第19話 暗転
爽やかな朝。
朝靄に包まれた、いくつもの牧場の風景が、この上なく懐かしく思える。実際には、たった二日離れていただけなのだが。
ロードとカレリアの二人がツェルマス山の麓に着いたのは、そんな頃だった。二人とも清々しい気分で、家に向かって麓の斜面を歩いている。
早朝の空気は澄んでいて、吸って美味しい。二人ともかなり疲れていたのだが、この空気が疲れを癒してくれるかのようだった。
「何にしても、財宝は手に入った。万事めでたしってところだね」
ロードがカレリアに笑いかけた。カレリアもにっこりと笑みを返す。
「これで、借金も返せるし、お父さんの病気の治療もできる。みんな、ロードのおかげ。ありがとう」
「はは…そう改めて言われると、照れちゃうな。でも、本当によかった」
「ええ。アウランさんとルナールさんも、幸せそうだったし」
「そうだね。魂には寿命がないから、あの二人はずっと一緒にいられる。いつまでも幸せでいてほしいな…」
「きっと、ずっと幸せでいられると思うわ。アウランさんも、ルナールさんも、お互いのことをとても愛していたもの」
「ああ…そうだ。カレリアの言う通りだね、きっと」
二人は、澄んだ青空を見上げた。涼しい風が、肌に心地好い。
やがて、カレリアの家が見えてきた。牧場では、放し飼いにしていた牛たちがのんびりと草を食べている。
二人は、自然と駆け足になった。財宝を手に入れたことを、一刻も早くピーターに知らせたかったのだ。
だが、家の前まで来て、二人は呆然とその場に立ち尽くした。
玄関の扉には、張り紙がされていた。そこには、「差押え オレンブルク金融」と書かれていたのである。
「どういうこと…?」
「オレンブルク金融って、まさかリカルドの?」
「そうよ。でも、差押えって…」
「この家が? ピーターさんはどうしたんだ?」
はっとして、カレリアは弾かれたように走り出した。ロードも宝石箱を小脇に抱えたまま、カレリアの後を追う。
窓から中を覗いても、人のいる気配はない。何より、父ピーターの姿が、いつものベッドの上になかったことが、カレリアの胸を騒がせた。
窓にも、扉にも、鍵が掛かっている。唯一開いていたのは、牛舎の扉だけだ。どうやらこの家は、本当に高利貸しのリカルドなる人物に差し押さえられたらしい。
「いったいどうして…ピーターさんは、どこに行ったんだ?」
「ジェシカおばさん!」
家から五百メートルほどの距離を一気に駆け抜け、カレリアはジェシカの家の扉を乱暴に叩いた。胸に手を当て、荒い息を整えながら、扉が開くのを待つ。
ロードがカレリアを追って、ジェシカの家の玄関に着いた時、扉が開いた。中から、ふっくらと腹の出たエプロン姿の女性が顔を出す。ジェシカである。彼女は目の前に立つ少女を見て、思わず声を上げた。
「カレリア!」
それは、カレリアの帰還を喜ぶ声ではなかった。ジェシカがなぜかカレリアと目を合わそうとしないことから、それは明らかだった。
「カレリア…帰ってきたんだね…」
やっとのことで、喉から絞り出したといった感じの台詞。カレリアはジェシカにすがりついて、彼女の顔を見上げた。やはり、ジェシカは目を逸らす。
「おばさん! あたしの家、どうなっちゃったの? お父さんは、どこにいるの?」
食ってかかるように問いかけるカレリアに、ジェシカは気圧されている様子だった。
何かがあると、ロードは直感した。それも、嫌な予感だ。
「ねえ、おばさん! いったい、あたしがいない間に何があったの?」
「ね、ねえ、カレリア…」
ジェシカは、カレリアの両肩に手を置いた。
「落ち着いてよくお聞き。あんたのお父さんはね…」
それから続いて出た言葉は、ロードとカレリアを落雷のように打ち据えた。
カレリアはしばらく放心したように、虚ろに宙を見つめていたが、ロードの声で我に返り、それからその場に泣き崩れた。
ピーターが、死んだ。
信じられない、いや、信じたくない事実だった。
リカルドはピーターの死を知って、家を差し押さえたのである。借金の担保は、あの家だったのだから。孤児となったカレリアは施設に入れるように、リカルドが取り計らっているという。
「どうして…どうして、こんなことに」
「昨日、朝食を届けた時には元気だったんだよ。でも、お昼を届けに行った時には、もう…」
「そんな…そんな…!」
カレリアの嗚咽が、顔を覆った両手の隙間から洩れる。ロードは、胸が締め付けられるような思いがした。
こんなことが、あっていいものなのか。せっかく、希望が見えてきたところだというのに。これから、やっと幸せな暮らしが始まるはずだったのに。
ロードは、カレリアの頭上に輝く運命の星を、心底呪った。
「お父さんは、マドゥーイのラスリュート教会にいるよ。明日の朝、葬式をやるそうだから、その前に会っておいたらいい。ねえ、カレリア。くじけるんじゃないよ」
