第279話 アンセルム・ティルス将軍

 行軍の前方から豪奢な甲冑をまとった若い騎士が騎馬を駆けさせてくると、壮年の男性と白髪の老人、騎馬を並走させている二人へ向けて報告をした。


「まもなく国境です。先行した者からの報告では国境通過に何の問題もないとのことです」


 老人は若い騎士の報告に鷹揚に頷くと、労いの言葉を掛けてから視線を隣の壮年の男性へと向けた。


「まったく、シドフではあてが外れましたが、何とか最小限の遅れで済みそうですな」


「不幸が重なるときとはそんなものだ」


 三十代半ば――身なり良い壮年の男性は隣を馬で並走する老人のことばに快活に応えた。


 だが、心中は違った。

 オーガとオークの襲撃。スラム街が一掃されたこと。代官と騎士団の汚職の証拠と既に処刑が行われていた事実。さらに彼宛に残された手紙。


 手紙以外なら、どれか一つだけであれば不幸な出来事で片付けられた。

 だが、こうも都合悪く重なった上にこの手紙だ。彼は自分宛の手紙を隠してある甲冑の裏側――左胸にそっと右手をあてるとその書かれていた内容を思い返した。


 差出人はガザン王国第五王子、アデル・ガザン。真偽のほどは分からないが本人の署名が入っていた。

 宛名は自分、アンセルム・ティルス将軍宛。

 内容は謀反への協力要請だった。

 そして第五王子が政権を奪取したあかつきにはベルエルス王国の謀反に協力すると。

 つまり、この戦争を利用してお互いに謀反を起こそうというものだ。


「ばかばかしい」


 アンセルムはそうつぶやいて鼻で笑った。


 手紙の内容は鼻で笑うようなものだが、その背景を考えると笑えない。

 実際にグラム山脈越えをしてベール城塞都市へと向かう予定が既に変更を余儀なくされ、こうしてグラム山脈を迂回し関所を通過しての国境越えとなっている。


 反乱を企てている第五王子の一派が単独で立ち回っているのか、単純に他国の介入を良しとしない勢力が連携も無く動いているのか。

 アンセルムとしてはどちらにも与するつもりはない。

 何れにしても、彼にとってはチョロチョロと動き回るネズミ程度でしかなかった。


 アンセルムの右にくつわを並べる老騎士は、国境通過後に行軍速度をどの程度上げるのか気になり話を切り出した。


「遅れは四日といったところでしょうか? さて、どの程度詰めるおつもりですかな」


 そう切り出した老騎士ではあったが四日程度の遅れは然程気にしてはいなかった。

 他の戦場ならいざ知らず、今回は鉄壁とも不落の都市とも謳われたベール城塞都市に万全の状態で国軍の精鋭が立てこもっている。


 敵が精強をもって名を馳せるルウェリン伯爵軍とかつての『王の剣』歴戦の名将リューブラント侯爵とはいえ、落とせるとは思えない。

 精々が持久戦の傍らで周辺の都市や地方領主を攻略して有利な停戦条件を引き出すくらいと考えていた。


 それはアンセルムも同じ認識だ。


「このまま四日遅れてもガザン国王との約束の日時には間に合う。だが、それでは足止めを画策したネズミを喜ばせるだけだ。それは面白くないだろう」


「ネズミに自分がしたことが無駄だったと教えてやりますか」


 老騎士が口元を綻ばせる。そして、さも楽しそうに続ける。


「では、一隊を先行させて出来るだけの馬やロバ、騎乗や荷駄を引けるなら調教された魔物も調達させます」


「無理強いはするな。農民や商人に対しては金は多めに支払え。日和見の貴族どもには強気で当たらせろ」


 アンセルムも同様に口元を綻ばせていた。そして、自身の描いたシナリオを反芻する。


 ただの援軍でも士気は上がるだろう。自惚れる訳ではないが、周辺国家から『金色の狼』と恐れられる自分が援軍として到着するのだ。嫌が応にも味方の士気は上がり、敵には動揺を与えられる。

