第98話 湖畔(3)

「――いましたね、ウィンディーネ……ですよね?」


 ようやく瞳の焦点が定まった黒アリスちゃんではあったが、その口調は心ここに在らず、といった感じだ。


「ああ、いたね……多分」


 俺も、湖面に立つウィンディーネらしきものに目を奪われて、それ以上は言葉にならなかった。


 取り敢えず、ウィンディーネとしておこうか。


 湖面に立つのは美しい、小さな少女だった。

 透き通るような淡い水色の髪にアクアマリンのような瞳だ。

 服は着ていない、裸だ。


 伝承でしか出てこないウィンディーネが、目の前に現れたことに驚くべきか、斧を放り込んだら出てきたことに驚くべきか……

 何れにしても、近寄りたくないな。


 別に神々しいとか、おごそかな雰囲気に気圧されて、とかではない。

 

「何が、「まぁまぁ、落ち着いて」よ。こんなものを頭に落とされて落ち着いてなんかいられる訳がないでしょうがっ」


 ウィンディーネがセリフ付きで、白アリの仕草と口調、表情まで真似をしている。

 なかなか芸達者だな。


「あれって、ウィンディーネなんでしょうか?」


 黒アリスちゃんが湖面に立つ少女から視線を外さずに聞いてきた。その口調は、間違いなく疑いを持っている。


 まぁ、信じたくない気持ちは分かる。

 俺も同じだ。

 先ほど、俺の中ではウィンディーネということにしたのだが、取り消しだ。やっぱり、未確認物体ということにしよう。


「どうなんだろうな? 確認してみようか?」


 内心の未確認物体のまま保留、という思いとは逆の言葉を発してしまう。


「そうですね。ここにいてもらちがあきませんよね」


 黒アリスちゃんは決意するように大きくうなずくと、俺に先んじて歩き出した。


 俺も半歩遅れて黒アリスちゃんを追う。

 追うと言っても、歩幅が違うので二歩目には追いつく。それ以降は歩幅を合わせ、白アリに文句を言っている、ウィンディーネっぽい存在へ向けて歩を進めた。


 ウィンディーネっぽいのが、斧を白アリの鼻先に突き付けて何やら話している。

 雰囲気から察するに、ウィンディーネっぽいのが文句を言っていて、白アリが適当にかわしているように見える。

 口論になっていないあたり、白アリが成長したのか、自分のやったことに後ろめたさがあるのか。まあ、後者だろうな。


「まだ怒ってますよ」


 黒アリスちゃんがあきれ気味に湖面の存在を、胸元の近くに手をおき、小さく指差す。


 斧を頭の上に落とされたら、普通は怒ると思うぞ。

 そうだ、そうだよな。

 あのウィンディーネっぽいのがアレなんじゃなくて、おとなしやかなウィンディーネでさえ怒るようなことをしたんだ。


「あ、振り下ろした」


 黒アリスちゃんが端的に事実を伝える。


 振り被ったと思ったら、一閃。斧を白アリへと振り下ろした。

 斧は今まで白アリが立っていた場所に深々と突き刺さっている。


「ちょっと、いきなり何するのよ。危ないでしょう」


 バックステップひとつ、余裕でかわしながらウィンディーネっぽいのをたしなめる。


「あきれた。斧を投げ込んでおいて、よくもまぁ、言うわね」


 ウィンディーネっぽいのが、地面に深々と突き刺さった斧を小さく左右に揺らしたり、前後に動かしたりしながら白アリを下からにらみつけている。

 結構深く突き刺さったみたいだな。抜くのに苦労をしている。


 なるほど、もっともだ。ウィンディーネっぽいヤツの気持ちも分からなくもない。

 だが、どっちもどっちだな。この二人に会話させていても、解決の道筋は見えてきそうにない。


「申し訳ありません。その女の非礼はお詫びいたします」


 ですので、斧を返して頂けませんか? それと、もう少し落ち着いて話し合いをしませんか? とそれに続く言葉を飲み込んで、ウィンディーネっぽい存在に近寄る。


「何であたしが無礼なのよ」


 白アリが俺の後ろから不満気に声をかけてきた。小さな声だ。多少の自覚はあるのか、いつものように強気ではない。


 頼むから黙っててくれ。お前がそれ以上しゃべると解決するものも解決しなくなる。


 しかし、ウィンディーネっぽいのには聞こえたようで、片方の眉がピクリとつり上がる。

 抜き終わった斧を、そのままゆっくりと担ぎ上げる。

 まいった、臨戦態勢かよ。


「こいつの非常識は、仲間である我々からもお詫びいたします」


 出来るだけ、穏やかな表情を作り、柔らかな口調となるように努めて、ウィンディーネっぽいのに語りかける。


 俺の言葉に、ウィンディーネっぽいのが、表情を軟化させる。


 よしっ!

