第14話 下山

 今夜の月は、満月に近い円だった。おかげで、懐中電灯をつけずとも、周囲の様子はある程度、見て取れる。

 そんな中を、ロードは走った。

 気温はかなり下がっているはずなのだが、全力で走っているため、身体は冷えるどころか逆に燃えるように火照っていた。

 汗が額から首筋、そして襟の中へと流れ落ちてゆく。衣服が肌に張り付く不快感も、ロードは意に介さない。

 ツェルアム山を駆け下りると、ロードの脚が悲鳴を上げた。

 無理もない。登るのに三時間も費やしたほどの距離を、ほとんど休みなしで走り続けてきたのだから。

 それでも、ロードは走った。ツェルアム山の麓から、渓谷に入る。ツェルマス山とツェルアク山とに挟まれた、ごく小規模な谷だ。

 それでも、徒歩で、いや走って抜けるにはかなりの距離がある。今朝早くに出発して、この谷を抜けたのは夕方だったのだから。

 さすがに、ロードの体力も限界に達した。小石につまづいて地面に伏し、そのまま、しばらく動けなくなる。ロードの意思に反して、身体が休息を求めていた。

 周りを針葉樹に囲まれた山道の真ん中で、ロードは仰向けに寝転がった。

 胸が、激しく上下する。呼吸が苦しく、喘ぐような声が喉から洩れた。

 手足から、急速に力が抜けてゆく。このまま、眠らせてくれ。そんな声が、聞こえるような気がした。

 ──だめだ!

 ロードは、自分の手足を叱咤する。

「立つんだ…立って、歩くんだ。走れなくても、歩くことくらいは…」

 ロードは苦しげに立ち上がり、足を進めた。

「カレリアを…助けなきゃならないんだ…!」

 それだけが、支えだった。

 ロードはカレリアのことを一心に想い、それによって気力を振り絞った。

 そして。

 ようやくのことで、ロードが谷を抜けたのは、東の空が淡く輝き始めた頃だった。

 ロードは疲れ果てた身体のまま、街に向かって、牧場の点在するツェルマス山の斜面を降り始めた。

 牧場の朝は早い。すでにあちこちから、牛や鶏の鳴き声が聞こえてきていたが、ロードの耳には届いていない。また、牧場で働く者たちも、仕事に忙しくてロードに気付く余裕はなかった。

