第3話 牧場の少女
緑の絨毯が敷き詰められているかのように、美しい草原だった。
遠くに、白いペンキを塗った木の柵が見える。それはぐるりと、この草原の一角を囲んでいた。北側に、出入口がある。
北のほうには、空高く聳える峰々が、三角屋根の建物の背後に見える。頂には純白の雪。雄大な光景は、見る者をして感嘆の息を洩らさしめる。今日のように澄み切った青空のもとでは、際立って美しい。
一匹の犬が、吠えながら草原を走り回っている。黒い体毛に、尻尾だけが白い。小柄なだけに、その声は甲高く響いていた。
犬に追われて、白と黒の斑の牛が足を進める。数にして、四頭。犬に急き立てられるまま、北側の出入口に向かっていた。
出入口の、木組みの扉は開けられていた。一人の少女が、傍らに立っている。
十二、三歳といった容姿だ。可憐な中にも、芯の強さを感じさせるような顔立ち。澄んだ瞳は、薄いブルー。焦げ茶色の髪は、後ろで束ねられていた。飾り気のない、素朴な衣装を着ているが、着飾れば星のように輝くに違いない。
牛たちが少女の前を通り過ぎ、その先の牛舎に向かってゆっくりと歩いてゆく。それを急かす犬の声は、まだ止まなかった。
少女は、美しい山々を見上げた。眩しい朝日に、目を細めて。
小刻みに震えるバスの中で、ロードは目覚めた。
小さく呻いて、薄く開いたロードの瞳を、朝日が刺激する。眩しいほどに輝く太陽の光は、右手の窓から差し込んできている。ロードは一瞬目を閉じて、それからゆっくりと開いた。
「朝か…」
ロードは自分の置かれている状況を認識してから、そう呟いた。
車内は静かだ。椅子に座ったままではよく眠れないのだろう、車内に備え付けられた時計はもう八時を指しているというのに、乗客の半分はまだ寝たままである。
一体、どこまで来たんだろう。そう思ったロードは、窓の外に目を遣った。
まずロードの視界に飛び込んできたのは、広大な草原だった。青々とした草が風になびいて、まるでさざ波のような光景を見せている。バスは、その草原を縦断する道路を走っているのだ。
道路とはいっても、舗装はされていない。踏み固められた土が剥き出しで、小石がそこかしこに転がっている。バスが小刻みに震えているように感じたのは、このせいだった。バスが反重力で浮いてでもいれば揺れはしないのだろうが、古きを重んじる国の気風のせいか、このバスは車輪式であった。
草原の彼方には、霞がかった山々。その上は、純白の雲がたなびく青空である。
その景観の美しさに、ロードは思わず嘆息した。
「北に向かってるんだ…」
バスの向かう先には、雪を頂く雄大な峰々がひときわ大きく見える。麓に街が見えた時、ロードはこのバスの目的地はあそこなんだと見当をつけた。昨夜このバスに乗った時、ロードはろくに行き先を確かめることもしなかったのである。もっとも、行き先の街の名を知ったところで、その街がどこにあるのかがわかるはずもなかったのだが。
今頃、義父はどうしているだろう。ふと、そんなことを考える。
ロードがいないことに気づいて、街中を探し回っているだろうか。それとも…。
「そうだ。父さんはたぶん、ホテルには帰ってない…」
それはつまり、一晩をあのメルニアという女性と過ごしたということだ。可能性としては、それが最も高いと思えた。だとすると義父は、ロードの失踪に気づいてはいない。一人でホテルに帰ったものと思い込んでいることだろう。そして、自分は朝までメルニアともにベッドの中で…。
恥ずかしい想像をしてしまい、ロードは一人で赤面した。と同時に、義父を軽蔑する。
──女ったらし!