 素早く近寄り、斧にそっと手をおく。


「私たちはお茶という人間の好む飲みものを飲んでいたのですが、ご一緒にいかがでしょう」


 俺の言葉に多少の警戒をみせたが、最後は好奇心に負けたのか迷いながらも承諾をした。


 ◇ 


「これも美味しいわね。人間って皆こんなに美味しいものを食べているの?」


 ウィンディーネっぽいのが、クッキーやケーキを左右の手にもち、フルーツパイを頬張りながら、大理石のテーブルに広げられた、手付かずのクッキーや砂糖菓子に視線を泳がせている。


 白アリが作った、甘いお菓子が気に入ったようだ。もの凄い勢いで詰め込んでいた。

 お茶の方は、のどの詰まりを解消するために利用されている。


「皆がそんな美味しいものを、食べられるわけじゃないのよ。私たちは特別なの。それに、それは私が作ったのよ」


 優しいお姉さんが食べ散らかす小さな妹を、温かい目で見守るかのようである。


 本音は知らない。

 恐らくは食べ物でつるつもりなんだろうな。

 次から次へと、お菓子や果物をふんだんに使った、子どもの好きそうなものを並べている。


「白姉はアレをウィンディーネだと思っているみたいですね」


 黒アリスちゃんが先ほどより続くの疑い口調から、「お前は違うだろう」の方向に大きく針が振れた感じでささやく。


「そうだな。微塵みじんも疑ってない感じだな」


 意外と騙されやすいヤツなのかもしれない。スキンシップを多くして、甘い言葉をささやいたら落ちるじゃないだろうか?

 今度やってみようかな。

 

「斧を落としちゃったことは謝るわ、ごめんなさいね」


 白アリがハチミツのたっぷりと掛かったパンケーキを差し出しながら謝る。


 落とした?

 えいっ! って掛け声は何だったんだ?

 突っ込みたいが、突っ込むわけにも行かない。白アリもそれが分かっていてシレっとセリフを吐いている。


「まあ、良いわ。私も大人気なかったわ。こうして貢ぎ物も貰ったし、許してあげる」


 ウィンディーネっぽいのがハチミツでベタヘタになった口の周りを手で拭いながら鷹揚にうなずいた。


「あたしたちがここに来た目的は、ウィンディーネを仲間にすることなのよ」


 再び、お菓子に夢中になっているウィンディーネっぽいのに向かって、白アリがおもむろに切り出した。


「私たちを仲間にしたいの?」


 お菓子を詰め込む手を止めることなく、ウィンディーネっぽいのが聞き返す。


 私たち? 複数いるのか?

 いや、それよりも、やっぱりウィンディーネなのか? そうなのか?


「ええ、そうなの。誰か、あたしたちと一緒に来てくれる水の精霊ウィンディーネに心当たりはないかしら。教えてくれたら、御礼にもっとたくさんのお菓子をあげるわよ。それに、一緒に来てくれる水の精霊ウィンディーネには、毎日、あたしの手作りのお菓子をあげるわよ」


 この食い意地の、違った。健啖家けんたんか水の精霊ウィンディーネを与し易しとみたのか、白アリがたたみかける。


「毎日、お菓子……私は水の精霊ウィンディーネよ。私が一緒に行ってあげても良いわよ」


 のどに詰まらせたお菓子をお茶で一気に流し込んだ後で、平べったい胸を叩き、得意げに言う。


 淡い期待が消えた。水の精霊ウィンディーネだった。

 だが、まぁ、この性格や食い意地が水の精霊ウィンディーネという種族全般で類似しているわけじゃないだろう。

 個体特有の可能性の方が高いに違いない。きっとそうだ。


「あなた、子供でしょう? それに外の世界は危険よ。戦える精霊じゃないと、あたしたちも困るわ。戦える、大人の精霊を紹介してくれないかしら? 御礼のお菓子もたくさんあげるわよ」


