第8話 戦う理由
陽が天頂から西へと降り始めた頃、ロードとカレリアは谷にいた。
灰色の岩肌を剥き出しにした険しい崖の中腹に、道がある。崖の下には針葉樹の森があり、尖った幹の先が手の届くところに突き出ていた。
風の音に混じって、水の流れる音が聞こえる。谷底を、川が流れているのだろう。ロードたちのいる場所から、十メートル下というところか。
ロードとカレリアはその道に、岩壁を背にして腰を下ろし、昼食をとっていた。
乾いたパンにチーズ、干し肉の断片と、あまり豪華な食事とは言い難いが、半日歩き詰めで疲労した身体には、これくらいがちょうどよかった。
食事は、静かだった。疲れていたせいもあるが、何よりロードが一言も話さないのだ。まるで自閉症のように閉口し、カレリアに視線を向けることもせずにパンを口に運ぶ。そんなロードを、カレリアは気遣わしげに見つめていた。
ロードは、後悔していた。熊の目を潰してしまったことを。
両目を潰されては、あの熊はこの先、餌を採ることすらままならない。やがて飢え、死んでしまうだろう。その責任は、自分にある。直接殺したのではないにしても、だ。ロードはそう考え、激しい自己嫌悪に陥っていた。
(あの熊には始め、殺気が感じられなかった。ただ自分のテリトリーに侵入してきた僕たちを警戒していただけなんだ…)
結果的に熊はロードたちを襲ったのだが、それも熊の習性であって、熊の意志ではない。だとすれば、その習性を知っていながら引き出してしまった自分が悪いのだ。にもかかわらず、熊に致命的な傷を負わせてしまった自分の行動は、間違っている。ロードにはそう思えてならなかった。
「僕は、ずるい人間だ…」
ロードは自嘲気味に呟いた。
「僕は、父さんを軽蔑していた。平気で人の命を奪う父さんを、残酷だの、冷酷だのと罵ってた…。でも、僕に父さんを責める権利なんかなかったんだ。僕だって、罪もない動物を死に追いやってしまったんだから…」
「そんなことないわ」
カレリアが身を乗り出した。
「あの時は、ああしなければ二人とも殺されていたわ。ロードは、あたしを護ってくれたんじゃない。ボディガードとしての役目を果たしただけだわ」
「ボディガードっていうのは、人を護る役目だ。他の命を奪う役目じゃないよ…」
ロードは苦笑する。力のない笑いだった。
「僕はあの時、ためらわなかった。熊の目を潰せば…って思いついた時、迷うこともしなかったんだ。そう…あれが、本当の僕なんだ。口では命は大切なんだとか言っておきながら、いざ自分の身が危うくなると、他の命を奪うことに迷いもしない…それが、僕の本性なんだ」
「違うわ! 違う!」
カレリアは声を張り上げた。だが、ロードには聞こえていないようだ。
「情けないよ、僕は。今の今まで、自分は父さんとは違うと思ってた。だけど本当は、父さんと同じだったんだ。残酷で、冷酷で…利己的で」
「違うったら! あの時は、ああするしかなかったのよ。仕方なかったのよ!」
「仕方ない、か…。そう言えば、自分を納得させられる。人間って、みんなそうなんだ」
「えっ…?」
「人を殺したって、盗みをしたって、仕方がなかったって言えば、自分は納得できるものなんだ。自分のしたことを、簡単に正当化できるんだよ。そう…君みたいにね」
ロードは、暗い目をカレリアに向けた。
「そうさ。君は結局、盗みに行くんだよね」
「ロード!」
カレリアは、頬を紅潮させて立ち上がった。
その台詞は、カレリアが一番言って欲しくない言葉だったのである。
たとえウェックスフォルト家の人々がいなくなっても、城の財宝は彼らのものだ。それを無断で持ち出すことは、盗み以外の何物でもない。それは、カレリアも十分に承知していた。決して、良いことをしているのではない、と。
だが、もうそれ以外に道がないのだ。借金を返し、父の病気を治すには、一刻も早くまとまった金が必要だった。それは、ロードも納得してくれたはずではなかったのか。
それなのに、今さら…。
カレリアは瞳を震わせて、ロードを睨み付けた。
「何だよ」
ロードはカレリアから視線を外し、呟くように言った。
「本当のことだろ」
沈黙。カレリアが声を押し殺しているのがわかる。
「そう…そうね。あたしは泥棒だわ、ロードの言う通り。でもね…そうしなくちゃ、あたしもお父さんも住むところをなくしちゃうのよ!」
うつむいたまま、カレリアは叫ぶ。白い頬を、涙が伝っていた。
「ロードだって、わかってくれたじゃない。だから、あたしを護ってくれるって言ってくれたんじゃないの? なのに、今さら…そんな人だと思わなかったわ! もっと…もっと優しくて、素敵な人だと思ってたのに!」