ロードは心の中で吐き捨てた。今やロードは、義父のすべてを嫌うようになっていた。それが俗にいう反抗期だということに、むろんロード自身は気づかない。
街が近づき、それを知らせるアナウンスが車内に流れた。今まで眠っていた乗客たちもようやく目を覚まし、気だるそうに網棚の荷物を下ろし始めた。手荷物の一つも持っていなかったロードは、何となく居心地が悪かった。
それからおよそ十分ほどで、バスは街の入口に停車した。ここが終点らしい。ロードを含む乗客たちは、料金を支払って下車した。
乗客たちはそれぞれの目的の場所を目指して街に入ってゆく。ロードも、このまま街の入口に突っ立っていても仕方がないので、ともかく街に入った。
マドゥーイの街──ロードはバスの車内アナウンスで初めてこの名を知った──は、首都ウィックレーとは違い、落ち着いた雰囲気のある街だった。
古い建物が、入り組んだ石畳の通りに沿って建ち並んでいる。白い壁に、茶色の屋根といった組合せがほとんどである。通りの脇には街路樹が植えられ、明るい緑が目をひく。屋根の群れの向こうに、教会らしき建物も見えた。
落ち着いた雰囲気とはいっても、決して寂しい街ではない。人々は素朴ながら活気があった。買い物をする主婦や、車の往来の少ない通りを駆け回る子供たち。幼い少女が紅い花を売っていた。香ばしい匂いを漂わせる露店も、あちこちに見られる。
そんな街を心和む気持ちで歩きながら、ロードは朝食を採ろうと思い至った。考えてみれば、昨日は夕食を食べていなかった。
適当な露店の前で足を止め、チーズの塊を三つ串に刺したものを一本買って、それを片手にまた歩き出す。これからどうしようか、と考えながら。
チーズは、舌がとろけそうなほど美味しかった。市販されているチーズにはない、独特の甘みがある。ここはチーズの街なのかな、とロードはなんとなく思った。
いつしか、中央に噴水のある広場に出る。ここでは、露店が特に多かった。食べ物に限らず、食器や貴金属を売っている店もある。人も多く、程よい活気に溢れていた。
そんな時、ふと、両手に大きな袋を下げた少女の後ろ姿が目に入った。焦げ茶色の髪がクリーム色のリボンで一つに束ねられている。背格好から察するに、ロードと同じくらいの年頃だろうか。
重そうである。中身は大量の食べ物らしい。手伝ってあげようかな。ロードはそう思って、残ったチーズを大急ぎで口に押し込んだ。
少女が悲鳴を上げたのは、その時である。
無関心を装って少女の側を歩いていた、痩せた体つきの男が、いきなり少女を突き飛ばした。少女は石畳に転倒し、その拍子に袋の中身がぶちまけられる。野菜や果物が石畳を転がり、驚いた人々が思わず身を引いた。
財布も袋に入っていたのだろうか。それとも、懐に入れておいたものが転んだ拍子に落ちたのか。ともかく、石畳には少女の財布も落ちていた。男は素早くそれを引っ掴むと、少女が引き止める間もなく一目散に逃げ出した。
「ど、泥棒!」
ようやく我に返った少女が、慌てて叫ぶ。ロードは弾かれたように駆け出した。
障害となる人々を突き飛ばしながら進む男を、ロードは追う。持ち前の俊敏さで、人と人との隙間を縫うようにしながら。
「誰か、捕まえて!」
少女の声を背中に聞きながら、ロードはみるみるうちに男との距離を詰めていった。足の速さでは、明らかにロードのほうが上のようだった。
このまま男を一度追い抜いて、目の前に立ちはだかることもできるが、ロードの体重では逆に突き飛ばされる恐れがある。だからロードは地を蹴って、男の脚にしがみついた。
バランスを崩してうつ伏せに倒れる男。その拍子に財布が男の手から離れた。男と一緒にもつれるように倒れたロードは、大急ぎで立ち上がり、財布に飛びついた。
「こ、このガキ!」
遅れて立ち上がった男が、怒りもあらわにロードに飛びかかった。ロードを石畳の上に押し倒し、財布をもぎ取ろうとする。だがロードは、殴られても、手首をきつく締め上げられても、決して財布を放そうとはしなかった。