 予定よりも早く到着することでガザン王国軍の士気はさらに上がる。


 ルウェリン伯爵とカナン王弟とは何度か戦場で相対した。どちらもその力量は把握しているつもりだ。 

 懸念は予定外の人物、リューブラント侯爵。味方としては何度かくつわを並べたが直接対決したことはなかった。


 彼の脳裏にかつての『王の剣』リューブラント侯爵の姿がよぎる。

 出兵に際して集めさせた要人の資料を思い返した。


 リューブラント侯爵、三人の息子は全て他界。一人は病死、世継ぎも含めて二人はガザン第一王子の指揮の下、無謀な戦闘で戦死している。

 娘は三人。二人は存命だが一人は内乱、クーデターで死亡している。このクーデターの首謀者を現国王が処罰しなかったことに相当腹を立てていたと、資料に書かれていた。


 世継ぎを失い、嫁いだ愛娘を失って錯乱でもしたか。

 謀反などとバカなことをしたものだ。


 アンセルムは主要人物の資料を思い返しながら国境の関所へと差し掛かった。


 ◇

 ◆

 ◇


 国境を越えてガザン王国に入国した翌朝、アンセルム・ティルス将軍率いる遠征軍の中を伝令兵が走り回っていた。


 そのうちの一人が怯えながら老騎士に報告をした。


「バウマン将軍、昨日購入した馬やロバ、使役可能な魔物がことごとく昏睡しています。その、叩こうが蹴ろうが一向に起きません」


 つい今しがたも、彼のもとに同じような報告がもたらされていた。

 いや、あちらこちらで騒ぎになっている。


 遅効性の睡眠薬か毒薬か。

 可能性は幾つか思い浮かぶが悠長に原因を突き止めている場合ではなかった。


「もういい、下がれっ!」


 バウマンは半ば叱責するような口調で伝令兵を下がらせると直ぐにアンセルムの居るテントへと急いだ。


 足早にアンセルムの居るはずのテントへと向かっていると、前方からバウマンの方へ向かってくる一騎の騎馬があった。

 アンセルムだ。


「バウマン、昨日買い求めた馬やロバは全て放置していく。直ぐに移動を開始させろっ! 馬やロバに止めを刺す時間がもったいない。そのつもりでなっ!」


「はい、直ぐに周知させて出発いたします!」


 用件を告げて馬首を巡らせたアンセルムの背に向けてバウマンが返す。そして、伝令兵を呼び寄せるとアンセルムの指示と直ぐに出発するよう急ぎ伝えた。


 ◇

 ◆

 ◇


 その夜、アンセルム・ティルス将軍率いる遠征軍に震撼が走った。


「大半の兵士たちが嘔吐と下痢の症状を訴えております」


「第二騎士団、全滅です。全員が嘔吐と下痢で寝込んでいます」


「見張りの兵士たちも腹痛を訴えております。恐らくそのまま嘔吐と下痢に移行するものと思われます」


 次々ともたらされる悲報にアンセルムとバウマンは頭を抱えていた。


