第287話 セルマとボギー
陽は大きく傾き、グランフェルトへ向けて進軍する街道の西側に広がる草原と、その遥か彼方に横たわるグルム山脈を赤く染めていた。
つい十分程前に行軍を停止したグランフェルト奪還軍。誰もが野営の準備に慌ただしく動き回っている。
そんな慌ただしさの中に紛れるようにして、黒尽くめで長身の男性とオレンジ色の髪をアップにした美しい女性の二人が忙しそうに動き回る人々の間をゆっくりと歩いていた。
周囲の兵士たちもその二人が誰なのか知っている。
男性はボギー・ハッカイダ。チェックメイトのメンバーだ。女性はセルマ・エルランドソン。ラウラ・グランフェルト辺境伯の側近中の側近だ。
大概の兵士たちにとっては不用意に近づきたくない存在であることは間違いない。誰もがそちらを見ないようにするだけでなく一定以上の距離を取って近づこうとしない。
それでもセルマはその緑色の瞳を
「あの、こんなところで堂々と会話をしてもよろしいものでしょうか?」
「せっかく周りが気を使って俺たちに近づかないようにしているんだ、厚意に甘えようぜ」
そう言うと、ボギーは手にした火の点いていない葉巻でソフト帽子を軽く押し上げると小さく笑った。そして周りを気にする女性に『どうせ聞こえやしネェよ』と先をうながす。
セルマは周囲をうかがうのをやめると足を止めて、お礼の言葉と共に深々とお辞儀をした。
「この度はご協力を頂きまして、誠にありがとうございました」
「なぁに、いいってことさ。兄ちゃんもあれくらい強引に事を運ばネェと動かネェからな。それに、決めたのは俺じゃあネェ。兄ちゃん本人だ」
ボギーは小さく笑うと『たとえ状況がどうであったとしてもな』と楽しそうに付け加えるとセルマに歩くようにうながした。
二人揃って歩き始めると、そんな彼に『その状況を作り出す作戦を考えたのはどなたですか』という言葉を呑み込んでセルマが話を再開する。
「失礼ながら、こうも簡単に事が運ぶとは思っておりませんでした」
「兄ちゃんもお姫様のことは憎からず思っているのは間違いネェ。それにお姫様の後ろに自分がいることを知らしめるのは、客観的に見てマイナスじゃネェことも分かっている。それはお姫様側だけじゃネェ、俺たちチェックメイトにとってもだ」
ミチナガ・フジワラが彼女の主人であるラウラ・グランフェルトに婚約指輪を贈ったことが双方の利益であるとボギーの口から聞けたことにセルマは安堵した。
彼女がわずかに口元を緩めるのを見て取ったボギーはクギを刺すように付け加える。
「今じゃネェが近い将来、お姫様が兄ちゃんたちの
「近い将来ですか?」
相談を持ちかけたとき、婚約破棄が前提であることは念を押され、それを承知したのをセルマは思い出す。もちろんセルマとしても婚約破棄を黙って待つつもりはない。
だが、今はそれを受け入れる形で話を進める以外なかった。そして最も気になるのは時間的な猶予だ。
ボギーの示唆する『近い将来』が具体的にいつ頃を指しているのか理解できなかったセルマは彼の表情を探るようにして聞き返す。だが、そこには口元に浮かんだ曖昧な笑みと鋭い眼光があるだけだった。
彼から『近い将来』が何を指すのか、いつ頃なのかを聞き出せないと悟ったセルマはため息をつきながら続ける。
「では当面は安心してよろしいということですね。私どもと致しましても辺境伯様の将来は明るくあってほしいと願っております。時間があるかぎり手は打ち続けます」
「そうかい、精々頑張りな」
「フジワラ様は当面はよろしいとして、アリス・ホワイト様とアリス・ブラック様は大丈夫でしょうか?」
「心配かい?」
ボギーはセルマが最も警戒しているのがミチナガ・フジワラ本人の意思でなく、ミチナガ・フジワラの彼女ですらない二人の少女であることにおかしさを覚える。
