第307話 開戦前
ベルギウス城城内、現グランフェルト辺境伯が寝泊まりしている最も豪華な客間。そこから程近いところにあるトイレから絶叫が響く。
「うわーっ! 助けてくれっ! ラウラだ、ラウラの亡霊だーっ!」
ズボンを膝まで下げた状態でグランフェルト辺境伯が転がるように飛び出してきた。顔は蒼白で息も荒く額には大粒の脂汗が滲み出ている。
グランフェルト辺境伯と視線を合わせないように、執事姿の壮年の男が着替えとタオルを差し出す。
「辺境伯様、お召し替えと濡れたタオルにございます」
「べ、ベルナールか。ご苦労だ」
「必要でしたら湯浴みの準備も出来ております」
先程、湯浴みをしているときに目撃した、血まみれのラウラがグランフェルト辺境伯の脳裏を過る。すると彼は小さな悲鳴を上げて首を振る。
「ゆ、湯浴みは必要ない。客間へ戻る」
「ご用がお済みでしたら、私はこれで失礼させて頂きます」
グランフェルト辺境伯が立ち上がるのを見届けると、ベルナールはそう言い残して少し離れた使用人用のトイレへと駆け込んだ。
トイレに立て籠もる者と、代わるように急かす者との、力関係が微妙に絡んだ会話が遠くから聞こえてくる中、グランフェルト辺境伯が力なくつぶやく。
「なぜだ、なぜ、ラウラの亡霊が。なぜ、城中の者が腹を壊している。いったい、何が起こっているんだ……」
おぼつか無い足取りで歩きながら、グランフェルト辺境伯は自分が占拠している客室へと続く廊下を見渡した。
彼の視界に映る者でまともに立って歩いているものはいない。既に胃と腸の中のものを出し切って憔悴しきっている者、胃と腸にまだ出すものを蓄えて苦しそうにしている者との差はあったが、誰もが気力と体力を損なっていた。
今、このベルギウス城の中では、身分の上下を問わずに誰もが体調不良を訴えていた。
もちろん体調不良などと無縁の頑健な胃腸に恵まれた者もいたが、そのほとんどが、周囲に便乗する形で体調不良をよそおう始末だ。
◇
ベルギウス城の城主であるベルギウス男爵もトイレに立て籠もっていた。他の者たちと大きく違ったのは、現状を誰よりも危険であると認識していた事だろうか。
彼は脂汗を流しながら城内の様子を思い浮かべて、独り言を繰り返す。
「負ける、今、この城を攻められたら碌な抵抗も出来ずに陥落する。だがなぜだ。なぜ、戦の真最中にこんな事になった?」
自問するが、トイレの個室では彼に答えを返す者はいない。
平時とは違う。戦の只中、籠城戦が始まろうとしているところで十分に警戒していたはず。その思いが彼を余計に苛立たせる。
「敵の策略? いや、それも考え難い。やるなら毒だ。こんな腹を壊すなんて中途半端なことはしない――」
なおも自問するベルギウス男爵の脳裏を、城内で苦しむ騎士や兵士たちの様子が過る。だが、敵が都市の外であることに希望を見出す。
「――都市の門を固く閉ざして体調が回復するまでの時間を稼ぐ。時間さえ稼げれば……敵は十二歳の小娘だ。怯えて、何も出来ずに、こそこそと逃げ回っていた小娘だ。時間さえ稼げばその頼り無さが露見する」
現行のグランフェルト辺境伯も頼りにならない。その思いが彼の野心に火をつけた。
ベルギウス男爵の胸の内に、どす黒い野心が燃え上がる。『ここを凌いで自分の力を示せば、新たにこの辺境の地を治めるのに相応しいのが、誰だか分かるはずだ』と。
◇
ベルギウス城の者たちが拠り所とした都市の防衛。それも昨日までとは大きく様相が変わっていた。
街のあちらこちらで騎士や兵士たちの悲痛な訴えが聞こえる。
「すまん、トイレを貸してくれ」
「汚さない、汚さないから貸してくれ」
「後でちゃんと掃除をするから」
「トイレじゃない、食事だ。食事だけだ」
「俺は何ともない。病気にもかかっていないし腹も無事だ。だから食事を――」
「もうだめだ」
「畜生っ! こうなったら道のど真ん中でしてやる」
「限界だ、俺は先に出すぞ」
「待て、こんなところで出すな」
「うう、俺が何をしたって言うんだ」
そんな騎士や兵士たちとは別の意味で悲痛な訴えと忌避の声とが飛び交う。