 最初こそ飲み水などに毒を盛られた可能性を考えた。しかし、死亡した者はいない。報告される症状と自分たちを襲っている症状から食あたりに思える。

 そもそも、敵の仕業ならもっと致命的な毒を盛るはずだ。


「行軍を半日遅らせて、兵士たちの体調を把握するのと復調を待つしかありませんな」


 考え込むアンセルムに蒼ざめ腹を抱えたバウマンが搾り出すように言う。

 アンセルムは蒼ざめたバウマンにうなずく。そのとき、新たな伝令兵が駆け込んできた。それは先ほど料理番のもとへ調査に向かわせた一隊の一人だ。


 飛び込んできた兵士にバウマンがうながす。


「どうした?」


 向けられたアンセルムとバウマンの暗く沈んだ視線に一瞬怯むが、それでも勢いよく報告をした。


「料理番に問いただしましたが特に不審な点は見当たりませんでした。今日の夕食は現地調達をした牛肉とワイルドボアの肉、野菜類とのことです」


「ちょっと待て! その肉は本当に牛肉とワイルドボアの肉だったのか? 馬肉ではないだろうな?」


「さあ、そこまでは確認を――――」


 アンセルムの問いかけに素直に返答する兵士だったが、それはバウマンの怒声で中断された。


「直ぐに確認をしてこいっ!」


「はい、確認してまいります」


 飛び出す兵士と入れ替わるようにして異臭を漂わせた兵士が駆け込んできた。


 アンセルムとバウマンは顔こそしかめたが特にとがめることなく、バウマンが兵士に報告をうながした。


「今度は何だ?」


「馬が逃走しました。いえ、恐らく何ものかに盗まれたようです」


 兵士の報告に二人の思考が止まる。

 どこか別世界の話でも聞いているような、穏やかな気持ちでアンセルムとバウマンが揃って聞き返した。


「駐留中の我軍に侵入して軍馬を盗み出したのか? 随分と度胸のある賊だ」


「それで、賊は何人だ? 随分と間抜けな連中だな」


 バウマンの口元からわずかに笑みが漏れた。

 二人の反応に違和感を抱きながらも兵士は問われるままに返答する。


「賊の数は不明です。その、軍馬もろとも逃げられました」


「何故逃がしたっ!」


 我に返ったバウマンの怒声がテント内に響いた。

 兵士は『ヒッ』という小さな悲鳴を上げて直ぐに返答する。


「発見した隊に逃走する賊と軍馬を追えるだけの体力のある者がなく、他の隊が駆けつけたときには逃走する敵の背中を確認するのが精一杯でしたっ!」


「もういい、下がれ」


 アンセルムはそう言って報告にきた兵士を下がらせる。すると思考を切り替えたのか、背もたれに身体をあずけ、何事も無かったかのような穏やかな口調でバウマンに指示を出した。


「半日だ。半日だけ休息したら行軍を再開する。軍馬が盗まれたことは忘れよう。将軍も奴隷もない、全軍徒歩で行軍する。随行している商人や鍛冶師、娼婦、体力的に付いてこられない兵士は後から来るように言え。遅れても特に罰はないとも周知しろ」


