第133話 湖畔
夜空には地球のスーパームーンが霞むほどの、冴え冴えとした美しく大きな月が輝いている。
その月明かりに浮かび上がるのは、穏やかな風に揺れる金色の髪と白磁のような肌、そして、コバルトブルーの怒りに満ちた瞳である。
いや、満ちているのは怒りだけじゃあない。薄っすらと涙も満ちてきている。
そして、右手には月明かりを反射して妖しく光るナイフが握られている。ナイフが小刻みに震えている。あれは決して臆して震えているんじゃあないよな? 武者震いとかでもない。あれは怒りに震えているんだ。俺でもそれくらいは分かる。
「よくも私を騙しましたね」
涙を浮かべ、怒りに震えながら可愛らしい声が静かに響く。風が止んだのだろうか、先ほどまでと違って髪は揺らめいてはいない。
背中を汗がつたう。
暑いのかな? 風が止んだせいか? 気温が上がったのかもしれない。
「騙してなんかいません。ちゃんと理由があるんです。話せば分かります。落ち着いてください」
俺は女神さまを刺激しないように、ホールドアップ状態――両手を上げてゆっくりと立ち上がり、気持ち距離を取る。
どこかで見たことがあるような光景だな。
違うな、ラノベで読んだんだ。
確か、主人公が見ず知らずの少女を暴漢から救って、そのお礼に来た少女と会話しているシーンを、浮気と勘違いした恋人にコンバットナイフで刺されて転生するやつだ。
善行をなしたにもかかわらず勘違いで愛する人に殺された主人公を、女神さまが哀れに思って自分が管理するファンタジーな世界に転生させる。
涙を浮かべ、震える手でナイフを握り締める美少女。セリフもかなり似通っている。
確か、「騙したのねっ! 裏切り者ーっ!」とか叫んで、五メートルの距離を一瞬で詰めて、見事に主人公の心臓を肋骨の隙間を縫うように一突き。即死だったはずだ。
読んでいたときは、「何で普通の女子大生がコンバットナイフを持ち歩いてるんだよっ!」「短絡な激情家で行動力があるって、そんな危険な女を野放しにしておくなよ」「百歩譲って肋骨にコンバットナイフが引っ掛からなかったのは運がよかったとしよう。だが、五メートルを一瞬で詰めるってどんな身体能力だよ」と思わず突っ込んだものだ。
だが、今なら分かる。そんなことは
場面だけ切り取ればよく似ているが、内情は全く違う。
先ず、女神さまが怒っているのは勘違いでも何でもない。騙してはいないが誤魔化したのは事実だ。そして何よりも善行などしていない。
あれ? 俺、刺されても文句言えなくないか?
少なくとも、女神さまに同情されて異世界転生ってのはなさそうだな。その同情してくれるはずの女神さまが、まず同情をしてくれないだろう。
一縷の望みは、刺した後で憑き物が落ちたように俺に同情してくれることだが……ないな。
無駄な妄想はやめて誠意ある対応をしよう。
「申し訳ございませんでした」
女神さまがにじり寄ろうと、右脚に体重を移動させた瞬間を見計らって土下座をする。
「いまさら何を謝っているんですか?」
冷たい声が響く。
だが、出会った頃の冷たさはない。どこか温かみを感じるのは気のせいじゃないよな? いけるか? 情に訴えるか? 昨夜のようなチョロイン部分が残ってれば情に訴えるのもありだな。どう上手く話をもっていくか……
いやいや、違う。ここは誠実に誠実に、誤魔化しはなしで事実を伝えよう。
「騙したつもりはありませんでした。ちょっと予定を伝えなかったと言うか、真実を言ったら怒られそうだったので言えませんでした」
まるで子どものような言い訳だな。我ながら情けない。
顔を上げると女神さまが俺の左側面に移動をしていた。そして、しゃがみ込んで右手に持ったナイフを静かに俺の
喉元に伸びたナイフを握る右手が小刻みに震えている。視線を震える右手から女神さまの顔へと移動させる。
涙が溢れ出ていた。声を上げることもなくボロボロと泣いている。その表情には怒りはない。涙にぬれた表情は哀しみをたたえている。
心臓が痛みを伴って大きく脈打つ。
別に刺されたわけじゃあない。
