第195話 感謝と恩
来客用のソファーに座ったまま南側の大きな窓に視線を移動させた。
市長官邸は昨日訪ねたときと変わらず手入れの行き届いた庭園が広がっている。夏の強い陽射しの中、木々や草は青々と生い茂っている。枝や下草を揺らす程度の風もない。ほぼ無風状態のようだ。
視線を少し上に向けると青い空と白い雲が視界に飛び込んで来た。遠くの空には陽の光を幻想的に反射して輝く巨大な積乱雲が見える。
現代日本と変わらない真夏の空だ。『夏の雲は岩の如し』だったかな? どこかで読んだことがあるようなフレーズが脳裏をよぎる。
まだ十時を過ぎたばかりだというのにじっとしていても汗ばむほどに気温と湿度が高い。
今日もいつもと変わらず暑い一日となりそうだな。
再び目の前に座る中年の男性に視線を戻す。
俺の目の前にはつい数時間前まで奴隷であった新市長のバシリオ・レガラド氏が落ち着かない様子でソファーに腰かけていた。
もっとも新市長とはいってもあくまで暫定でしかない。正式にはランバール市の領主であるヴァルテンブルク辺境伯の了承と任命が必要となる。
しかし、ランバール市はヴァルテンブルク辺境伯の本拠地から遠く離れた飛び地の領地のため容易に連絡は取れない。たとえ暫定であっても一ヶ月以上はレガラド氏が市長を続けることになるだろう。
いや、そもそもヴァルテンブルク辺境伯は戻ってこられるのか? 俺たちしか知らない事実だが生存すら危うい。
暫定市長は一ヶ月どころではなさそうだな。こちらとしても時間に余裕が出来るのは助かる。
そもそも何故このようなことになったか。
前市長である全裸亀甲縛りのラレテイ氏がかつての政敵であったレガラド氏を副市長として任命した直後に汚職と犯罪に加担していたことが判明するという、急展開な出来事があったための異例の措置である。
そして彼の目の前に汚職と犯罪の証拠が積み上げられたことで観念したのか、或いは、前市長自身が制定した尋問の厳しさに耐えかねたのか。
真実は分からないが、つい先ほど前市長が自害したという悲しい報告がもたらされた。
わずか数時間での市長交代劇だ。選挙が存在しない任命制度の国とはいえ、そうそうある出来事ではない。恐らくランバール市内は目の前に座っている新市長よりも混乱をしていることだろう。
しかも後任の市長は無実の罪で奴隷落ちさせられたとはいえ奴隷出身である。いろいろと前代未聞の出来事だ。
「落ち着きませんか?」
先ほどから手や視線が
「え? ああ、そうですね。あまりにも一度に多くのことがあり過ぎて……その、まだ実感が湧きません」
レガラド氏はハンカチで額と首筋の汗を拭うとすっかり冷めてしまったお茶を一気に飲み干しさらに続ける。
「私を含めて皆さんに助けて頂いた者たちは良いです。しかし、行方不明や死んで行った者たちのことを考えると……」
先ほどまで
何時間か前になされた復讐とこれから自分たちがやらなければならないこと。
喪失感、怒りと哀しみ、不安と無くしたはずの希望、そして義務と責任の重大さ。もしかしたら罪悪感や後悔の念もあるかもしれない。
新市長だけでなくあの場にいた被害者の人たち皆が多かれ少なかれ持った感情だろう。
だが、その中にあってレガラド氏の責任はひと際重い。
▽
復讐はなされた。
しかし、失ったもの――返ってこないものはあまりに大きい。
食堂で前市長と対面した後、被害者の一団ともども前市長を引きずって地下牢へと戻った。
地下牢へ到着するなり、それまで以上に被害者集団の感情が爆発した。食堂でも恨み言――怨嗟の声を上げていたがそれでも抑えられていたのだと知れた。
「お父さんとお母さんを返してっ!」
「俺の息子は奴隷落ちさせられた上で魔物の囮にされたんだ」
「主人と子供たちを返して……」
「俺の娘と息子は目の前で四肢を斬り落とされて死ぬまで放置されたんだ。俺は……ただ見ていることしか出来なかった……」
まだまだあった。人数の五倍以上の恨み言が市長に向けて浴びせられる。己の無力を嘆く声が地下牢に響いた。
この場にいる人たちの中で肉親を失っていない人はいなかった。聞く限りどれも理不尽で惨たらしい最期である。それどころか、この場に居る被害者の人たちの中でさえ部位欠損や機能障害となる傷や怪我を負っている者がほとんどだった。
もちろん、地下牢へ降りてくる前に俺と聖女で部位欠損も含めて治療は済ませている。
欠損した部位や傷、怪我は治ってもこの世を去った愛する人たちは戻ってこない。自分たちの身体の傷が癒えることでそれを一層痛感してしまったようだ。
予想はしていた。いや、予想以上に酷い仕打ちがされていたことに驚かされた。聞くに堪えない内容だった。
当の前市長は泣きながら許しを請うだけで相手の顔を見ることもできずにただ床に突っ伏していた。
周りの雰囲気に流されたのもあるのかもしれない。だが、誰ひとりとして復讐を、報復を
最年少の七歳の少女もナイフを手に取った。
七歳の少女を含めて、その場にいる人たちに向かって『復讐は何も生まない』とか『出来れば復讐なんてして欲しくない』などとは言えなかった。
たとえ復讐したことを、報復したことを後悔しても良い。『今、気持ちの整理をつけて前に進むことが出来るなら』そんな思いでただ見ていた。