 そんな中、ロードに気付いて声をかけた者がいた。

「ロード君!」

 一人の男性が駆けてくる。四角い眼鏡を掛けた、若い男性。長身だが、細身である。牧場で働いているようには見えなかった。

 その人が誰なのか思い出す前に、彼はロードに駆け寄ってきた。

「ロード君…だったよね? どうしたんだい、こんなに汚れて…」

 ロードの衣服は、熊の返り血を浴びたり、木の枝に引っかけたり、山道で転んだりで、すっかり汚れていた。

 それに、頬や唇に残る血の跡。誰が見ても、尋常な格好ではなかった。

「アウラン…さん…」

 ロードは、気遣わしげな視線を向けてくる男性の名を、ようやく思い出した。

 確か、薬学の専門家だと、カレリアは言っていた。

 ロードは力なく、アウランにもたれかかった。アウランは驚きながら、ロードの身体を支える。

「怪我もしてるじゃないか。一体、何があったんだい? それに、カレリアは?」

 カレリアの名を聞いて、ロードは血相を変えた。

「そうだ…行かなくちゃならないんだ!」

 ロードはアウランの両腕を、すがりつくように掴んだ。

「お願いです、アウランさん! クスィ教会の場所を教えて下さい! どうしても、行かなくちゃならないんです!」

「クスィ教会だって? そんなところに、一体何の用があるんだい?」

 アウランは、状況が飲み込めずに困惑する。ただロードの様子から、ただ事ではないということだけは察していたが。

「君は、カレリアと一緒にウェックスフォルト城に行ったんじゃなかったのかい? どうして、突然教会なんかに…」

「カレリアのためなんです!」

 ロードは、必死の形相で言った。疲労しきったはずの顔には、固い決意を込めた表情が浮かんでいる。

 それほどまでに、必死になるのは何のためなのか。アウランにはわかりかねた。

「落ち着いて、何があったのか、詳しく話してくれないか? 場合によっては、力になってあげられるかも知れないんだから」

「あ、あの城に…ウェックスフォルト城に…」

 ロードはアウランに、古城に住んでいた黒髪の女性のことを話した。

 ルナール・ウェックスフォルト。その名を聞いた時、アウランは、先刻ロードの姿を見た時よりも大きく驚いた。

「ルナール…その女性は、本当にルナールと名乗ったんだね?」

「はい…三百年もの間、あの城に一人で住んでいたって…」

「そうか…ルナールが。ルナールが生きていたのか…!」

 驚愕は、安堵と喜びに変わった。大きく息をついて、まだ暗い、薄い藍色の空を見上げる。

「アウランさん…あの人のこと、知ってるんですか?」

 訝しげに、ロードが尋ねる。アウランはわずかに動揺したが、すぐに穏やかな微笑を浮かべた。苦笑に近い笑みであったが。

「これは、失言だったかな…」

「とういうことです?」

「そうだね…魔性の血を受け継いでいるのは、ルナールだけじゃないということさ」

「えっ…?」

 一瞬、ロードの表情が凍りつく。今の言葉の意味を、理解したからだ。

「アウランさん…あなたは…」

「そう。僕もルナールと同じ、魔性の血を継ぐ者さ。そして、ルナールの婚約者でもある。もっとも、三百年も前の話だけれどね」

「あ…あ…」

 ロードは、恐怖に後退った。

 カレリアを氷漬けにし、ロードを吹き飛ばした、ルナールの恐ろしい『力』が、まざまざと記憶に甦ってきたのである。

「怖がらなくていいよ。僕は、君を襲ったりしない。魔性の血を持つ人間だって、みんながみんな、恐ろしい殺人鬼とは限らないんだよ。いや、むしろ、他人に迷惑がかからないように、その『力』を隠して暮らしていた者のほうが多かったんだ。そう…ルナールだってそうだ。あの娘は、心の優しい…」

「違う!」

 ロードは大声で否定した。

「あの人は、マドゥーイに住む人たちを皆殺しにしようとしてるんです! 家族を殺された、復讐だと言って…!」

「何だって…?」

 ロードは、ルナールが今や冷酷な復讐者となっていること、復讐を果たすために、ウェックスフォルト城を覆う結界を破ろうとしていることを話した。そして、それにはハロルドの剣という剣が必要で、ロードはそれを盗んでくるよう強制されたことも。

「そうか…それで、カレリアは、人質に?」

「ルナールさんの『力』で、氷の柱に閉じ込められています。だから、僕は…」

「愚かなことを…。復讐がどんなに無意味なものか、わからないのか…」

 アウランは、悲しげに呟いた。

「それで、ハロルドの剣がクスィ教会にあるというのかい?」

「はい。結界を張っているのは、聖玉っていう玉で、それを壊すには…」

「その話は知っている。クスィ教の神父は、その霊力を聖玉と呼ばれる水晶玉に注ぎ込んで、結界を張る。その時、霊力を注ぎ込む触媒となるのが、剣なんだ。神父の霊力は剣に吸われ、水晶玉へと流れ込む。その時、剣にも神父の霊力が宿るんだ。剣と聖玉は神父の霊力に守られているから、普通の方法では破壊できない」

「そうか…だから、聖玉を破壊できるのは、同じ霊力を持つ剣だけってことになるんですね?」

「そうだ。そして、剣は普通のやり方では破壊できないから、教会で厳重に保管するしかなかった。そういうところだろうな」

「剣を手に入れて結界を破れば、大虐殺が起きてしまう…。でも、僕はカレリアを助けたいんです! だから、ハロルドの剣を手に入れなければならないんです!」

「そうだね。カレリアを助けることには、僕も賛成だ。よし、僕も力を貸そう」

「ほ…本当ですか!」

 ロードは心底嬉しそうな顔をする。

 自分一人の力で、カレリアを助けられるだろうか。ロードは内心不安だった。仮にカレリアを救い出せたとしても、その後に起こる大虐殺を阻止することができるのだろうか、と。

「ルナールは、僕が説得してみる。だから、まずは剣を手に入れよう」

「はい!」

 頷くと同時に、ロードは斜面を下に向かって駆け出した。アウランもそれに続く。

 ロードは、アウランを頼もしく感じていた。

 昔の婚約者なら、うまくあの人を説得してくれるかも知れない。そんな期待があった。

 ただわずかに気がかりなのは、アウランがルナールと結託して、二人で虐殺を始めたりしないかということだったが、可能性は薄いと思えた。

 先刻アウランは、こう呟いた。

「復讐がどんなに無意味なものか、わからないのか…」

 と。

 この言葉が本心である限り、アウランはルナールを止めようとするだろう。

 闇に覆われていたロードの心の中に、微かな希望の光がきらめいていた。

「待ってて、カレリア。必ず、君を助けるから…!」

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