第9話 灰色の古城

 キッチンに、鼻をつくような匂いが充満していた。

 コンロの上の鍋に入っている、濃い緑色の液体がこの匂いのもとだった。長い間煮詰めていたらしく、鍋からは湯気が立ち上っている。

 湯気が収まるのを待ってから、アウラン・コールレーンはガラスのビーカーを鍋に入れ、中の液体を汲んだ。

 匂いを嗅いで頷くと、ビーカーの中身を大きめの瓶に移した。瓶には側面にラベルが貼ってあり、「咳止め」と書かれている。

 鍋に入っていた液体をすべて瓶に入れ終わると、キッチンに充満した匂いを消すために窓を開ける。先刻まで青かった空は、夕焼けに赤く染まっていた。東の空は、すでに暗い。

 涼しい風が肌を撫でる。アウランはしばらくの間窓際に立って、静かに目を閉じていたが、ふと思い至ったように目を開けると、窓を閉めてキッチンを出た。

 小さな家だから、キッチンから壁一枚で居間に出る。さらに奥に進むと、寝室と書斎が一緒になったような部屋があった。

 窓の側にベッドが置いてあり、反対側の壁に机と本棚がある。ガラス戸のはまった五段の本棚には、薬学の書物がびっしりと並んでいた。

 アウランは眼鏡を外して机に置くと、引き出しから一枚の写真を取り出した。それから、写真を持ったままベッドに腰掛ける。

 写真は、かなり古いもののようだ。写っているのは、一人の女性。いや、女性と言うよりは少女と言うべきか。年の頃は、十七から十八といったところだ。

 美しい少女だ。艶やかな黒髪は背中まで真っ直ぐに伸び、瞳は夜空を思わせる濃い紫。肌は透けるように白く、それでいて不健康そうな印象はない。可憐さというよりは妖艶さを感じさせる顔立ちでありながら、清楚な雰囲気も兼ね備えた、不思議な魅力を持つ容姿である。漆黒のドレスを着ていることから、少女が高貴な生まれであることがうかがえる。

 アウランは写真の少女を見つめ、ため息をついた。美しさに魅了されたという意味ではない。どちらかと言えば、虚しさから生まれたため息だ。

「もう昔のことだと、諦められないのか…」

 もう一度息を吐いてから、天井を仰ぐ。

「僕には、確かめることができない。それが、諦め切れない理由なのはわかっているが…」

 アウランは写真を持ったまま、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。

「彼女は、生きているかもしれない。そう思ったから、この街に来たんだ。しかし…僕にはそれを確かめることかできない…」

 それは、悲しげな、そして寂しげな呟きだった。

「生きているのなら、会いたい…彼女に…」

 写真を側に置いて、アウランは静かに、少女の名を呼んだ。

「ルナール…」



 真紅に染まった太陽は山陰に姿を消し、夜の帳が降り始めた空では、星が一個、また一個と煌めき出していた。

 ロードとカレリアの二人がツェルアム山の麓に到着したのは、そんな時刻である。

 ナーディル山脈の山々は総じて緑が豊かで、麓から中腹あたりまでは針葉樹の森が広がり、それより上に登ると、万年雪が積もっている頂上付近を除けば、青々とした草や高山植物を目にすることができる。なのに、ツェルアム山には、草も木も、およそ緑色をしたものはまるで見当たらなかった。

 灰色。ツェルアム山は、頂上の雪の白以外は、すべてが灰色だった。まるで緑を拒んでいるかのように、岩肌を露出させている。

 この地方の古い言語で、アムは否定を意味する。ツェルは緑。草木の緑を表す。つまり、ツェルアム山とは、緑のない山という意味だ。

 古くから農業と牧畜で生計を立てていたこの地方の人々にとって、緑は生活を支える大切なもの。それゆえ、緑豊かなナーディル山脈にあって、唯一緑を持たないツェルアム山は、呪われた山として恐れられていた。

 そんな山の中腹に、ウェックスフォルト城は建っているのである。麓に住む人々が気味悪がったのも無理はないのかも知れない。

 麓にたどり着いたロードとカレリアは、岩肌と同じ灰色の古城を、いくぶん緊張した面持ちで見上げていた。

 麓からは一本の山道があり、それが螺旋状にツェルアム山を登っていき、やがてウェックスフォルト城に至っている。だから、古城にたどり着くには、この緑のない山を一周しなくてはならない。古城は今、ロードたちの正面上に見えるのだから。

「あれが…」

 ロードの声に、カレリアは頷いた。

「間違いないわ。あれが、ウェックスフォルト城よ」

 あの城に、ウェックスフォルト家の人々が残した財宝がある。むろん、確証のない噂でしかないが、もしその財宝を手に入れることができれば、カレリアの父ピーターの病気も治せるし、何より借金をすべて返済することができる。そうすれば、高利貸しのリカルドに牧場と家とを奪われずに済むのだ。

「行こう」

 ロードがそう言って、足を踏み出した。

「ええ」

 大きく頷いて、カレリアが続く。

 道の傾斜はそれほどなく、登っていくのは困難なことではなかった。道は時計回りに山を回っているので左側は崖であるが、山の斜面自体もそれほど傾斜がきつくないので、万が一足を滑らせても命を落とすことはないだろうと思えた。

 また、狼や熊の心配もない。岩肌の露出した、この緑のない山には、獣が餌にできるようなものがないからである。餌のないところに、獣が住むはずがないのだ。

 そういった意味では、この登山は今までの道より安全と言えた。

 ただ、緑がないだけに、山は荒涼とした雰囲気に包まれている。空気は澄んでいたが、爽やかさは感じない。それに加えて、今は夜。時間が経つにつれて空の紺色が暗くなり、不気味さが増していた。