それだけ言うと、ジェシカは扉を閉めた。
無愛想なわけでも、ましてやカレリアを嫌っているわけでもない。ただ、あまりに不憫で、カレリアを見ていられなかったのである。それが証拠に、扉の向こうから、ジェシカのすすり泣く声が聞こえてきた。
玄関の前にしゃがんで、顔を覆うカレリア。指と指の隙間から、澄んだ液体がとめどなくこぼれている。しゃくり上げるような泣き声が、ロードの胸を締め付けた。
「カレリア…」
ロードは、カレリアの肩に手を触れた。できるだけ、優しく。
「会いに行こう、お父さんに」
カレリアは頷いて、ゆっくりと立ち上がる。
ふと、ロードとカレリアの視線が絡み合った。カレリアはロードの胸に飛び込んで、また声を殺して泣いた。
カレリアの父、ピーターの遺体は、ラスリュート教会の地下に安置されていた。
ラスリュート教は、クスィ教の興る以前からあった古い宗教だ。クスィ教の台頭によって一時は勢力を失ったものの、今ではそこそこの信者を抱え、礼拝に来る人も少なくない。
教会は、葬式と、葬式前の遺体の安置も引き受ける。地下に、いわゆる霊安室があって、ピーターはそこにいるのだ。
白い、金箔で縁取られた木製の棺桶に入れられ、ピーターは決して目覚めることのない眠りについていた。顔の辺りが窓になっていて、カレリアのために開けられている。その顔は、蒼白ではあったが安らかだった。
「お…お父さん…」
カレリアは棺桶に突っ伏して、大声で泣いた。初老の神父も、ロードも、沈痛な面持ちでそれを見つめる。自然と、ロードの目尻にも涙が浮かんだ。
「どうして…どうして…! せっかく、お金の都合がつきそうだったのに…借金を返して、お父さんの治療もできると思ったのに…!」
胸の奥に熱いものがこみ上げてくるのを感じながら、ロードは、一抹の疑念を拭い切れずにいた。
あまりにも、タイミングが良すぎるのだ。
それに、ここ最近は病状も落ち着いていると、カレリアも言っていたではないか。急な発作と言ってしまえばそれまでだが、それにしても何かが引っ掛かるのだった。
カレリアを不憫に思う気持ちが、ロードにそんなことを考えさせているのかもしれないが、それにしても…。
「死因は、病死ですか?」
ロードは思い切って、しかしカレリアには聞こえないように神父に尋ねた。
「そうだね…病状が急に悪化したんだろう。医者もそう言っていたよ。ただ、どうも腑に落ちないと、しきりに呟いていたがね」
「腑に落ちない…どういうことです?」
「医者の話だと、ピーターさんはゆっくりではあるが回復に向かっていたんだそうだ。もちろん、大きな病院で本格的に治療しなければ、完治するのは無理だったそうだが。それでも、ごくゆっくりとではあるが、回復しつつあったようだよ」
「…それで」
「うん。今でもピーターさんは、発作を起こすことが時々あったそうだ。しかし、どれも軽いもので、死に至るほどではなかったはずだというんだよ。よっぽど無理をしなければ、これほど大きな発作は起こるはずがないとね」
「そう…ですか」
ロードは、胸に湧き上がる疑念が、いよいよはっきりしてくるのを感じた。
「神父さん。この棺桶は、教会のものなんですか?」
「いいや。オレンブルク金融の、リカルドさんが提供してくれたものだよ」
「やっぱり…」
ロードは、眉根を寄せた。
「だとすると…もしかしたら…」
ロードは早足で棺桶に歩み寄り、窓の中のピーターの顔を覗き込んだ。
「ロード…?」
カレリアが、涙に濡れた顔を上げる。
「僕の考えが間違ってなければ…」
ロードは、ピーターの顔を凝視し、下唇に白い粉のようなものがうっすらとついているのを見つけると、人差し指でそれを拭き取った。
それを、ほんの少し舐める。
「ロー…」
声をかけようとしたカレリアは、途中で台詞を呑み込んだ。ロードの目つきが、見たこともないほど鋭くなっているのに気付いたからである。
(怒ってる。ロードが…なぜ?)
「どうしたんだね?」
神父の問いには答えず、ロードはカレリアの手を引っ掴むと、霊安室を出た。石造りの階段を駆け上がり、廊下を抜けて教会の外に出る。
「どうしたの、ロード?」
ロードに掴まれている手が痛いのだろう。カレリアは顔をしかめて言った。涙は、まだ彼女の白い頬を濡らしたままだ。
「カレリア、教えてくれ! 高利貸しの、リカルドって奴の店の場所を!」
「え…どういうことなの?」
「ピーターさんは病死なんかじゃない! 殺されたんだ!」
怒りを含んだ声。カレリアは驚愕をあらわにした。
「何ですって…?」
「殺されたんだよ! ピーターさんの唇についてた粉、あれは毒薬だ! ピーターさんは、毒殺されたんだ!」
「毒殺…ですって…?」
カレリアは、絶句した。
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