「畏まりました」


 バウマンは一礼してそう言うと、急ぎテントを退出した。


 バウマン自身もそうだが、アンセルムもまた嘔吐と下痢に苦しんでいるのを知っていた。

 だが、目的遂行のために効率を重視し、感情を表に出すことなく寛大な対応を見せるアンセルムの態度に感服する。


 ◇

 ◆

 ◇


 アンセルム将軍の言葉は実行された。

 半日遅れで遠征軍は行軍を再開した。だが、その様相はアンセルムの予想していたものと違っていた。


 その最大の原因は朝食と昼食だ。


 ▽


「食料がないーっ? どういうことだっ!」


 腹を抱える輜重部隊を前にバウマンの怒声が辺りに響き渡った。その怒声は浴びせられている輜重部隊の兵士たち以上に周囲の兵士たちの意識と視線をバウマンへと向けさせた。


「はい、昨夜の賊侵入の騒ぎで軍馬にばかり気を取られていて、食料が盗まれていたことに先ほど気付いた次第であります」


 打ち首を覚悟したかのような兵士の清々しい回答にバウマンは頭を抱えた。

 そして、それを聞いていた兵士たちは不安を抱える。その不安はとても体力が落ちている、半病人ばかりの軍とは思えない速度で拡散していった。


 ▽


 結局、遠征軍は朝食と昼食を摂らずに行軍を開始した。

 予備の武器や修理道具などを積んだ馬車を比較的体力のある若い兵士や奴隷たちが牽いた。


 身分や階級の差なく役割を割り当てるアンセルムのその姿勢は、多くの兵士たちや奴隷たちの階級や身分の低い者たちからは支持された。

 それがこの危機的状況にあっても、軍の士気が一定以上に保たれる一助となったのは間違いないだろう。


 出発して間もなく、その報告はもたらされた。


「アンセルム将軍、前方で昨夜盗まれた軍馬の一部が発見されました」


 軍馬、四十頭。数は少ないがこの状況では何ものにも代え難い。嘔吐と下痢で体力が落ちているところに空腹だ。早速捕らえた馬に馬車や荷駄を牽かせる。

 その発見された軍馬の中にはアンセルムの愛馬もいたが、他の軍馬同様に荷駄を牽かせた。


 もちろん反対するものもいた。


「せめて将軍だけでも騎乗されるべきです。軍の総大将が徒歩など他国に侮られます」


「将軍が威風を保つことこそ士気に繋がります」


「総大将であるだけでなく、公爵、王族の血縁であるアンセルム将軍に歩かせるなど」


 アンセルムはそれらの進言を退けて自身の愛馬の傍らを徒歩で進んだ。

 その行軍の最中も空腹の兵士たちの視線が、自分の愛馬に注がれているのをアンセルムは感じていた。それは毛並みの良い軍馬に憧れる目ではない。食料として見ている目だ。


「よく働いてくれたな、感謝している」


 アンセルムはそう言い、自身の愛馬に愛しげな視線を向けるとそのタテガミをそっと撫でた。そして、傍らに控えていた若い兵士へ指示を出す。


「ここで野営をする。料理番を呼べ!」


 ◇


 スープの入った皿を前にバウマンが泣いていた。


「まさかご自身の愛馬を兵士たちの食料として提供されるとは。このバウマン、感激致しましたっ!」


「もうよせ、バウマン」


 行軍途中で狩りや採取をして手に入れた獣や魔物の肉、野草、そして軍馬の肉を煮込んだスープを口に運ぶのを中断すると、さらに続ける。


「犠牲になったのは私の馬だけではない。他にも三十九頭の馬が犠牲になっている。それぞれ大切に育てた者、戦場の相棒として信頼した者がいる。それに、馬よりも兵士や奴隷の方が大切だ」


「しかし、何も全ての軍馬を潰さなくともよろしかったのでは? ご自身の愛馬は別としても連絡用に数頭残した方が、効率がよかったと思います」


「そうだな。効率だけならそうだろう。だが、ここは軍だ。大勢の人間が集まっているところだ」


 アンセルムはときには非効率や無駄なことを選択する必要があるのだと、言外に語りながらさらに続ける。


「万を超える兵士と随行する者たち。数頭の馬肉でどれほどの違いがある? 一人一人の腹に入る量で言えば誤差の範囲だ。誰も気付かんよ。心証の問題だ。出し惜しみをする者と自分たちのために全てを吐き出す者、どうせなら私は、後者のために働きたい」