 涼しかった風は、いつの間にか肌を震わせるほど寒くなっている。薄着のロードは、思わず背中を丸めた。肘の上までまくっていた袖を、大急ぎで元に戻す。

「大丈夫?」

 気遣わしげにロードの顔を覗き込むカレリアに、ロードは苦笑で答えた。

「あはは…ちょっと寒いけど、平気、平気。それより、もうすぐだね」

「え…? あ、うん…」

 微笑して、カレリアは古城を見遣った。

 ここからでは全景を見ることはできないが、アーチ状の門や、先の尖った円錐状の屋根は見える。夜中といっても、完全な闇ではない。月や星の明かりで、周囲の様子はかなり見ることができるのだ。

「あら…?」

 ふと、カレリアが立ち止まった。

「ん? どうかしたの、カレリア?」

 ロードはカレリアより二、三歩先行してしまってから、慌てて振り返った。

 カレリアの視線は、ウェックスフォルト城に注がれている。その瞳は、驚きに見開かれていた。

「どうしたんだよ」

 ロードはカレリアの側に歩み寄った。

「ロード…あ、あれ…」

 カレリアが上方の白を指差す。訝しげに城を見遣るロード。その視線の先には…。

「なっ…!」

 ロードも、思わず声を上げた。

 その昔、異端狩りで主とその一家が惨殺されて以来、誰も近づこうとしなかった古城。そこは誰も住んでいないはずだった。にもかかわらず。

「あ…明かりだ…」

 そう。ウェックスフォルト城に明かりが灯っていたのである。

 薄闇の中、古城は淡いオレンジ色の光を発していた。それは城の窓から洩れる明かりに違いない。それも、一つ二つではない。明るさから推測すると、かなりの数だ。

 ロードとカレリアは、信じられないといった面持ちで城を見上げていた。

 驚愕と同時に、恐怖や不安に近い気持ちが胸に湧き上がってくる。

「あの城には、誰も近づかないんじゃなかったの…?」

「そのはずなんたけど…まさか、亡霊…?」

 ウェックスフォルト城には、異端狩りで殺されたウェックスフォルト家の人々の亡霊が棲みついていて、財宝を狙い城に忍び込んだ者を呪い殺してしまうという噂がある。実際に城へ行くと言って街を出て、そのまま帰って来なかったものもいるという。それゆえ、今ではあの古城に近づく者はいないはずなのだ。

 だとしたら、あの明かりは何なのか。

 このような荒涼とした場所、そして肌寒い空気だ。カレリアが亡霊の仕業だと思い至ってしまうのも、無理もないことかも知れない。

「まさか。そんなはずないよ」

 ロードは努めて明るく笑った。

「亡霊だの、呪いだの、街の人たちの迷信に決まってるさ」

「あたしも、そう思いたいけれど…だとしたら、あの明かりは何なの?」

「人がいるんだ。誰かはわからないけど…」

「でも、城中の明かりがついてるみたいよ。そんなに大勢って、一体…」

「もしかすると、山賊…」

 厳しい表情を浮かべて、ロードが言った。カレリアが双眸を見開いてロードを見る。

「山賊…?」

「でなきゃ、お尋ね者が集まってるのか…とにかく、あの城には人が近づかないから、隠れ家としては絶好の場所だよ。指名手配された犯罪者とかが、何人も逃げ込んで来てるのかも知れない…」

「まさか…」

 不安げな声で呟いて、カレリアはまた城を見上げた。

「どっちにしても、気を付けたほうがいいみたいだ」

「そうね…」

 二人は頷き合うと、また歩き始めた。

 ロードの心にもカレリアの心にも、不安が渦を巻いていた。しかし、二人とも帰ろうとは言わなかった。

 あの城に誰がいようが、カレリアはウェックスフォルト家の財宝を手に入れなければならないのだし、ロードもカレリアの決意が揺るがないことをわかっていたからだ。

 ならば、行くしかない。たとえ山賊や犯罪者が隠れていようが、殺されたウェックスフォルト家の亡霊が待っていようが。

「財宝は、眠らせておくものじゃない。使うべき人間が使って、初めて価値のあるものになるんだ」

 ロードの義父、バイ・ザーンの言葉である。

「だから、眠れる財宝を探し当てて手に入れることは、別に悪いことじゃない。大体、眠れる財宝ってやつの場合、大抵持ち主は遥か昔に死んじまってるんだ。死人には、財宝を使うことはできないだろ?」

 つまるところ、財宝を死人に持たせておくのはもったいないというわけだが、今のロードにはそれが実感で理解できた。

 使うこともできない財宝を抱いて死んでいる者がいれば、同時に財宝を手に入れ、それを使って生き続けることができる者もいるのである。

 だとすれば、死んだ者が持つ財宝は、それを必要としている者に与えられるのが最良ではないか。そうすることで、多くの人が幸せになれるのだから。

 だから、ロードはカレリアに同行している。カレリアが、財宝を必要とする者だと認めたから、護ろうと決意したのである。

 トレジャー・ハンターの血──冒険心が騒がなかったと言えば嘘になる。だが、今はそれ以上に財宝を手に入れる必要性を感じているのだ。

 もしあるのなら、絶対に手に入れてみせる。

 薄闇の中、オレンジ色に浮かび上がるウェックスフォルト城を見上げ、ロードは強く心に誓った。

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