第17話 魔女覚醒

 凍りついた少女。

 カレリアは驚愕の表情を浮かべたまま、食堂の隅に立っている。冷たく、厚い氷に全身を包まれて。その氷は、暖炉の熱でも溶けることはなかった。

 氷の表面を、白く細い指が撫でる。

 ルナールだった。ゆったりとした黒のドレスで、しなやかな肢体を覆っている。

「来たわよ、カレリア」

 ルナールは、楽しそうに言った。

「優しいあなたの騎士が、ハロルドの剣を持って、ね」

 ルナールはカレリアに語りかけるように言葉を続けるが、本人の耳には届いていない。構わず、ルナールは続ける。

「これで、私の復讐が果たせるわ。でもね、あなたとあの坊やだけは助けてあげる。だって、私をこの忌々しい呪縛から解き放ってくれる恩人だもの」

 ルナールは、微笑した。カレリアを包む氷よりも冷たく。

「死ぬのは、マドゥーイに住んでいる、あなたと坊や以外の人間すべて。この私の『力』で、死体も残らないほど、みんな粉微塵にしてやるわ…!」



 緑のない灰色の山の中腹に建つ、灰色の古城。

 三百年前に家族を惨殺され、以来結界に閉じ込められたまま三百年を過ごした、魔性の血を継ぐ黒髪の美女が住む城。

 ウェックスフォルト城。ロードとアウランがアーチ状の城門の前に立ったのは、夕陽が山陰に隠れ、東の空が藍色を帯び始めた頃だった。

 ロードは布に包んだ剣を抱えて、城門をくぐった。

 アウランは、城門の外で待つ。ルナールと同じく、魔性の血を持つ彼は、城の周りに張り巡らされた結界を越えることができないのである。

 アウランによれば、ウェックスフォルト城をすっぽりと包む、ドーム状の半透明の壁が見えるのだという。触れれば、身を引き裂かれるような激痛が走るのだそうだ。

 だから、結界が消えたら、すぐにルナールの元へゆく。アウランは、そう言った。

 城門から玄関、ホールへと進み、廊下を抜けて食堂の豪奢な扉を開く。

 そこには、カレリアが昨日と変わらない状態で、氷の柱に閉じ込められていた。その隣には、黒いドレスを着た黒髪の女性が立っている。

 ロードが来たことを気配で感じ取っていたのだろう。ルナールは、初めから扉の方に視線を向けていた。

「早かったわね」

 ルナールは、微笑を浮かべて言った。

「その包みが、ハロルドの剣?」

「そうだよ。マドゥーイのクスィ教会に忍び込んで、持ってきたんだ。だから、早くカレリアを解放してくれ!」

 ロードは氷漬けのカレリアに走り寄った。

 剣を床に置いて、両手を氷につける。顔を近づけ、カレリアの顔色に変化はないか、苦しそうにしていないかと確かめる。

 カレリアの表情には、一切の変化がなかった。だが、それが良い兆候なのか、それとも悪い兆候なのか、ロードにはわからなかった。

「早く、この氷を溶かしてくれ!」

 必死の形相で訴えるロードに、ルナールは微笑んだ。冷笑ではない。穏やかで暖かく、慈しむような笑みだった。

「わかっているわ。その包みからは、強力な霊力を感じる。確かに、ハロルドの剣に間違いはないようね」

「偽物を調達する時間なんかなかったよ!」

「それも、そうね。じゃあ、約束は果たすわ。でも、忘れないで。この子を解放した後、あなたにはもう一つ仕事をしてもらうわ」

「聖玉を壊せ…だろ?」

「そう。話のわかる坊やね。私には、剣を持つことができないの。約束してくれる?」

「…わかったよ。だから、早くカレリアを…!」

「今、解放するわ」

 ルナールは両手に氷をかざし、目を閉じた。

 ルナールの左右の掌が赤い輝きを帯びる。

 やがて、カレリアを包んでいた氷が解け始めた。尖っていた頂点が丸みを帯び、水滴が汗のように表面を流れ、滑らかな木目の床を濡らす。

 カレリアの頭、肩、胸、それから腰が空気に触れる。二分と経たないうちに、カレリアを覆っていた氷は床の上の水溜まりに姿を変え、焦げ茶色の髪の少女は解放された。

「カレリア!」

 ぐらりと前に傾いたカレリアの身体を、ロートが受け止める。髪や衣服がぐっしょりと濡れていて、ロードの服にも染みた。

 白い肌は、冷たい。ロードは自分の熱を分けようと、片膝をついた格好でカレリアを強く抱き締めた。

 十分ほど経つと、カレリアの身体が暖まってきた。小さく呻いて、冬眠状態に陥っていた少女は、うっすらと目を開ける。ぼやけた視界に、少年の顔。

「…ロー…ド…?」

 カレリアは、消え入りそうな声で言う。

「もう、大丈夫だよ」

「あたし…いったい…」

「大丈夫だって。もう、大丈夫なんだってば」

 ロードは目尻から涙を零し、もう一度カレリアを抱き締めた。だがカレリアには、凍っていた間の記憶はない。ロードがなぜ泣いているのか、なぜ自分を抱き締めているのか、心当たりはなかった。