そして一瞬、からかうような視線を向けると直ぐに視線を外して話を続ける。
「二人とも感情じゃ納得してネェ。理屈で無理やり自分に納得させているだけだ。ありゃあ、長くは大人しくしてネェぞ。特に黒の嬢ちゃんはな」
セルマから見てもアリス・ホワイトの方が内面的には大人だ。 年相応の幼さを残すアリス・ブラックの方が先に耐えられなくなると考えていた。その予想通りの答えに小さくうなずく。
「はい、気を配るように致します」
「お姫様にはあんまりベタベタさせネェように注意を払っときな」
セルマの曖昧な回答にボギーの言葉が突き刺さる。それは今のラウラに対してあまりに無茶な注文だった。セルマの脳裏にラウラの姿が浮かぶ。
地に足が着いていないどころの話ではない。天にも昇らんばかりに幸せそうな雰囲気が全身から溢れ出ていた。それこそあの姿を兵士に見せたら士気が低下しかねない、そんな姿だ。
「ご忠告感謝申し上げます。何とか頑張ってみます」
いろいろな意味で有効な手立てが思い浮かばず、力なくうなだれるセルマに背を向けたまま上空を旋回する二匹のワイバーンを仰ぎ見る。アリス・ホワイトとアリス・ブラックの駆るワイバーンのシルエットを眼で追いながら口を開いた。
「まあ、お前さんの理想の形としては、正室がお姫様で黒の嬢ちゃんと白の嬢ちゃんに側室に収まってほしいんだろう。いや、侯爵の希望としては、ってとこか」
ボギーから発せられた、その見透かしたような言葉にセルマは言葉に詰まる。見透かされているであろうことは予想していたが、まさか面と向かって言われるとは思っていなかった。
それでも何とか平静を装って声を絞り出す。
「そうですね、やはり婚姻関係を結べることが最も確かだと考えております」
「なるほどネェ。まあ、色男の兄ちゃんで失敗しないようにな」
テリー・ランサー様? セルマの脳裏に四人の女性奴隷を侍らせる金髪の見目の良い青年が浮かぶ。チェックメイトのメンバーで最も与し易いと考えていた人物だ。
彼にはまだ何の工作もしていない。
「どういう意味でしょうか?」
「ん? 言葉通りだ。ただの女好きだと思っていると失敗するってことだ」
セルマとてテリーがただの女好きだと侮ってはいない。ただ、カズサ第三王女へ本人がアプローチしているのだからこれを利用しようとしていた。その辺りのことを指しているのだろうか? 湧き上がった疑問を意識の外へ追いやる。
「決してそのようには考えておりませんが、ご忠告ありがたく頂戴いたします」
セルマは一旦足を止めて深々とお辞儀をすると直ぐに歩き出して話を続ける。
「今回の件、アリス・ホワイト様とアリス・ブラック様だけでなく、聖女様とロビン様もご納得の上、という了解でよろしいでしょうか」
「ああ、そうだ。光の嬢ちゃんとコマドリの兄ちゃんはチェックメイト全体に有益だって判断したのと、お姫様への煮え切らない態度に思うところがあったようで簡単に協力した。だが、さっきも言ったが白と黒の嬢ちゃん二人は渋々だ」
「はい、心得ております」
今のセルマにとって最も配慮をしなければならないのがこの二人であることを改めて心に留める。
突然、ボギーがこれまでとは異なる、セルマが厳しさを感じる声音で言葉を発する。
「それと、これは警告だ。ダンジョン攻略に有用性を見出せないとなったら後でどうなるか分からネェからな、気をつけろよ」
「承知しております」
ボギーの声音と口調に戸惑いながらも静かにそう返答するとセルマは逆に疑問を投げかけた。
「理由は存じ上げませんが、皆様、ダンジョンの攻略に並々ならぬ熱意をお持ちですね。それはボギー様も変わりないと思っておりましたが……」