 感激して泣き崩れるバウマンに『食料を調達してくれた兵士と馬たちに感謝を込めて頂こうじゃないか』、アンセルムはそう語り掛けるとスープを口に運んだ。


 ◇

 ◆

 ◇


「あれです」


 兵士の示す先には彼に教えられるまでも無く、嫌でも目に入ってくるであろう障害物――街道を塞ぐようにして小高い岩山が出来ていた。

 その小高い岩山をアンセルムとバウマンが並んで見上げている。


「随分と大掛かりだな」


「少々骨が折れますかな。しかし誰がこんなことを――」


「猿です」


 傍らに控えていた兵士の言葉にバウマンの叱責が飛ぶ。


「ばか者っ! 猿があんな岩山を築くものかっ!」


「いえ、あの山頂に」


 兵士の指す先に一匹の猿がいた。その猿は数個の小石を抱えて岩山の上で小さな石の山を築いているところだ。


「なるほど、猿だな。遊んでいるところ、猿には申し訳ないがこの岩山を早急に撤去させてもらおう」


 アンセルムは岩山を見上げながら鷹揚にそう言うと、傍らで苦虫を噛み潰したような表情をしているバウマンへ向けて、苦笑しながら指示を出した。


「バウマン、直ぐに取り掛からせろ」


 決して広い街道ではないのでどうしても作業する人数は限られる。少数での撤去の最中に部隊からざわめきが聞こえてきた。

 そのざわめきに撤去作業の指揮をしている隊長が背後で恐い顔をしているバウマンを気にしながら問い掛ける。


「どうした? 何があった?」


「今度は何だ?」


 隊長に続いて彼以上の声量でバウマンが問い掛けた。


「将軍っ! 軍馬です。盗まれた軍馬らしき馬が二十頭、岩山の向こうにある広場にいました」


「ふざけた真似をっ! どこのどいつか知らぬがギタギタにしてくれるっ! 直ぐに周辺の捜索隊も組織しろ!」


 バウマンの怒声をかき消すようにアンセルムの笑い声が響く。


「どこの誰か知らないが気の利いたことをしてくれる。せっかくの食料だ、ありがたく頂こうじゃないか。直ぐに馬の捕獲に一隊を向かわせろ」


 アンセルムの様子に安堵した兵士が、『では自分の隊が捕獲に向かいます』そうバウマンに告げると周囲に散っていた自分の隊を集めて岩山の向こうへと消えていった。


 ◇


 翌朝、出発の準備を始めた兵士たちの間に悲鳴が響き渡った。


「車軸がーっ!」


「畜生ーっ! 馬車の車軸がやられたーっ!」


 それは昨日、馬に代わって馬車を牽いた者たちにさらなる悪夢を予想させるに十分な悲鳴だった。


「昨日は馬に代わって馬車や荷駄を牽いたけど、今日は馬車や荷駄に代わって荷物を担ぐのか?」


「なあ、兵士全員で手分けするのかな?」


「な訳、ねぇだろう」


 虚ろな目をして馬車や荷駄を見つめる兵士、自分の馬車の積み荷を恨めしそうに見つめる商人や鍛冶師たちの姿がそこにあった。 


 ◇

 ◆

 ◇


 ガザン王国の国境を越えて四日目、そろそろ陽も落ちかける時間となったところで行軍の足が止まった。最初の岩山から数えてこれで三度目、一日一回、日課のように発生している。