 それでも、ロードの温もりが心地好い。カレリアはそんなことを考えて、少しだけ頬を赤らめ、ロードの抱擁を受け入れていた。

 そんな時間を、ルナールが遮る。

「さあ、坊や。もういいでしょう。約束を果たす時間よ。屋根裏に来て頂戴」

 ロードは、一転して真剣な表情になり、静かに頷いた。

 この城に結界を張り巡らせている聖玉は、奥の建物の屋根裏にあるとのことだった。ロードたちは食堂を出て、中庭を横断する渡り廊下を通って奥の棟に入った。

 螺旋階段を上り、屋根裏部屋に着く。飾り気のない天井は奥へ行くほど高くなっていて、部屋の中央辺りから逆に低くなっていく。屋根の形をそのまま反映しているのである。

 部屋には使うものがいなかったせいか、家具の類は一切置かれていない。あるのは、奥に置かれた、大理石でできた台座。そして、その上で淡い光を放つ、直径二十センチほどの水晶玉だけだった。

「あれが、聖玉…」

 ロードは一瞬、聖玉の神秘的な美しさに見惚れた。淡く薄い水色の輝きが、玉の中で揺らめいている。しかし、今はそんな時じゃないと、すぐに思い直す。

 ルナールは、顎でロードを促した。ロードは頷くと、抱えていた包みを開いた。中から白い鞘に収まった剣が現れ、ルナールは苦しそうに顔を歪めた。

「早く…この忌々しい玉を破壊して」

 呻くように、ルナールは言う。その隣で、カレリアは潤んだ瞳をロードに向けていた。

 カレリアはこの部屋へ来る途中で、自分が氷漬けになっていたこと、ロードが自分を助けるためにクスィ教会に忍び込み、ハロルドの剣を持ち出して来たことを聞いていたのである。ロード自身からではなく、ルナールの口から。

 ごめんなさい。カレリアの瞳は、そう言っていた。

 カレリアは、できればロードが聖玉を破壊するのを止めたかった。復讐鬼と化したルナールは、結界が破れれば大虐殺を行うだろうからだ。

 だが、ここでルナールに逆らっても無駄だということも理解していた。ルナールの要求を拒否すれば、今度はロードが氷漬けにされてしまうかも知れないのだ。

 自分の身はどうなってもいい。だが、ロードの命に危険が及ぶのだけは耐えられなかった。そんな気持ちが、ロードを止めたいという衝動を抑えつけているのである。

 ロードは大振りの剣を鞘から抜いて、大きく上段に振りかぶった。重そうではあるが、しっかりとした構えをしている。それというのも、義父バイ・ザーンに剣術を仕込まれていたからである。

「大丈夫。心配ないよ」

 ちらとカレリアを振り返って、ロードは言った。その言葉で、ロードには何か考えがあるのだと、カレリアは悟った。

「さあ、早く!」

「わかってるよ」

 気合を上げて、ロードは剣を思い切り振り下ろした。甲高い音が部屋中に響き、聖玉はそれを造り出した本人、ハロルド神父の霊力を宿した剣によって砕かれた。

 聖玉は光を失い、まるで西瓜が割れたように真っ二つになって台座から転がり落ちた。

「消える…」

 ルナールが、呟いた。

 今まで自分を抑えつけていた力が急速に消えてゆくのを、肌で感じているのである。呆けたような表情は、次第に歓喜の笑顔に変わってゆく。

 同じ頃、ウェックスフォルト城の城門前に立っていたアウランは、城を包む半透明のドームが薄れ、消えていくのを目撃していた。

「消えた…結界が消えた!」

 ルナールは、狂喜した。

「消えたわ! 三百年も私を繋いでいた鎖が、とうとう断ち切られたのだわ!」

 ルナールの全身が、青白い輝きで包まれる。その光は烈火のごとく激しくうねり、波打っていた。それがルナールの『力』であることは、ロードにもわかった。

「あははははッ! この力、この力だわ! これが私の、本当の力! 結界の力で抑制されていた、私の本当の力!」

 ルナールを中心にして、激しい風が吹き荒れる。床にうっすらと積もっていた埃が舞い上がり、砕けた聖玉の細かい破片が風に乗って部屋中を駆け巡った。危険を感じたロードは、カレリアの手を引いて壁際に避難した。

「ついに、私の悲願が達せられる! 不条理に殺された、家族の仇が討てるのだわ! 私のこの『力』で、マドゥーイの人間たちに復讐するのよ! お父様やお母様、お祖父様、お祖母様、それに私の弟や妹たちの恨みを、痛みを、そして何より三百年間も孤独を味合わされた私の恨みを、人間たちに思い知らせてやる!」

「そんなこと、やめて!」

 激しい風に顔を庇いながら、カレリアが叫ぶ。

「今、街に住んでいる人たちには、何の罪もないわ! あなたの家族が殺されたのは、三百年も前のことなのよ!」

「あなたも、その坊やと同じことを言うのね」

 ルナールは嘲笑した。

「でも、無駄よ! 私の意志はもう、誰にも止められない! 復讐は、私の三百年来の願いなのだから!」

 屋根裏部屋を吹き荒れる風は、さらにその勢いを増していった。内側からの風圧に耐え切れず、窓ガラスが砕け散って外に飛び出す。木製の扉が外側に反り返って、ギシギシと悲鳴を上げていた。ルナールの身体を包む青白い炎も、勢いを強めている。

 とてつもない『力』だ。魔性の力のことをよく知らないロードにも、それがわかった。こんなにも強大な『力』をもってすれば、マドゥーイの人間を皆殺しにすることなど、造作もないことだろう。

 ロードは、戦慄した。

「あははははッ! 殺してやる! みんな、殺してやる!」

「やめるんだ、ルナール!」

 突然、扉がけたたましい音を立てて吹き飛んだ。外側にではなく、内側にだ。そして、廊下に立つ一人の男性の姿が現れる。

「誰ッ!」

 ルナールは、鋭い視線を入口に投げかけた。同時に、ロードの声が部屋に響く。

「アウランさん!」

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