第7話 葛藤の森

 陽がまだ東寄りの空にあるうちに、ロードとカレリアは森に入った。

 ツェルマス山とツェルアク山との間に挟まれた位置にある、針葉樹の森である。奥へ進むと、細長い川が底に流れる渓谷に出る。その谷を抜ければ、ウェックスフォルト城の建つツェルアム山の麓に至るのだ。

 森と言えば、ロードなどは蒸し暑いジャングルを連想するが、ここは標高が高いため、涼しかった。下生えの草も丈が低く、森の中の行軍は快適だった。ただ一つ、いつどこから噂の熊が出現するかも知れないという心配をしなければ。

「まだそんなに奥のほうじゃないから、出ないと思うけれど…」

 そう言うカレリアの声も、どこか張り詰めている。無理もない。大人びた態度を見せることもあるが、カレリアもロードと同じく、まだ十二歳の子供なのだから。

「大丈夫だよ」

 ロードはカレリアを元気づけようと、わざと明るく言った。

「殺気をもった気配なら、感じられるよ。父さんに鍛えられたからね。気配を感じたら、すぐにどこかに隠れればいいさ」

「そうね…頼りにしてるわ」

 ロードの心中を察したのか、カレリアは微笑んだ。だが、まだどこか儚げだ。

「任せときなって。こう見えても、勘は抜群に鋭いんだ。何なら、試してみせようか?」

「え…どうやって?」

「そうだなあ。例えば、僕が寝てた部屋に、絵が掛かってたよね。牧場の絵」

「ああ、あれね。あれは…」

「待って。描いた人を当てるから。マイアってサインがあったけど…ズバリ、あの絵を描いたのは君のお母さんだろ?」

 ロードは自信満々といった顔をカレリアに向ける。カレリアは、苦笑した。

「違うわ。あれは、あたしのお祖母ちゃんが描いた絵よ」

「ええ? そ、そうなの?」

 ロードは誤魔化すような笑みを浮かべて、頭をかいた。

「もう…本当に頼りにしていいのかしら?」

 ロードの当て外れな予想が、かえってカレリアの張り詰めた気持ちを和ませたらしい。カレリアの顔から、明るい微笑がこぼれた。

「しっかりしてよね。自分からボディガードを申し出たんだから」

「だ、大丈夫さ。僕は本番に強いんだ。本当に熊が出た時には、絶対に感じてみせるよ」

 ロードは右腕の袖をまくって、力瘤をつくってみせた。カレリアは思わず吹き出す。

「気配を感じるのに、腕力が必要なの?」

「え…?」

 ロードは立ち止まって、自分の右腕を見つめてしまう。

 二人は、同時に笑い出した。

 何だか、やることなすことが裏目に出てしまったが、それでカレリアの気が晴れたのなら、よしとしよう。笑いながら、ロードは一人、心の中で納得していた。

 その時である。

 ロードの背中に、悪寒が走った。アウランとすれ違った時に感じたような、わずかな寒気ではない。ロードは突然立ち止まった。

「…どうしたの?」

 数歩先行してしまったカレリアが振り返った。その視線の先に、厳しい目つきをしたロードがいる。

 ロードは息を止めて、鋭い視線を左右に走らせていた。そのただならぬ様子に、一度は和んだカレリアの神経が再び張り詰める。

「ロード…もしかして」

 カレリアの問いに、ロードは無言で頷く。

 ──いる。大きな気配が。

「どこだ…」

 不安げにロードに身体を寄せるカレリアの手を取って、ロードは気配の主の居場所を懸命に探った。

 ロードたちがいる辺りは茂みが多く、いつの間にか見通しが悪くなっていた。カレリアを元気づけることに心を奪われすぎて、それに気づかなかった自分をロードは呪った。こういう視界の悪い場所では、警戒を怠ってはならなかったのだ。

 思わず舌打ちしたくなるほど、気配の主は近くにいる。

 おそらく、茂みに隠れてこちらの様子を窺っているのだろう。とすれば、ロードたちの存在はすでに気配の主に悟られている。どこかに隠れてやり過ごす、という手はもう使えなかった。