▽
視線を落としたままのレガラド氏に向かって話を続ける。
「前市長の手助けをした人たちはまだ残っています。それをそのままにしておいては火種になり兼ねません。騎士団も協力を約束してくれているのですから――――」
俺は前市長派と残る私兵や協力をしておこぼれにあずかった役人や商人たちへの対応や被害者集団の今後のケア、さらには行方不明者の捜索の継続を続けて欲しいこと。
そのための手段やあらたな協力者としてナンバー4組織であったチンピラグループを紹介した。
そして今後のランバール市の市政について幾つかの腹案を交えて新市長と小一時間ほど会話を続ける。
もちろん、この場にいた俺以外のメンバー――白アリ、テリー、聖女、ボギーさんも話し合いに参加をした。
最後に前市長派、協力者となった役人や商人たちを更迭するのに十分な付帯資料の挟み込まれたリストをレガラド氏の手元へと押しやる。
「それと同じ資料を既に騎士団長へはお渡ししてます。市長からの要請があればすぐに動いてくれるでしょう」
「本当に何から何までありがとうございます」
俺の手を取り、そう切り出した新市長は涙を流しながら何度も何度も感謝の言葉を続けた。
それは俺だけに留まらず、白アリをはじめテリー、聖女、ボギーさんと続き、再び俺の手を取る。
感激をし感謝をしているのが伝わってくる。
「気にしないで下さい。俺たちも前市長が許せなかっただけです。それにラウラ姫の祖父であるリューブラント侯爵と縁の深いこのランバール市には是非とも繁栄をしてもらいたいと願っています。我々は明日には出国をしますが、陰ながら応援をさせて頂きます。それにカナンとガザンの戦争が終結したらダンジョンに挑むために再び寄らせて頂くかもしれません」
終戦後の幾つかのプランを頭に思い描きながら、俺たちの思惑を胸に秘めて新市長の手を強く握り返す。
それにリューブラント侯爵領に入ってからも手助けはするつもりである。
表立っては言えないが、何よりもここまでしたのだから、簡単に市長交代などとならないようにヴァルテンブルク辺境伯の一族には不幸になってもらう予定だ。
「失礼いたします」
突然のノックの音に続いて騎士団長と二名の見習い騎士が部屋に入ってきた。
「会談中に申し訳ございません。準備が整いましたので聖女さまをお迎えに上がりました」
丁寧ではあるが威厳たっぷりの口調で騎士団長が新市長に軽く会釈をして聖女へと向き直ると改めて聖女に向けて言葉を発する。
「聖女さま、準備が整いました。よろしくお願いいたします」
騎士団長と付き添いの見習い騎士が恭しく頭を下げた。
騎士団長が直々に迎えに来た? 何かあったか? 自分の記憶をたどるが特段予定を思い出せない。
「ご苦労様です。では行きましょうか」
あっけに取られる俺たちと目を白黒させている新市長をしりめに聖女がソファーから立ち上がった。
「どうしたんですか? 何か問題でも発生しましたか?」
「聖女さまに亀甲縛りをご教示頂く予定を組ませて頂いておりました。その準備が整ったのでお迎えに上がりました」
慌てる新市長の問いかけに騎士団長が淀みなく答える。
騎士団長は新市長の問いに淀みなく答えているが、俺とは視線を合わせないようにしている。
「わざわざありがとうございます。場所は騎士団の詰め所ですか?」
「はいっ! 詰め所に確保してあります。聖女さまのご指定通り若く美しい女性を捕らえてまいりました」
キラキラとした憧れの視線を聖女に向けて屈託の無い笑顔で聖女の質問に答える見習い騎士。
バカだろう、この見習い騎士は。
こんなヤツを騎士にして大丈夫なのか? いや、一生騎士にはなれないかも知れないが既に見習い騎士であること自体問題な気がしてならない。
「まさかとは思うが、若くて美人ってだけで無実の人を捕らえたりしてネェだろうな?」
少しだけうろたえた様子でボギーさんが見習い騎士に向かって聞いた。
「それは大丈夫です。今回は聖女さまの指示もあったので慎重に対応をしています。間違いの無い犯罪の証拠を押さえてから逮捕しているので大丈夫です」
「そうか、なら良いんだ」
さわやかな笑顔でハキハキと答える見習い騎士の勢いに圧されたのか、ボギーさんが何とも名状しがたい引きつった表情で小さく首肯した。
いやいや、俺の聞き間違い出なければ今もの凄く気になることを言ったはずだ。『今回は』言ったよな。
いつもはどうなんだよっ!
聞きたいが思い留まった。
ここで騎士団の不祥事が明るみに出るといろいろと不都合がある。ここは聞き流すしかないか。
「気になるな」
テリーがソファーから立ち上がり騎士団長に向かって話し出した。
「その尋問、俺も立ち会うことにする。一緒に行こうか」
うむを言わせない口調と甘いマスクでのさわやかな笑顔で聖女と騎士団の面々をうながすと、そのまま流れるように扉の向こうへと消えていった。
しまったっ!
その選択肢があったか。
自分の常識的な反応を悔やみながら、新市長の新たな側近となった人たちとの会談に臨むことにした。
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