第309話 駆け抜ける英雄たちの陰で
浅い角度で街中に射し込む早朝の陽光は、日中には人々の気力と体力を奪うほどに暑くなる事を予感させる。
だがそれと同時に、街中を吹き抜ける緩やかな風は、そろそろ季節が移り変わる事を予感させた。
夏の終わり、気温が上がる前に街中を吹き抜ける涼やかな風。
本当ならそんな風を胸いっぱいに吸い込み、その日一日の活力の糧とするところなのだが、今朝は様子が違っていた。
息をつめて足早に移動する住民たちが目立つ。それと同じくらいに顔をしかめて悪態をつく人々がいた。
いや、そもそも、昨日の半数ほどの人しか見当たらない。
人の少なさに違和感を覚えながらも、さらなる異常事態に、街中に充満する悪臭に人々は顔を歪める。
「畜生、鼻が曲がりそうだ」
一際強烈な悪臭の発生源となっている路地裏を覗き込んで一人の男がつぶやく。
「あの兵士たち、片付けて帰らなかったのかよ」
男の傍らに並ぶようにして、二人の若い男が路地を覗き込むと、諦めたかのような口調で零す。
「こんな悪臭じゃあ、野菜や食べ物なんて誰も買ってくれないだろうな」
「この時間でこんなんじゃ、気温が上がる昼頃にはどうなっているんだ?」
また別の場所では、屋台を背にして、汚物がまき散らされた道の端を眺めていた男と女の会話が聞こえた。
「片付けるしかないでしょう」
「俺たちがやるのかよ」
「兵舎に行って、片付けるように陳情するの? 聞いてくれる訳ないでしょう? ほら、あんた、さっさと片付けておくれ」
おそらく夫婦なのだろう、気安いやり取りをする二人。そんな彼らを見ていた、屋台を牽く別の若い男と女が顔を見合わせる。
「俺たちも片付けるところから始めるか」
「そうね、災難だと思いましょう」
そんなやり取りが街中のあちらこちらで見ることが出来た。
だが、本当に災難だったのは兵士たちだ。
兵舎に残った兵士たちは、身動きすら出来ずにベッドの中でうずくまっている者が大半だった。
わずかに動ける者たちもいたが、彼らは仲間の兵士たちがまき散らした汚物を掃除するために、悪臭を胸いっぱいに吸い込みながら兵舎内を走り回っている。
ベッドでは苦痛からの呻き声と領主へ向けられた怨嗟の声が響き渡り、兵舎を走り回る者たちからは同僚と領主へ向けた罵声が零れていた。
◇
夏の終わりを告げる風が吹き抜けるルオアテン市を、突然、轟音が鳴り響き、地響きが都市全域を揺るがす。
それは都市の人々が朝食を済ませ、戦争中であっても、変わるらぬ日々の営みに精を出していたとき。
或いは、都市に配属された兵士たちの大半が下痢と嘔吐に苦しみ、今が戦争中であることを忘れていたとき。
正門を見通せる広場。いつもなら所せましと幾つもの屋台が立ち並ぶ円形の広場で、混乱する人々の叫び声と走り回る足音が聞こえる。
それに混じって雷撃の閃光から逃れた者の声が響く。
「正門だ。正門が吹き飛ばされたっ!」
その言葉につられるように正門があった場所と、吹き飛ばされて巨大な木片となった正門だったものに人々の視線が集中する。
次の瞬間、轟音と共に正門付近の防壁が轟音を伴って崩れ落ちた。
大気が震え、大地が揺れる。
目の前でいとも簡単に吹き飛ばされた堅牢な正門と崩れ落ちる防壁。その目を疑うような光景と相俟って、住民たちはその場を動けずにいた。
恐怖と混乱に泣き出す者、何も出来ずにしゃがみ込んでいる者。
パニックに
その光景に人々の思考が停止した。
人々の脳裏を幼い頃より聞かされた一つの単語が過る。『輝く一筋の道』、それは神話に登場する英雄が駆けた道。
閃光と轟音、それに続く爆風と震動。それによって正門付近は瓦礫と化していた。
