朝がきて、陽が昇る
「よく手放せたもんだよなあ。こんなに痛いのに、つらいのに……」
優人に取って澪は、とても大切な存在だったはずだ。
それこそ零にとっての有栖以上に大事な人間で、相当大切に想っていたことは間違いない。
その手を、よく自分の方から離すことができたものだと思う。それも、二度も。
二人が【トランプキングダム】に所属していた頃、澪を安全な場所に逃がすために彼女の背を押したのが一回目、つい先日の事務所の崩壊と共にVtuberを引退せざるを得なくなった時が二回目。
少なくとも、優人は二度も大切な人と離れ離れになる苦しみを味わったことになる。
……いや、そこではない。本当につらいのは、その間の時間かもしれない。
大切な人と離れ離れになった後、その人と触れ合うことができない時間こそが、何よりも心を抉る苦しみなのかもしれないと零は思う。
きっと、零よりも澪の方が何倍も苦しく、つらい気持ちを抱えているのだろう。
それでも優人の言葉を信じて立ち続けようと、彼をこの世界で待つと決めたからこそ、彼女は今も左右田紗理奈として活動し続けている。
そして、優人もまたそんな彼女と再会する日を迎えるために、一生懸命に戦い続けているのだ。
二人とも苦しいだろう、つらいだろう。それでも、彼らは歩き続けようとしている。
大切な人との別れを決断することも、その苦しみを背負ったまま歩き続けることも、きっと零の想像を絶するほどに過酷であるというのに、優人はそれを平然とやってのけている。
本当にすごいと思う。改めて、彼がどれほど偉大なのかがわかった気がする。
だからこそ……自分はああはなれないと、零はそう確信に近しい思いを抱いてもいた。
失いたくない。何一つとして。薫子がくれた居場所も、沙織も天もスイも梨子もファンたちとの繋がりも、何一つだって……大切に想う人たちと別れたくないし、この日々を失いたくない。
それとも……いつかは来るのだろうか? 蛇道枢として得た全てのものを、有栖のような自分が大切だと大切な存在をこのバーチャルの世界に置いて、旅立とうと思う時が。
それがどんな瞬間で、どんな思いを抱きながら踏み出すのかだなんて想像すらできない。
だけれども、きっと自己犠牲でそんなことはできないなと、零はそう思う。
自分は優人ほど強くない。昔はそうだったかもしれないが、今は……弱くなってしまった。
誰かのために体を張ることはできても、誰かのためにその命を投げ捨てるような真似はできなくなってしまったかもしれないなと考えた零が瞳を閉じれば、その脳裏にこの場にいないはずの優人の声が聞こえてきた。
『……いいんだよ、それで。無理に強くなる必要なんてない。そんな強さを持って突き進み続けた僕がどうなったかを、君はその目で見たはずだろう? ……僕は、強くなんかないよ。阿久津くんの方が、僕よりずっと強い』
ぽん、とベッドサイドにしゃがむ零の肩を叩き、小さく微笑む優人の幻影。
自分の背中を見つめたままの彼は、振り向かない零へとこう続ける。
『本当は僕だって澪に抱き締めてもらいたかった。彼女の傍にいたかったし、いてほしかった。それができなかったのは、強くならなくちゃいけないと思い込んだ僕の弱さのせいさ。一人でずっと何もかもを抱え込んでいたから……僕はそれ以上強くなれなかったんだ』
死ぬほど理解できる、優人の言葉。強くならなくてはならないという、一年ほど前の自分も抱いていた思いを語る彼の言葉に零が息を吐く。
だが、その思いや考えを否定した優人は、自分のことを強くて偉大だと賞賛してくれた零のことを逆に褒め始めた。
『君は本当に強くなったよ。大切な人を失いたくないっていうその弱さは、君の成長の表れなんだ。大切な人を大切に想うことも、それを失いたくないと思うことも……何も、おかしなことじゃあない。大切な人に弱さを見せて、抱き締めてもらえるようになった君は、また一つ強くなったんだよ。胸を張って誇っていい』
ゆっくりと、有栖の手を握る手を開く。
目を細め、彼女の寝顔を見つめる零は、僅かな喪失感を抱きながらもそれを受け入れ、立ち上がる。
『……また、会おう。その時はきっと、こんな中途半端な形じゃなく、面と向かって話そうよ。だから……その日まで足を止めちゃだめだよ、阿久津くん。君を支えてくれる人たちと、一歩ずつでいいから歩き続けるんだ』
優人の幻影の言葉に頷く零。
その言葉を最後に声は聞こえなくなり、元の静寂が部屋を包む。
自分と、有栖と、優人と、澪と……それぞれの強さと弱さを一つずつ理解していった零は、踵を返して寝室を出るとキッチンへと向かい、冷蔵庫の中身を確認していく。
普段より食材は少ないが、それでも十分に二人分の朝食は作れるだろう。
明日は久しぶりに自炊して、昼食や夕食のための買い物にも行って、配信活動を再開するための準備をしよう。
下を向くのはやめて……明日から、また歩き出そう。そうしよう。
弱さも傷も痛みも、十分に味わって受け入れた。ならばもう、あとは進むだけだから。
その機会をくれた有栖に感謝しつつ、その気持ちを表すために美味しい朝食を作ろうと決めた零の表情は、明るさに満ちた笑みに変わっていた。
……もうじき、朝がくる。有栖が起きてくるまではまだまだ時間がかかるだろう。
それを待つのも悪くないなと思いながら、零は静かにリビングの椅子に腰を下ろし、一つ一つの感情を確認しながら、彼女が起床するまでの間に気持ちの整理を済ませていくのであった。
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