「カレリア…その熊は、人間を襲うのかい?」

 ロードは小声で尋ねた。

 もし熊が人間の味を覚えていないのなら、まだどうにかなる。昨晩カレリアは、熊が出るとは言ったが、その熊が人間を喰い殺すとは言っていないのだ。

「わからないわ…」

 カレリアは、怯えた声で答える。

 突然、左手の茂みが騒がしく揺れた。ロードたちが視線を投げると同時、大きく黒い身体がそこから現れた。

 噂通り、それは熊だった。体長三メートルはあろうか。漆黒の体毛に、首の部分だけが切り取ったように白い。白目のほとんどない丸い瞳が、ロードとカレリアをじっと見据えている。二人は、足のすくむ思いがした。

 地面についた四本の足の先から、鋭い爪が覗いている。前脚は太く、殴られでもしたら一撃で首が飛んでしまいそうだ。口は閉じているが、その中には太く鋭い牙が隠れているのだろう。

 熊は、前脚をついて首を低くし、警戒の念をあらわにしている。ロードとカレリアは、金縛りにあったかのようにその場に立ちつくした。

 このまま、熊の餌食になってしまうのだろうか。いや、その前にあの太い脚についている爪に抉られて、血飛沫を上げながら死んでいくのかも知れない。考えは、悪い方へ悪い方へと進んでゆく。咄嗟のことに混乱した人間というのは、そういうものだ。義父と幾多の危険を経験したはずのロードでさえ、そうだった。

 だが、そんなロードの混乱も長くはなかった。彼を我に返らせたのは、隣に立つカレリアの存在だった。

 彼女を死なせる訳にはいかない。カレリア本人のためなのはもちろん、彼女を家で待っている父、ピーターのためにも。カレリアを護るために、自分はここにいるのだ。

 ロードは懸命に自分の心を落ち着かせ、二人を見据える熊の、漆黒の双眸を見返した。

(とにかく、こいつが人間を襲うという確証はないんだ。うまくすれば…)

 熊は、その巨体を二人に向けたまま、動かない。だがそれがかえって、ロードに威圧感を感じさせた。少しでも動けば襲うぞ、とでも言っているようだ。しかし今のところは、熊から殺気は感じられない。突然の侵入者に警戒しているだけのようだ。まだ望みはあるとロードは思った。

「カレリア」

 ロードは熊と視線を合わせたまま、カレリアの名を呼んだ。頬に視線を感じたことで、カレリアがロードの呼びかけに反応したことがわかる。

「ゆっくり、僕のリュックから食べ物を出すんだ。何でもいい。とにかく、あいつの目に留まるようなもの…そうだ、チーズの塊がいい」

「チーズの…塊ね?」

 ややうわずった声が返ってくる。ロードは頷いてみせた。

「そう…ゆっくりとね。あいつを刺激しちゃいけないんだ」

「わ、わかったわ」

 熊の視線に怯えながら、カレリアはロードの指示通り、ゆっくりとした動作で、ロードの背中のリュックを開けた。そして、中から四角いチーズの塊を取り出す。その匂いに、熊の鼻がピクリと動いた。

 ロードはチーズを受け取ると、それを前に突き出した。熊に、匂いの元がチーズであることを認識させるためである。熊はチーズの匂いに反応してか、低く唸った。

「よし…」

 ロードはチーズを右斜め前方に投げた。それは近くの木の幹に当たって、丈の短い草の上に転がった。熊の視線がそれを追う。

「ロード…?」

「いいかい、カレリア。あいつがチーズを食べ始めたら、忍び足であいつの横をすり抜けるんだ。だけど、絶対に背中を見せちゃいけない。熊は、人間の背中を見ると衝動的にそれを追いかけてしまうんだ。だから」

「わかったわ」

 カレリアはぎこちなく頷いた。

 ロードは、この時ばかりは義父に感謝した。こういう知識は、専らバイ・ザーンに教わったものであったから。

 だが、義父を認めたわけではない。残酷な義父なら、こんな状況に陥れば迷わず戦っただろう。そして、殺す。そう思うと、義父に対する侮蔑の念が湧いてくるのだ。

「ロード。熊が、チーズを食べ始めたわ」

 カレリアの声で、ロードは我に返った。見ると、なるほど、熊はその巨体を屈ませて、チーズの塊を食べ始めている。あの大きさなら一口だろうが、噛んで飲み込むまでにある程度の時間は稼げるだろう。その間に逃げればいい。