「…」
「もう、いい」
そう言い残して、カレリアは走り出した。むろん、ツェルアム山の方角に。リュックを置き去りにしていたが、それには気づいていないようだった。
ロードは、追わなかった。カレリアが視界から消えると、大きく息をつく。
「そうさ…泥棒の手伝いをしなくてすむんだ。よかったじゃないか」
嘘だ。ロードの本心は、口に出した台詞とは裏腹だった。
ロードは認めていたのだ。カレリアの行動の正当性を。カレリアに言ったのは、自暴自棄になって思わず口をついて出てしまった、心にもない台詞だったのだ。しかし、あの時は自棄になっていて、素直に謝ることができなかったのである。
その気持ちは、今も少しだけ残っている。それが、ロードがカレリアを追わなかった理由の一つだ。素直に謝るのが、悔しい。いや、謝ってもカレリアが許してくれないのではないかと、不安なのかも知れない。
もう一つの理由は、恐怖。この先には、また罪もない動物を殺さなければならないような状況が待っているのではないか。
この辺りに棲んでいる熊が、あの一頭だけとは限らない。それに、熊だけが森の生き物ではない。例えば、狼。野犬だって、いても不思議はない。
それが襲い掛かってきたら、また殺さなければならない。それが怖かったのである。
「でも…待てよ…」
ロードははたと気が付いた。もしも狼や野犬がこの辺りにいるとしたら。それらが襲い掛かってくる状況が、この先で待ち受けているとしたら。
「一人で行ったカレリアは…」
ロードはさあっと血の気が引くのを感じた。一瞬、血にまみれたカレリアの姿が脳裏に浮かび、弾けるようにして消える。
その時、甲高い悲鳴がロードの耳に届いた。距離が遠く、ごく小さな叫び声だったが、間違えるはずもない。カレリアの声だ。
──まさか!
ロードは跳ねるように立ち上がり、駆け出した。
小石の転がる道を、時折つまづきながら走る。カレリアの名を呼びながら。
カレリアのもとに行って、どうするつもりなのか。狼や熊に襲われているのなら、それと戦うのか? また殺してしまうかも知れないのに?
ロードの頭の中を、そんな疑問が浮かんでは消えていった。
カレリアのもとに行ってしまったら、また動物を傷つけてしまうんだぞ! さっきの熊にしたのと同じことを、またやってしまうかも知れないんだぞ!
もう一人のロードが、心の中で叫ぶ。戦うな、殺すな、そして──行くな、と。
「黙れえっ!」
ロードは声を張り上げた。心の中の叫びをかき消すために。
「戦う! 殺したくはないけど! 傷つけたくはないけど!」
ロードは今、本能的に察していた。理性的にではなく。
人には、戦わなければならない時がある。
戦いとは傷つけ、傷つくことだ。後味は悪い。だが、あえてそんな戦いに臨まなければならない時があるのだ、と。
そう──それは、大切な人を護る時。理屈ばかりでは、自分にとって大事な人を護ることはできないのだ。
カレリアの悲鳴を聞いた時、ロードは戦うつもりだった。カレリアの身にふりかかる災いと。それがたとえ、狼であれ、熊であれ。
「カレリア!」
前方に、少女の姿がある。うつ伏せに倒れていた。周りに獣は──いない。
ロードはカレリアの側に膝をついて、その顔を覗き込んだ。
カレリアは、気を失っていた。こめかみの辺りから血が流れている。傷の様子からして、何かが強くぶつかってきたようだが、軽傷だ。出血はおさまりかけている。
ロードはカレリアを抱き起こし、周囲に視線を巡らせた。視界に大小の石がいくつか見える。落石だろうとロードは察した。
「カレリア…カレリア!」
ロードが二、三度肩を揺さぶると、カレリアは小さく呻きながら目を開けた。ロードの腕の中にいることに気づくと、力なく微笑んだ。
「…ロード。来て…くれたんだ」
ロードは頷く。懐から出したハンカチで、頬に伝う血を拭いながら。
そうだ。失ってからでは遅いんだと、ロードは思った。
もしもカレリアの悲鳴の原因が、落石ではなく熊や狼だったら、ロードは一生後悔していたことだろう。綺麗事ばかりでは、大切な人を護ることなどできないのだ。
「行こう、ウェックスフォルト城へ」
ロードは、優しい笑顔を浮かべて言った。この娘を護るために、戦おう。心の中で、そう誓いながら。
「いいの…? あたし、泥棒に行くのよ?」
「違うよ、カレリア」
ロードは片目をつむって、人差し指を立てた。
「僕たちは、
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