃんから向けられるだろう好意にも応えない。それももとのままだ。

 空間転移を使ってラウラ姫のところに行けばベスに会える。


 ともかくこの場を切り抜ける。

 ここの攻略を終えたらベスをラウラ姫のところへ戻して黒アリスちゃんと引き離す。


 それですべて解決だ。

 問題はこのダンジョンを攻略してベスをラウラ姫の下に返すまでの時間をどうしのぎ切るか。

 

「ミチナガさん――」


 横向きに寝ていると背後から不意に黒アリスちゃんの声が聞こえ、ベッドのマットレスが沈む感触が伝わってきた。

 寝た振りをしていると耳元でささやき声が響く。


「――起きていますよね、振り向いてください」


「黒アリスちゃん?」


『どうしてここへ?』という言葉を呑み込んで、ゆっくり寝返りを打つと、視界いっぱいに穏やかにほほ笑む黒アリスちゃんの顔があった。

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