 ロードはカレリアの手を引いて、静かに、しかし急いで歩き出した。

 熊は、こちらの動きに気づいていない。チーズを噛む音が、妙に大きく聞こえた。空気が張り詰めているせいだとロードは思った。思いながら、足を進める。

 二人は熊の横、一メートルといったところを通り過ぎた。熊に背を向けないように、後退りする格好で熊から離れていく。その間、ロードもカレリアも無言だった。

 熊のいる場所から、五メートルほど離れたろうか。ロードはカレリアに、走ろうと顎で合図した。カレリアはわずかに顎を引いて、同意した。

 二人は同時に身体を反転させた。だがその時、幸運の女神は突然に去ってしまった。踏み出したロードの足が、枯れ枝を踏んでしまったのである。

 バキッという、乾いた音が思いの外大きく響いた。ロードとカレリアの動きが止まる。

 しまったと思った時は、もう遅い。熊は音に気付いて顔を上げ、二人の背中を見てしまっていた。突如として熊は吠え、前脚を振り上げてのけ反った。

 熊の咆哮に腹を抉られるような感覚を覚えながらも、ロードは叫んだ。

「走るんだ、カレリア!」

 二人のスタートと、熊のスタート。それは、ほぼ同時だった。

 二人は逃げた。森の中を、力の限り。追いつかれたら、助からない。そんな恐怖に突き動かされて、まさに無我夢中の思いで。

 しかし、熊の足は速い。五メートルという距離の差を、みるみるうちに縮めてゆく。その巨体からは想像もできないスピードだった。

 このままでは追いつかれる。そう判断したロードは、隣を走るカレリアに叫んだ。

「木に登るんだ!」

 幸い、この辺りに生えている針葉樹は幹の表面が粗く、登りやすい。ロードは持ち前の身軽さで一本の木の幹に飛びつくと、素早く手を伸ばしてカレリアを引き上げた。二人は死に物狂いで登り続け、地上から四メートルほどの高さの枝の上に落ち着いた。その頃には、すでに熊はその木の根元にいた。

 熊は、まるで狂気にでも取りつかれたかのごとく、牙を剥き出しにして上のロードたちを睨みつけ、吠えた。そう…闘牛が赤い布を見て怒り狂うのと同じように。

 そして熊は、次に驚くべき行動に出た。木の幹に両腕を回すと、その巨体を上へと持ち上げたのだ。ロードは仰天し、そして思い出した。そう、熊は木に登れるのだ。

「ロード!」

「どうする…どうする…?」

 熊の顔がすぐ足下に迫る。

 ロードは必死に考えを巡らせた。思いついた手は、残酷な行為。普段のロードなら躊躇するだろうが、この事態では迷っている暇はない。ロードは夢中でリュックを探り、中からナイフを取り出した。

「ロード? どうするつもりなの!?」

 カレリアの言葉が終わらないうちに、ロードは跳躍していた。

「うわあああッ!」

 ナイフを逆手に持って、吠える。熊の咆哮もかくやというほど、その叫び声は大きく森に響いた。

 大きく見開かれた熊の左目に、ロードはナイフを突き立てた。嫌な感触がして、鮮血が飛び散る。ロードの身体は、熊の首に馬乗りになっていた。返り血を浴びながら、ロードは振り落とされる前に、熊の右目にもナイフをねじ込んだ。

 熊は、絶叫して地面に落ちる。諸共に落ちたロードは一転して跳ね起き、跳躍した。一瞬遅れて、ロードがいた場所を熊の右手が通り過ぎていった。飛び退くのがもう一秒でも遅かったら、ロードの身体は熊の鋭い爪に切り裂かれていただろう。

 両目を潰されて、熊は痛みに吠えた。突如として訪れた暗闇に混乱し、両腕を滅茶苦茶に振り回している。ロードは身を低くしながら、熊から離れた。

「今だ、カレリア!」

 ロードの声に、カレリアは切迫した表情で頷いた。木の幹を滑り降りてくる。ロードは熊の血に濡れた手でカレリアの手を引っ掴むと、有無も言わせず走り出した。カレリアも懸命に足を動かす。顔からは血の気が引いており、自分の掌に血がついたことにも気づかない様子だった。

 二人は、走り続けた。熊は追ってこない。

 ロードは熊の悲痛な叫びを背中で聞きながら、胸が張り裂けそうな思いに、ギュッと両目を閉じていた。

「仕方がないんだ…仕方がないんだ…!」

 叫べば叫ぶほど、胸の中の罪悪感は膨らみ続ける。

 やがて、振り返っても熊の姿は見えなくなった。道が下りになったのである。

 だが、ロードの耳の奥ではまだ、熊の絶叫がこだましていた。

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