「冗談じゃないわよ、さっき騎士様に貸したら使い物にならないくらい汚してくれたじゃないのっ!」
「そうよ、それにその症状、何かの疫病なんじゃないの? うちは小さい子どももいるんだ、帰っとくれっ」
「臭いし汚いから近寄らないでっ!」
「うちは騎士様も兵士もお断りだっ!」
腹を抱えていない兵士が『違う、俺は食事を――』と懇願するが、
「食事もお断りだっ! うちは綺麗な店なんだよっ!」
にべもなく、街の食事処の従業員からそう返される騎士や兵士の姿があちらこちらで見受けられた。
◇
市街地と違って、騎士団と兵士がほとんどを占めている中央兵舎は、異臭と呻き声、誰に向けたのか分からないような怨嗟の声に溢れていた。
そんな中、下痢や嘔吐の症状の現れなかった幸運な兵士――五人の下級兵士が中央兵舎内にある食糧庫へと歩を進めている。
「魔物の叫び声が聞こえたって話だが、こんな市街地のど真ん中に魔物なんて侵入するかねー」
「大方、自分たちの呻き声を聞き間違えたんじゃないのか」
「まったく運がいいのか悪いのか」
「腹も壊さず、しかもあの臭いから逃げ出せたんだ、運がいいと思おうぜ」
「腹を壊している連中の分まで働かされているんだ、運がいい訳ないだろう」
「そんな事よりも、今攻められたら俺たち腹を壊していない者たちだけで戦う事になるのかな?」
「おい、そんなの戦いになんねぇよ」
「違いねぇ。そうなったらとっとと降伏しちまおうぜ」
「ほらっ、着いたぞ」
都市中央部に位置する中央兵舎。ルオアテン市にある三つの兵舎の中で最大の兵舎だ。その兵舎の片隅にある食糧庫の調査を命じられていた。
その食糧庫を目前に五人の足が止まった。
「おい、この臭い……」
「それに中から変な声が聞こえないか?」
それは彼らの記憶に新しい。兵舎内で、市街地で彼らが嗅ぎ、耳にした呻き声。
トイレと言わず、路地裏と言わず、そこかしこで臭い、と聞こえた。
「まさか食糧庫で漏らしたんじゃないだろうな」
「勘弁してくれよー」
「いいか? 開けるぞ」
食糧庫の扉を開けて、内部を覗き込んだ彼らの目に映ったのは、自分たちの同僚と同じように下痢と嘔吐で苦しむ、涙を浮かべたゴブリンたちであった。
光の魔道具で照らし出されたゴブリンの数はおよそ三百匹。
「何で、ゴブリンが、こんなところに?」
普段の彼らなら街中、それも中央兵舎の食糧庫の中に三百匹ものゴブリンが現れたことに驚き、恐怖したことだろう。
だが、光の魔道具に照らし出されたゴブリンの悲惨な姿からは脅威を感じる事はなかった。
むしろ、光の魔道具を持っていた兵士が口にしたように、『なぜ、ゴブリンがここに?』『なぜ、下痢と嘔吐で苦しんでいる?』との疑問が先に立つ。
「おい、どうするこれ?」
「取り敢えず、報告するか?」
「なんて報告をするんだよ。『食糧庫で大量のゴブリンが下痢と嘔吐で苦しんでいました』って言うのか?」
「その通りだろう?」
「正気を疑われそうだよな」
「報告したら、こいつらの始末と後片付けをする事になるんじゃないのか?」
「この後始末をするのか? 俺は嫌だぞ」
「じゃあ、どうするんだよ。このまま食糧庫に閉じ込めておけってのか?」
「もう、ここの食糧はダメだろう? このまま閉じ込めておくんでいいんじゃないのか?」
それは下痢と嘔吐に苦しむゴブリンの姿に同情しての発言ではなかった。むしろ、自分たちの食糧を下痢と嘔吐に塗れさせた恨みの方が大きい。
「これ、洗って食べさせられるのって俺たち下っ端だよな」
いや、食べられないだろう。ほとんどの者がギョッとしながら心の中で叫ぶ。
「やめてくれよ、想像しちゃっただろう」
最も年嵩の兵士が静かに扉を閉めると、夜空に輝く月を見上げてつぶやいた。
「燃やそう」
その一言は、ゴブリンなど居なかった。自分たちが到着したときには火の手が上がっていて対処が出来なかった。そう物語っている。
その場にいた兵士たち全員が共通の認識の下、静かに首肯する。
程なく、食糧庫から火の手が上がった。
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