だが、大地が波打ち、波が去った後には瓦礫はなくなり、まるで整地されたように平坦な道が姿を現す。そしてその道を一際明るい輝きが照らし出した。
その輝く道を騎馬の一団が馬蹄を響かせて駆け抜ける。
「進めーっ! 住民と街中の兵士には目もくれるなっ! 目指すはベルギウス城だ!」
先頭を駆けるフレデリック・マーロン子爵の声が響く。
そこに続く兵士たちは自分たちの眼前に広がる光景に、自分たちが神話に出てくる輝く道を駆けている事に、高揚していた。まるで神話に登場する伝説の英雄になったかのような錯覚が襲う。
騎士たちの誰もが思う、誰もが錯覚しそうなる。それでも、誰も口にしなかった言葉を広場で茫然としている住民が口々にささやく。
「英雄の道だ」
「輝く一筋の道だ」
それは周囲に伝搬し、次第に大きな声となる。
「英雄がルオアテン市を解放に来たぞーっ!」
「おお! 女神ルース様っ」
「ラウラ様の軍勢だ、あれはラウラ様の軍勢だっ!」
「女神様の輝く道を英雄が駆けてくるぞっ」
そして、それは歓声に変わる。
住民の歓声に迎えられる中、マーロン子爵の騎馬軍団がベルギウス城へ向けて突き進む。
そのとき、ラウラ・グランフェルト軍の右翼からも地響きを伴った轟音が響き、都市の反対側に居ても分かるほどに粉塵が空高く舞い上がった。
一人の少女の号令が轟く。
「コロナ・カナリス隊、前進っ! この入り口がベルギウス城への最短ルートです。誰よりも早くベルギウス城を目指しなさいっ!」
少女は自分の名前を冠した部隊に、破壊された防壁を入り口と称して突撃を命じた。
◇
ベルギウス男爵が湯浴みを済ませたところに、窓から閃光が射し、続いて轟音が、大気の震動が、窓ガラスをビリビリと震わせる。
その轟音と震動に何事かと窓辺へと歩み寄ると、さらに爆発音が響き渡り、先程まで震えていた窓ガラスにひびが入った。
ひびの入った窓ガラス越しに都市の
窓に背を向けて扉へと向かいながら叫ぶ。
「誰か、誰かいないのかっ! 何が起こっているのか報告しろ」
次の瞬間、ガラスの割れる音に続いて部屋の中に不自然なくらいの突風が吹き込んだ。その突風はひびの入った窓ガラスを凶器へと変え、その凶器がベルギウス男爵へと向かう。
飛び散るガラスの破片が腰にタオル一枚を巻いたベルギウス男爵を襲った。
ベルギウス男爵は悲鳴に続いて、再び叫び声を上げる。
「誰か! 誰か治癒術師を呼べ!」
彼も多くの貴族の例に漏れず、治癒術師を抱えていた。彼の抱える治癒術師なら、今、彼を
だが、男爵の声に答える治癒術師もいなければ、治癒術師を呼びに行く家臣や使用人からも返事はなかった。
なおもその場で扉に向かって大声を上げる。
「誰かいないのかっ? 誰でもいいっ!」
「治して上げましょうか? 傷もその体調不良も」
背後から聞こえた涼やかな若い女性の声に、自分以外の人間が居るはずがないこの部屋で若い女性の声が聞こえたことに、ベルギウス男爵が驚いた様子で振り向く。
「何者だっ」
窓から射し込む陽光の中、瑠璃色のライトアーマーを装備した美しい女性が立っていた。
窓から吹き込む風に揺れる水色の髪が陽光に透ける。柔らかな生地のスカートを風が翻すと、深いスリットから白く魅力的な太腿が覗いた。
彼女はゆっくりとベルギウス男爵の方へ足を踏み出すとからかうように言う。
「このままではこのルオアテン市の領主として、ベルギウス城の城主として、首を
「な、なにを馬鹿なことを言っているっ」
「こうして、敵である私、それも何の戦闘力も持たない、ただの治癒術師が
確かに目の前にいる女性は短槍こそ携えているが、騎士や兵士には見えない。本人の言うように治癒術師か探索者といったように見える。
「それがどうした。今ここでお前を取り押さえる事はできるぞ」