 アンセルムとバウマンが軍の先頭へと足早に移動する。


「今日はなんだ?」


「また岩山です。先の三回とほぼ同規模です」


 アンセルムとバウマンが岩山を見上げるとそこには岩山の高さに怯えて身動きが取れなくなっている子狐がいた。


「猿、カラス、アライグマと続いて子狐か。何を考えているのか。ふざけた連中ですな」


 さすがに子狐は無理があるだろうと、憎々しげに子狐を睨みつけるバウマンをよそに、既に撤去作業に掛かっている兵士たちにアンセルムが声を掛けた。


「子狐は怪我をさせないように注意して保護してやれよ」


 その言葉に兵士たちの間から笑みとともに快活な返事が幾つも返ってくる。

 すると、


「馬です。将軍、また馬がいます」


 どうやら岩山の向こうが気になった兵士の一人が早々に岩山を登って、軍馬の存在を確認したようだ。


 アンセルムの視線だけでバウマンが返事をした。


「承知しました」


 そして、傍らで捕獲の準備をしていた兵士に向けてこめかみを押さえながら指示をだした。


「おいっ、向こう側に軍馬がいる。捕獲部隊をだせっ!」


 次第に岩山の撤去作業や軍馬の捕獲、さらには狩猟採取に慣れていく自分たちに苛立ちを覚えるバウマンだった。


 ◇

 ◆

 ◇


 その夜、食事を摂りながらアンセルムのテントにバウマンを筆頭に五名の将軍が集まっていた。


「今夜こそ捕まえてやりましょう」


「まったくだ。ふざけた連中だ。どこの領主貴族かしらんが、外交問題になる前に、戦争中にけりをつけましょう」


「相手がどんなヤツかも分かっていないんだ。捕まえるのが先だ」


 バウマンの言葉に将軍たちはこの三日間の忌々しい出来事を振り返っていた。



 初日の夜。

 病気の馬肉を食べさせられて地獄を見た。さらに軍馬と食料を盗まれた。軍馬がいないために馬車や荷駄を自分たちで牽いた。

 翌日から食料に困窮し、狩猟採取の生活が始まった。


 二日目の夜。

 馬車や荷駄の車軸を折られ、荷物を自分たちで運ばなければならない羽目になった。前代未聞の出来事だ。敗走したときでももっとマシだった。

 返ってきた軍馬のお陰で馬肉スープにありつけた。


 三日目の夜。

 予備の武器が盗まれていた。剣や盾はまだいい。矢が無くなったのが痛い。戦闘となった場合、弓と護身用の剣で戦うよう言い渡された弓兵部隊の悲壮感漂う顔が忘れられない。

 また軍馬が返ってきた。初日の馬肉スープの方が美味かったのはやはりアンセルム将軍の愛馬が入っていたからだろうか。


 四日目の夜。

 今夜こそ、賊を捕まえてみせる。これ以上我々の生活をおびやかされる訳にはいかない。

 今日も軍馬が返ってきた。全ての軍馬を返してもらえるとは思わないが、一割でも返ってくればベール城塞都市まで馬肉スープが食べられる。



 沈黙を破ったのはバウマン。

 彼が重々しい口調で切り出すと他の将軍たちも口を開いた。


「敵の意図が見えませんな」


「足止めとしか思えませんが?」


「挑発ではないのでしょうか?」


「敵だとして、そもそもどこの勢力の仕業でしょう?」


「どちらにも付かずに様子見をしている領主たちでしょう、こそこそと卑怯者の匂いがプンプンします」


 アンセルムが将軍たちの反応に鷹揚にうなずくと、彼らに対して口を開いた。


「まあ、敵の狙いが足止めだとしたら見事に成果を出したことになる。現実問題として約束の日にベール城塞都市へたどり着くことは無理だ。さらに兵数こそ減ってはいないが、兵力は間違いなく弱体化している」


 アンセルムの言葉通り、今からベール城塞都市にガザン国王との約束の日にたどり着くのは絶望的と言ってよい。

 軍馬を奪われ、食料を奪われ、狩猟採取しながらの行軍。さらに街道の途中では岩山を築かれ、これの撤去に長時間を要している状態だ。


 バウマンが忌々しげな口調で顔をしかめる。


「約束の日よりの遅参、ガザン国王から何か一言ありますかな」


「これで文句を言われても頭を下げる気にはなれんよ。せめて援軍に駆けつけるための街道――自国の街道くらいは治安維持と整備くらいはしておいてほしいものだ」


 ゆっくりと首を横に振り、嫌味たっぷりにそう言うと、杯の中の水で口を湿らせてから話を再開する。


「それに、この状況で備蓄豊かなベール城塞都市に到着して、満腹でいるガザン王国の兵士をみたら我軍の兵士はどう思うか。今から思いやられるよ」


 アンセルムの言葉にその場にいた将軍たちは苦笑するとともに兵士たちの不満をどう抑えるか、そのことに頭を悩ませる近い未来を想像していた。


 水が入っている杯を見ながら、気を紛らわすための酒もないことに少し寂しさを覚える。

 そして、もう一つの課題に触れた。


「それにしても、姿の見えない敵というのはやっかいなものだ」


「まったく、卑怯者のすることです」


「後手後手にならざるを得ません」


「先手の取りようもないですけどね」


 そんな彼らの反応を困ったように見ながらアンセルムが口を開く。


「遅参は開き直ろう。この状況で向かっているだけでも、たいしたものだと思うよ。短気な将軍なら引き返しているところだろう」


 そう言い、他の将軍たちの顔を見回すと穏やかな笑みを浮かべる。


「我々が気をつけなければいけないのは、これ以上見えない敵に翻弄されないようにすることだ。貝のように硬く防備を固めて、何かあっても気にせずにやり過ごす。ともかくベール城塞都市に入りさえすれば我々の勝利だ」