俺の良心の痛みだ。自分がもの凄く悪い男に思えてならない。
何だか、今夜は良心を痛めてばかりいるな。
今なら、分かる。先ほどのラノベの主人公はたとえ勘違いとはいえ、女性との会話している姿ひとつで、恋人を逆上させるような事を普段からしていたのだろう。
主人公の心臓にコンバットナイフを突きたてた恋人を許せる気がする。
「結果的に騙してしまいました。もう、女神さまに嘘や誤魔化しはしません。許してもらえるなら、ダンジョンを修復します。この世界を救うために尽力します」
◇
◆
◇
森にある湖の
湖の
どこの世界の楽曲だろう。柔らかな旋律の鼻歌が聞こえてくる。
その表情は楽しそうというよりも、穏やかで安堵に満ち、とても幸せそうに見える。いや、幸せなのだろう、先ほど俺から
しかし、驚いた。
夢じゃなくて、現実――顕現していたのか。いや、それ以上に驚いたのは女神さまの身の上だ。もともとが異なる世界の若くして死亡した少女だったとは。
生贄――神への捧げもの。五歳のときに選ばれてから生贄となるまでの十年間、そのためだけに生きてきた。
生贄となった後、神に見出されて世界の管理者候補となってから、千年以上もの長きに渡りひとりで奮闘してきた少女。それはもうひとつの異世界の女神さまも同様なのだが、心情的にはこちらの女神さまに傾いてしまう。
そして、さらに驚いたのが俺の魔力が突出していた理由。
ひとつは、登録名と本名の音の一致数と率で魔力と魔法操作、魔法出力が変わる。
本名の苗字との一致数と率が高ければ魔法出力が、名前との一致数と率が高ければ魔法操作が上がる。そして両方の一致数と率で総魔力が底上げされる。
そりゃあ、本名そのままの音なんだから転移者のなかでもトップクラスだよな。
もうひとつが、それぞれの異世界の管理者たる女神さまが任意にひとりを選んで底上げをする。
こちらの異世界が俺で、あちら側の異世界がボギーさんである。
選んだ基準が気になり聞いてみた。もちろんちょっと期待して、である。
最初はクスクスと笑うばかりで教えてくれなかった。だが、先ほど、湖へと向かおうとベッドを抜け出るときにささやくように教えてくれた。
「五歳のときに最後に見た父に似ていたから」
そう、ささやいた顔は何とも悲しそうだった。「本当は記憶もさだかじゃなくって、よく覚えてないんですけどね」そう言い残して何かを振り切るように湖へと駆ける。
女神さまの表情は見えなかった。
夢ではないので、空間魔法を使えば表情を確認できたのだろうが、それはしちゃいけない気がした。
開始後、間もない状況であちら側の異世界は切り札を失っているのか。
こちらの異世界の女神さまとしては、まさに決着を付ける千載一遇の機会と考えて意気込んでいるのも理解できる。
「一緒にどうですか? 気持ち良いですよ」
わざと水音を立てて女神さまが恥ずかしそうにほほ笑みながら誘う。
その姿と仕種に声にドキリとする。
良心の痛みじゃない。愛情なのか同情なのかはよく分からないが、何らかの強い情が俺の奥底から湧きあがってくる。この少女に誠実であろうと。突き動かす。この美しい少女のために力を貸そうと。
俺は無言で立ち上がり、ゆっくりと湖へと向かう。
全裸の男女が、月明かりの降り注ぐ湖で抱き合うさまは、映画のワンシーンのようだ。そんなことを思いながら女神さまを抱き寄せる。
「責任、取ってくださいね」
何の疑いも抱いていないような笑顔を俺に向ける。
「はい。全力で応えます」
この場のセリフが、「これで良いのか?」との疑問が過ぎる。我ながら自嘲する。もう少し気の利いたセリフがでれば良いのにな。
一瞬キョトンとした後で、吹き出す女神さま。
「では、よろしくお願いします。明日、私は皆さんの前に顕現するので必ず守ってくださいね」
笑いを堪えるようにしながら俺の顔を見上げる。
「そうですか、明日ですね。私も同席して良いでしょうか?」
声と共に欠食児童が、もとい、
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