「私一人を取り押さえてどうします? それで勝てると言うのでしょうか?」
その言葉にベルギウス男爵が押し黙る。
「今からあなたを治療して差し上げます。ですが、治療するのはあなた一人です――」
ベルギウス男爵は瑠璃色のライトアーマーを装備した女性の真意を測り兼ねて、何も言えずに見つめていた。女性は彼の反応などお構いなしに続ける。
「――先程も言いましたが、このままでは貴方が戦争の責任を取らされます」
「馬鹿な、私じゃない。私は命令に従っただけだ」
現グランフェルト辺境伯の命令に一方的に従っただけ。彼がそんな弱い立場にない事は周知の事実だ。
その事には触れずに女性は淡々と語る。
「貴方の代わりに、もし責任を取る者がいるなら、ラウラ・グランフェルト辺境伯に差し出す事で、許されるほどの人物がいるなら――」
ベルギウス男爵は女性の言葉を遮るように唾を飛ばして言い放つ。
「いる、いるぞ、この城に」
その言葉に女性は安堵するように、にこやかにほほ笑み、
「そうですか、それは幸いです。貴方の働きがより多くの方の命を救う事を期待します」
そう言うと、ベルギウス男爵に左手をかざして光魔法を発動させた。
◇
◆
◇
ベルギウス男爵は、彼には珍しく城内で長剣を帯剣していた。
「どこだ? 辺境伯はどこにいる……」
聞き取れない程のつぶやきを繰り返して、グランフェルト辺境伯が使っているはずの客間へ向かっている。その足取りは城内の他の者たちとは明らかに違う。普段と変わらない力強さがあった。
客間へと向かう途中、彼の目に下痢と嘔吐に苦しむ騎士や兵士の姿が映る。彼らを見ながら腰に帯びた長剣にそっと手を添える、やはり聞き取るのが難しいほどの声でささやく。
「そうだ、このままでは多くの兵士が無駄に失われる」
さらに歩を進めるとうずくまっている使用人たちを視界にとらえた。苦しむ使用人を見るベルギウス男爵の口元が綻ぶ。今度ははっきりと聞こえるほどの声で言う。
「罪もない住民が犠牲になる」
その声と薄っすらと口元に浮かべた笑みとに、使用人たちがギョッとして視線を向けた。だが、ベルギウス男爵はそれには気付かず、真っすぐに客間を目指す。
客間の扉が見えると双眸をギラつかせて足を速めた。
「止めないと、この無駄な争いを止めないと……」
まるで何かに憑かれたように、そう独り言を繰り返し扉の前に立つと、現グランフェルト辺境伯がいる客間の扉を勢いよく蹴り開けた。
乱暴に蹴り開けられた扉の向こうに、うずくまる現グランフェルト辺境伯が見えた。
扉の音と、目をギラつかせたベルギウス男爵の姿に驚きの表情を向ける。
ベルギウス男爵は、先程まで自分も同じ境遇であったことを忘れたように、蔑みの視線を向けると酷薄な笑みを浮かべて言う。
「グランフェルト辺境伯。いや、この盗人がっ!」
「な、なんだっ、その口の利き方はっ!」
「煩い! お前のせいだ、お前さえいなければっ」
帯びていた長剣を抜き放つと、躊躇うことなく現グランフェルト辺境伯の心臓へ突き立てた。
「グウゥ、貴様、な、なぜ、ゴフッ――」
心臓に突き立てられた剣を両手で掴み、血と反吐を吐きながらベルギウス男爵を下から睨み付ける。
「――馬鹿な事を……」
「死の間際まで汚い奴だ。お前のような盗人は糞と反吐に塗れて死ぬのが相応しい」
「な、なぜ、だ。どこで、どこでし、失敗をした、んだ。わ、わた、しは間違って、いない。陛下、の期待、に応え、ただけ……」
グランフェルト辺境伯、実の兄を騙し討ちにし、その家族を殺して手にした称号。
わずか三か月に満たない期間、そう呼ばれた男は下痢と嘔吐の中、裏切りによって命を奪われた。
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