 その言葉に将軍たちは改めて自分たちの勝利条件を認識する。

 目指すはベール城塞都市。


 それを兵士たちに周知すると、今夜こそ賊を捕らえるのだと警備の兵士の増員を指示した。


 ◇

 ◆

 ◇


 今朝もアンセルム・ティルス将軍の遠征軍に悲鳴が響き渡る。


「ウワーッ!」


「助けて、助けてくれーっ!」


「何で、俺が……」


「取ってくれ、頼む……」


 大勢の兵士たちの間から悲鳴と絶望するような泣き声が上がっていた。


「今朝は何が起きたんだ?」


 その様子にバウマンが近くを走り抜けようとした兵士を捕まえて聞いた。


 兵士は泣きながら怯えた表情を向けるだけだった。


 その様子に事情を説明するつもりはないか、知らないかとだと判断したバウマンは悲鳴の方へと歩き出した。


 少し歩くと、大きな人だかりが出来ていた。


「邪魔だ、どけっ! 何があったのか説明できるものはいないのか?」


 そう言いながら人だかりを割って進むと、彼の目の前に広い空間が現れた。

 そこには数十人の兵士たちがしゃがみ込んでいた。茫然自失としている者、半狂乱に泣き叫んでいる者、頭を抱えてすすり泣いているものと様々であった。


「どうしたんだ? 今朝は何があった?」


 バウマンのその問いに傍に立っていた娼婦が自分の首に手を当てて目の前ですすり泣いている兵士を指差した。


 隷属の首輪。


 人だかりの中心にいる数十人の兵士たち。彼らの首には一様に隷属の首輪が付けられていた。

 聞けば、朝目が覚めたら付けられていたそうだ。まるで御伽噺おとぎばなしのように。


 バウマンは賊の手元にこれ以上隷属の首輪がないことを祈りながら、アンセルムのもとへと足早に向かった。


 ◇


「撤退すべきではないでしょうか。これだけ警戒を強化しても侵入してくる相手です。それこそいつ暗殺されてもおかしくありません」


 アンセルムのテントの中、一人の将軍が言い難そうに言葉を発した。

 それを鼻で笑うように隣に座った将軍が返す。


「一兵の死者どころか、随行している者たちの間にも死者が出ていないのにか?」


「昨夜、アンセルム将軍が言われたようにベール城塞都市まであとわずかです。これまで通りに敵の妨害があったとしても今日を入れて三日の距離です」


「撤退したからといって見えない敵からの攻撃がなくなる保証はないわけですし、戻るよりも進む方が結果を早く出せます」



「私も今朝の隷属の首輪には肝を冷やしたが、ここで逃げ帰っては臆病者のそしりは免れないだろう。それに、やられてばかりでは悔しくないか? 相手が誰だか分からないなら手近な敵に八つ当たりをしようじゃないか」


 それで兵士の気が晴れ、士気が上がることを経験からしっているアンセルムはそう言うと、将軍たちを見回して悪戯っぽく笑うとさらに続ける。


「それと。ベール城塞都市に着いたらたっぷりとご馳走をしてもらおうじゃないか。兵士だけでなく随行の者たちにも振る舞ってもらうよう、私からお願いしよう。約束する。全軍に周知してくれ」


 アンセルムのその言葉に将軍たちから歓声が上がった。


 ◇

 ◆

 ◇


 さらに三日。

 隷属の首輪を兵士たちに装着されて以来、夜間警備を五倍に強化したが夜の襲撃がなくなることは無かった。

 同様に街道を塞ぐ岩山も健在だ。


 見えない敵のその堅実な働きぶりにバウマンは閉口した。気のせいか、彼の目にはアンセルム将軍でさえ幾分か憔悴しているように見えた。


 そんな疲れた表情のアンセルムとバウマンを前に五人の将軍が集まり、岩山の撤去作業の時間を利用しての会議が行われていた。

 ふと、会話の途絶えた時間にこの三日間を振り返る。



 一昨日の夜。

 娼婦が消えた。発見した者の話では娼婦たちがいつまでも訪れないので業を煮やして迎えにいったそうだ。娼婦たちのテントにはなぜか手足を縛られ猿轡さるぐつわをかまされたゴブリンが娼婦の人数だけ転がっていたらしい。どうしろと言うのか。

 岩山の上には子熊がいた。近くに猛り狂った母熊がいて大変だった。

 馬肉スープだった。そろそろ飽きてきたな。


 昨日の夜。

 奴隷が消えた。娼婦のときとは違い、代わりのものは置かれていなかった。

 岩山の上には鹿がいた。岩場に慣れていなかったのだろう、可哀想に脚をプルプルと震わせていた。どうやら地域の動物を紹介してくれているようだ。

 いつもより馬の数が多かったからか、馬肉と野草の炒め物だった。



 いつもなら岩山が街道を塞いでいるとの報告が入る頃、伝令の兵士がアンセルムとバウマンのもとへと走ってきた。


 また岩山か。

 二人がそう思って伝令を待っているといつもと違う報告がもたらされた。 


「前方から騎馬が一騎、人が騎乗していますが、かなりふら付いているようです」


 アンセルムが身を乗り出すようにして聞く。


「騎馬? 騎乗しているのだな? それは一騎だけか?」


「はい、一騎だけです。他には何も見当たりません」


「よし、身柄を拘束した後連れてくるように」


 伝令兵はアンセルムに敬礼すると弾かれたように引き返していった。


 ◇


 それが、ガザン王国国王、エドワード・ガザンと知ったとき、アンセルム・ティルス将軍はこの遠征において初めて渋面を作った。

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