そうこうするうちに騒ぎが大きくなり、紺色の制服を着た警官が駆けつけてきた。男は悔しげに舌打ちすると、財布をあきらめて逃げて行った。警官はそれを追って通りの奥に消え、ロードのもとには財布の持ち主が駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
ロードの側に膝をついて、心配そうに尋ねる少女に、ロードは笑顔で答えた。仰向けに倒れたまま、革製の財布を少女に差し出す。
「ありがとう…」
少女はそう言って、財布を差し出したロードの手を、両手で包み込むように握った。その時初めて少女の顔を見たロードは、その可憐さに頬を染めた。
「立てる?」
「え? ああ、うん、平気だよ」
少女の手助けを遠慮して、ロードは自力で立ち上がった。
拍手が聞こえる。いつしかロードと少女の周囲に集まっていた人々が、ロードの健闘を讃えて一人、また一人と手を叩き始めたのである。
喝采と歓声、口笛が乱れ飛ぶ中、ロードは照れ笑いを浮かべた。
「この財布、お母さんの形見なの。だから失くすわけにはいかなかったのよ。本当にありがとう」
少女は、もう一度ロードの手を取った。歓声が、ひときわ大きくなる。
「何だか、恥ずかしいな。そんなに大騒ぎするようなこと、してないのに」
「ううん、あたしには空からお金が降ってくるより嬉しいわ。一緒に来て。何かお礼がしたいから」
ロードは一瞬躊躇したが、特にこの少女の厚意を断る理由もないと考え、一緒に行くことにした。もちろん、荷物の一つを持ってやることは忘れない。
少女とロードは先刻の広場を通り抜け、北へ向かった。正面に、雄大な峰々か大きく見える。マドゥーイの街は、山脈の麓の斜面に隣接しているようだった。
二人は歩きながら、お互いの身の上を話し合った。
少女の名は、カレリア・キルケニィ。街の郊外──つまり、麓の斜面に住み、父と二人で牧場を経営しているのだという。カレリアによれば、この街は牧畜の街で、街の北に横たわるナーディル山脈の麓では、いくつもの牧場があるそうだった。
「じゃあ、君のところにも牛がいるんだ」
「ええ、四頭だけね。前はもう少しいたんだけど、今はそれだけ。でも、みんないい乳を出してくれるから、何とかやっていくだけのお金は稼げるのよ」
「へえ…でも、もっとたくさん飼えば、もっと稼げるんだろ? なのに、どうして四頭だけなんだい?」
「大変なのよ、これ以上は。お母さんは死んでしまったし、お父さんも病気で寝たきりだし。あたし一人で世話するには、四頭が限界」
少し悲しげに、カレリアは言った。
「そうか…嫌なこと聞いちゃったかな。ごめん」
「ううん、いいのよ。現実のことだもの。それより、ロードはどうしてこの街に来たの? 誰かに会うため?」
「え? あ、ええと…ちょっと、ね…」
義父のもとから逃げ出したことは、カレリアには話さなかった。隠す必要もないのだが、何となく話しづらかったのだ。義父の許可をもらって、気ままに一人旅を続けていた途中で、この街に立ち寄った、と、そういうことにしておいた。
「ふうん…それにしては、手荷物もないのね」
鋭い指摘。ロードは狼狽しながら、途中で盗まれたと言って誤魔化した。カレリアは訝しんだが、恩人をそれ以上詮索する必要もないと思ったのだろう。とりあえずは納得してくれた。
「それじゃあ、まだ宿は取ってないのね? だったら、うちに泊まって。あまり長くは困るけど、二、三日なら構わないわ。お礼の意味もあるけれど、家にはあたしとお父さんの二人だけだから、ロードがいてくれたら楽しいと思うの」
「え、でも…」
ロードは始めこそ断ろうとしたのだが、懐の中身が少女の厚意を受けようと決意させた。
とはいえ、お礼に甘んじてばかりでは自分が納得できないと思ったロードは、牛の世話を手伝いたいと申し出た。カレリアもそれを快く承知してくれた。農家にとって、人手はあるに越したことはないのである。
それからおよそ一時間ほど歩いて、二人はカレリアの家に着いた。
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