 白アリが優しく微笑み、口の周りや手に付いたハチミツや食べカスを拭いている。


 優しい微笑みと行動の裏側でしきりにテイムを試みている。

 もちろん、連続失敗だ。やはり、精霊をテイムすることは出来ないようだ。


「子どもじゃないわよ、これでも三百年近く生きているのよ。それにとっても強いんだから」


 チェンジを言い渡されるとは思ってなかったのか、水の精霊ウィンディーネは、慌てて自分のアピールを始めた。


「強いの?」


 白アリが興味なさそうに聞き返す。


「見た目はこんなだけど、強いわよっ! これでも、第七位なのよっ!」


 お菓子を口へと運ぶのを止めて、大理石のテーブルに身を乗り出して真っ直ぐに白アリを見つめている。


 水の精霊ウィンディーネの様子からするとかなり高位の階級のようだ。

 七番目に強いのだろうか? 何となく微妙な強さだな。


「でも、勝手に出てこられるの? 怒られたりしない?」


「少なくとも私の同属や眷属はダメよ。外に出て行こうって連中じゃないわ。私だから一緒に行っても良いかな、って気になってるのよ」


 白アリの問いに、「大丈夫よっ!」と言い放ち、身を乗り出すどころか、左ひざをテーブルの上に乗せて自己アピールをしている。

 

 なるほど、この水の精霊ウィンディーネは例外中の例外なのか。良かった、何だか少しだけ救われたような気がする。


 そうか、良かった。それが分かっただけでも、何だか嬉しいよ。

 救われた気がする。

 

 待てよ?

 他のウィンディーネはおとなしやかなのか? イメージや伝承に沿った性格なんだろうか? どうせ連れて行くなら、そっちの方が良いな。


「ふうん。一緒に行くのは良いけど、いくつか教えて欲しいな。過去に人間について行った精霊はなぜついて行ったの? 何がしかの理由があったんでしょう?」


 俺の希望など知る由もない白アリが話をまとめにかかった。


「ああ、それね」


 水の精霊ウィンディーネは、新しく出された紅茶風味のクッキーに目を輝かせ、のどをならす。クッキーに手を伸ばしながら、さらに話を続けた。


「過去に人間についていった精霊は、数は少ないけどいるわよ。目的は魔力。その人間の魔力が豊富だったのと魔力の質が良かったからね。理由は、強くなりたいから。上質な魔力に長時間触れていれば、それだけで自分がより強くなれるの」


「或いは、魔物を倒したときの拡散する魔力が欲しかったからかな? それはそれで種類が豊富で良いものなのよ」


 水の精霊ウィンディーネは、少し考えるようにしながら付け加えた。


「では、ここに棲む精霊の中には、何年か前に人間と一緒にここを出た精霊がいたんですね」


 黒アリスちゃんがお茶のカップを左手でもてあそぶのをやめて、水の精霊ウィンディーネへ質問をした。


「二百年前に人間に付いていったウィンディーネは今じゃ、ここの長よ。第一位よ、上手いことやったものよね」


 水の精霊ウィンディーネは、黒アリスちゃんの質問に小さく、コクリとうなずくと、その小さな両手でカップを抱えるように持ち、冷たいお茶でクッキーを流し込んだ。


「そちらのメリットは私の下僕となれることよ」


「全然メリットないじゃないの、要らないわ、こんなヤツ」


 白アリが水の精霊ウィンディーネの前に置かれてあった、クッキーが山と積まれた皿を静かに自分の方へと引き寄せる。


「うそうそうそ、メリットはねぇ、私たちが水の魔力の底上げをしてあげる。それに戦闘や日常生活で魔法を活用して、いろいろと助けてあげる」


 白アリの方に引き寄せられる皿に飛びつき、懇願するような目で訴えている。


「欲しいの?」


 慈愛に満ちた白アリの笑顔に、水の精霊ウィンディーネが、無言でコクコクとうなずく。


 気の毒に。

 この水の精霊ウィンディーネ、完全に手玉に取られているな。



 ――話し合いの末、結局、この水の精霊ウィンディーネを連れて行くこととなった。

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