「ダンジョン攻略は大切さ。是非とも俺も参加したいネェ。だが、もっと大切なことがあるんだ、参加は出来ネェが協力はするつもりだ。遠くからな」
もっと大切なこと、それがガイフウ・ナルカミとケイフウ・ナルカミ姉妹? 今回の協力の条件となった二人の女の子の名前が頭を過ぎる。
「そんなことよりも約束の情報と護衛は大丈夫なんだろうな?」
「はい、滞りなく。と申し上げたいところですが、居場所を捕捉しただけです。今、信頼できる者たちを向かわせております」
ガイフウ・ナルカミとケイフウ・ナルカミ姉妹、この二人をなぜそこまで気にかけるのか。
領境付近で偶然遭遇した隊商にいた少女たちだと聞いている。ネッツァーからの情報とその後に集めた情報では、カナン王国に登録されている隊商のメンバーでまだ十歳の双子の姉妹。まだそれ以上の情報は掴めていない。
「くれぐれもよろしく頼む。俺が到着する前に見失ったり死なせちまったりしたら、俺はお前さんたちの敵に回るからな」
「それはお互いにとって考えたくない未来ですね。最善を尽くします」
チェックメイトの取り込み。その中でもリューブラントとセルマの二人が最も困難であるとしたのが目の前にいるボギー・ハッカイダ。
ガイフウ・ナルカミとケイフウ・ナルカミの双子の姉妹が利用できるなら是非とも手中にしたい。それはセルマの偽らざる気持ちだが疑問もある。なぜこの二人なのだ? と。
ボギーと歩きながらセルマの意識は双子の姉妹の安全と彼女たちとの将来的な接触を匂わせるボギーへの疑問が湧き上がっていく。
血縁、縁戚関係にある者たちだろうか? 或いは古い友人の忘れ形見の可能性もある。
足元に視線を落として考え込むセルマに、ボギーが顔を覗き込むように話し掛ける。
「二人のこれまでの足取りも確認しておいてくれ。出来るだけ詳細に頼む」
セルマの意識がボギーの言葉で揺さぶられる。
彼女たちのこれまでの足取りを掴めていない? そもそも、血縁や縁戚関係、知人であれば出会ったその場でお互いに名乗り合っているはず。それをしていないのは理由がある。
或いは……全く無関係の少女たちかも知れない。
そんな疑問を抱きながらにこやかに返事をする。それはいつもの彼女のまとう雰囲気により近いものだった。
「はい、承知致しました」
セルマにしてみれば言われるまでもなく、ボギーを取り込めるかも知れない駒だ。徹底的に調べ上げるつもりだ。
これまでの言動からは想像し難いが、もしかしたら少女趣味なのかもしれない?
だが、そうだとしたらその辺にいくらでも十歳前後の美しい少女はいるし、目の前の男なら手に入れようと思えば手に入れられる。仮にそうだとしたら、この男を取り込むために毎年新しい十歳の少女を用意してもいい。
そんな可能性に思いを巡らせながらセルマが口を開いた。
「『この戦争が終わったらガイフウ・ナルカミとケイフウ・ナルカミの姉妹を追う』と言われましたが、それは皆さんご存知のことでしょうか?」
「光の嬢ちゃんだけは知っているが他の連中にはまだ何も言ってネェ。当然だが内緒で頼む」
性癖の特殊な聖女以外に打ち明けていないことでセルマの中で異なる可能性が広がっていく。
もっと違った趣向。瓜二つの少女好き、いや、双子が趣味。
いやいや、双子の少女が趣味なのかも知れない。そうなると双子を並べてとかだろうか? まだ小さいから横だけじゃなく縦にも並べられそうだ。或いは二人重ねて表と裏とかもできる。上下逆に並べることも……
そんなことを考えながら頬も染めて歩くセルマと、単に復讐の足がかりと考えて二人の無事を祈るボギーとの距離は少しずつ広がっていった。
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