第357話 夜の森の迷宮(30)
七十階層、そこへ足を踏み入れた途端、ダンジョンの様相が一変した。
突如現れたのはサッカースタジアムの四倍の広さはあろうかという、広大な空間。高さは二十メートル以上、堅牢と言われる城を囲う城壁の倍ほどもある。
その高さと広さに、俺は『空間に圧し潰される』ような妙な感覚に
巨大な二列の柱が対を成すように、並行して立ち並ぶだけの巨大な空間。
だが、荘厳ささえ感じられる。
全員がため息すら漏らさずに息を呑むのが分かった。訪れる、刹那の静寂。
それを軽やかな声が打ち破る。
「うわー、高ーい! 広ーい!」
「待ってー、私も行く!」
感嘆の声すら上げるのを忘れて広大な空間に目を奪われた俺たちをよそに、マリエルとレーナが大はしゃぎで天井へ向かって上昇していく。
「マリエル、レーナ、戻れ! まだ安全を確認出来ていない!」
俺の声が届いていないのか、あっという間に淡く光る天井付近に到達したかと思うと、広大な空間を満喫するように飛び回っていた。
無防備というか、無警戒というか。随分と気持ちよさそうに飛んでいるな。
まあ、空間感知には敵らしいものは引っ掛かっていないし、この大空間なら対処のしようもあるだろう。そうそう神経質になる事もないか。
「何だか、広さと高さに圧倒されます」
淡く光る天井と壁を見回しながら、黒アリスちゃんが恐る恐るといった感じで声を発した。続く聖女とテリーの声も、他の階層との様子の違いに緊張しているのが分かる。
「天井が高いですね。それにもの凄く広くて、何もありませんよ」
「構造上、最低限必要な柱があるくらいだな」
この部屋でわずかに装飾と呼べるものが施された巨大な柱が二列、並行している。
磨き上げられた床から天井に向かって伸びているその巨大な柱。そこに施されたレリーフに見入っていた白アリが口を開いた。
「これ、女神さまじゃないかしら? でも……ちょっと、違うかな?」
考え込むような表情で柱の周りをゆっくりと歩き出す。
「どうした、女神さまのレリーフでもあったのか? それとも神話とかか?」
神殿に女神さまや神話を題材としたレリーフがあっても不思議ではないが、ダンジョンとなると確かに引っ掛かるな。
白アリの反応と
「この女性、構図的に女神さまだと思うんだけど、ちょっと違わない? それに――」
柱の周りを歩いていた白アリの足が止まり、科白が途切れる。
「――この人たちの衣装……」
「仮にこの異世界の住人がこのレリーフを作ったとして、実際に女神さまご本人を見た訳じゃないでしょうから、正確さはあまり考えなくても……」
最初に白アリの
そこには召喚された時の、あの白い空間を
空中に浮かぶ女神さまと、それを
女神さまの服装と髪型もそうだが、全体的に雰囲気が違う。
俺の知っている女神さまじゃない。
「本当だ、女神さまだ。なんだろう、神話かな?」
「どこの国の服だろうね、見た事ないや」
俺たちと一緒に駆け寄ってきたリンジーとミーナも不思議そうに柱を見上げていた。
「昔の人たちのようだな」
日本語に切り替えるか迷いながら、アイリスの娘たちに聞かれても差し障りのない科白を口にすると、テリーも言葉を選んで話し出す。
「ちょっと感じが違うんじゃないのか? 或いは黒アリスちゃんの言うように正確に描けて――」
それを遮って発せられたボギーさんの日本語が響く。
「正確だ。そいつぁ、あっち側の異世界の女神さまだ。間違いネェ」
「私も同じ意見です。これは向こう側の異世界の女神さまです――」
ボギーさんに続いて聖女も日本語を口にした。
その声にいつもの軽やかさはない。
「――以前お話ししましたよね。あの白い空間で私たちは――双方の世界に召喚された私たちは一緒に居ましたが、見ていた、話を聞いていた女神さまは異なっていた、と」
「そうだったな、そんな話をしていたな」
『またですか』といった表情のアイリスの娘たちをよそに、俺も日本語に切り替えると、テリーもそれに
「じゃあ、これは向こう側の女神さまの事を
「ダンジョンが攻略されたか、死んだのかは知らネェが、こっち側に飛ばされた転移者なら出来るんじゃネェのか? だが、こんなものをわざわざダンジョンに作った理由までは分からネェなあ」
ボギーさんの、そのどこか憐れむ様な視線の先には、向こう側の異世界の女神さまがほほ笑む姿が
感触を確かめるようにレリーフを左手でなぞっていた黒アリスちゃんが、
「単に自分たちの知っている事を、後世に残したかっただけじゃないですか? ダンジョンを選んだのは……内容が内容なだけに秘密にしたかったから、でしょうか?」
ふと、誰とはなしに投げかけた質問。それに、視線を柱のレリーフに固定したままの白アリが答える。
「ここが安全だったからじゃないかしら?」
「そうですね。確かに安全でないと、これほどのものは造れませんよね」
少し考え込むような表情の黒アリスちゃんに、白アリが明るい口調で言う。
「何百年前かしらないけど、迷宮の守護者の了解をもらって、住み込みで作業していたのかもしれないじゃない?」
その科白に黒アリスちゃんが驚いたように振り向く。
「人語が解せる守護者ですか? ――」
一瞬、何かを思案するような表情をみせると、ゆっくりと口を開いた。
「――あのミノタウロスも高い知性を感じましたし、人語が解せる守護者がいてもおかしくありませんね」
「でしょう。それにこのダンジョン、なんだかおかしいのよねえ」
「そうですね、確かにこのダンジョンは安全な階層と危険な階層とではっきり分かれていますね。でも、なぜでしょう?」
なおも首を傾げる黒アリスちゃんに白アリが言い切る。
「それはここの守護者に聞きましょう」
白アリの言う通り、このダンジョンは普通じゃない。
俺たちが知っている数少ないダンジョンの知識だけでなく、アイリスの娘たちの知るダンジョンと比べてもおかしい。
魔物の出現しない安全な階層どころか、探索を支援してくれるかのような階層が点在する。
食べられる植物が群生している階層、武器や防具の修理ができるように鉄などの鉱石が産出できる階層と、探索に有効な階層があり、しかも魔物が出現しない。
明らかに普通じゃない。
本当に迷宮の守護者と会話出来るものなら会話をしたい。それにこのレリーフの事も――
自分の奴隷たちを遠ざけて柱を観察していたテリーに向かって、
「テリー、この先の柱を見てくれ! 俺は向こう側の柱を確認する!」
そう告げると、俺は対を成すように並行している反対側の柱へ向かって転移した。
「ちょっとー! どうしたのよ、いったい!」
先程までいた場所から白アリの声が響くが、俺の視線と意識は柱のレリーフに釘づけにされた。
心臓が大きく脈打つのが分かる。自分の鼓動が耳を打つ。血液がいつもより速い速度で身体を駆け巡っている。興奮しているが頭はいつもより冴えている。
『もしや』とは思ったが、予想通りだ。
先程と対を成すように並んだ柱、そこには同じようにあの白い空間の様子が
「テリー! そっちはどうだ?」
「続きだ! 続きが描かれている! こっちの柱には、転移直後と思われるレリーフがある! ――」
そう言うと、テリーはさらに先の柱へと走る。
「――こっちは強制転移の様子だ! 間違いない、これは前回の転移者の足跡を残したものだ! そっちは、ミチナガ、そっちは何がある!」
テリーの興奮した声が辺りに響き渡る。
「こっちの列の柱は、こちら側の異世界の足跡だ! ――」
俺の視線の先には、よく知っている女神さまがほほ笑んでいた。
「――俺たちの世界だ! 俺たちのよく知っている女神さまが描かれている!」
これは、大当たりかもしれない。
無理やり生贄にされている不幸な少女たちを救おうとして潜ったダンジョンだったが、思わぬ収穫が期待出来るかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます