引き裂かれる、ハート

「この証拠を使えば、剣山さんの悪事を証明できる。だけど、だけど……そうなったら、【トランプキングダム】もただじゃあ済まない。代表である剣山さんが捕まったら、事務所は文字通り終わっちゃう。そんなことになったら、デビューのために努力してたみんなにも、ゆーくんにも迷惑がかかる……みんなの希望や夢を、あたしが壊すことになるんだって考えたら怖くなって、最後の一歩を踏み出すことができなかったの……」


 一聖は【トランプキングダム】の代表だ。そんな彼が自分へのセクハラや脅迫で逮捕されてしまえば、事務所が被る被害もとんでもないものになるだろう。

 スタッフも、演者も、事務所に所属している人間全員が大変な事態に苦しむことになる。

 そしてそれは、大好きな優人も例外ではないのだ。


 もちろん、そうなったとしても悪いのは澪ではない。彼女をものにするために汚い策を弄して取引を持ち掛けた一聖の責任だ。

 しかし……自分の行動が原因で多くの人に迷惑が降りかかると考えてしまうと考えた澪は、その重圧に耐えることができなかったのである。


「……色々とさ、おかしくなってたんだ。急過ぎる事態に混乱して、プレッシャーに押しつぶされて……もしかしたら、剣山さんの言うことに従うのが一番いいのかもって、思ったりもした。あたしが言うことを聞けば、機材の代金をチャラにするだけじゃなくて、ゆーくんにもいいお仕事を回してやるからって、あたしが剣山さんの愛人になれば、全てが上手くいくんだって……そう言われた時、そうなのかもなって思っちゃったりしたんだよね。冷静に考えれば、そんなわけないってすぐにわかるのにさ……」


 自分が犠牲にさえなれば、全員が幸せになれる。

 一聖は告発されず、【トランプキングダム】は恙なく運営を続け、優人には代表が直々に彼が望む仕事を与えてくれるようになるのだから、WIN-WINというやつだろう。


 逆に、澪が一聖を告発した場合はどうなるだろうか?

 一聖は逮捕され、【トランプキングダム】は本格的な活動を開始する前に崩壊し、優人の夢は潰えることとなる。

 誰も……誰一人、幸せになんてなれないのだ。


 自分さえ我慢すればいい。一聖の愛人になって、彼に抱かれて、彼の望むがままに振る舞いさえすれば、誰も不幸になんてなりはしない。

 よく考えて決断しろと、そう一聖に言われてから解放された澪は、自然と自分が犠牲になることが一番の選択肢であると考えるようになっていた。


 自分一人が不幸になれば、他のみんなは幸せだ。

 優人だって何も知らなければ幸せでいてくれる。自分が、自分だけが我慢すればいい。


 ……そう考えるように、自分自身に言い聞かせるようになった澪の表情から、笑みが消えた。

 明るさも、無垢さも、無邪気さも、彼女が持つ魅力は悩みによって全て消し去られてしまった。


 そして……そんな彼女の変化に、優人が気が付かないわけがなかった。

 明らかに様子がおかしくなった澪のことを心配し、はぐらかそうとする彼女を説得し、熱心に話をして……そうやって必死に行動を続けた彼は、ついに澪の口から一聖の悪事を聞きだすに至ったのである。


「……嬉しかったな、あの時は。あたしさえ我慢すればいいんだって、そうすればみんな幸せなんだって、そう言ってたあたしのことをゆーくんがぎゅって抱き締めてくれてさ……君が犠牲になる必要なんてない、君はなんにも悪くないって、そう言ってくれたんだ。その言葉を聞いた瞬間、冷え切ってた体に血が通っていく感じがした。指先まで温かくなって、気が付いたらわんわん泣いちゃっててさ……ゆーくんがあたしのために一生懸命になってくれてなかったら、最悪なことになってたと思う」


 嬉しそうで寂しそうな笑みを浮かべた澪の言葉は、零と沙織の胸に深く突き刺さった。

 暗闇の、絶望の底にいた自分を救ってくれた存在と、その人が投げかけてくれた言葉の温かさと力強さを、二人も理解できるからだろう。


 そうして、澪は優人に全てを打ち明けた後の話を零たちに語っていく。

 彼と彼女の、悲しい別れについて……澪は、静かに話をしていった。


「あたしから話を聞いたゆーくんは、すぐに動いた。ボイスレコーダーのデータをコピーして、それを武器に剣山さんに詰め寄って……誰にも知られないように、誰にも見られないように、問題を解決するために戦い続けてくれたんだ。それはきっと、事態が公になって【トランプキングダム】が潰れたりしたら、あたしが責任を感じるだろうって考えてたからそうしたんだと思う。事務所に被害を出さず、全てを秘密裏に処理するためにゆーくんは戦い続けて、そして――」 


 愛する姫を守り抜くために、彼女を悲しませないために、優人は一人戦いを続け、そして……王に白旗を上げさせた。

 一聖は決定的な証拠を持つ優人の要求を飲み、澪への機材費請求を破棄し、彼女を自由の身にしたのだ。


 もうこれで、彼女を襲う者はいなくなった。彼女を縛る鎖もなくなった。

 しかし……こうなった以上、もう澪は【トランプキングダム】に残ることもできなくなってしまったのである。


 一聖が澪に愛人契約を持ちかけたというのは、極秘中の極秘事項。

 外部にももちろん、内部の人間にも漏れてはマズいトップシークレットだ。


 もしも二人がこれからも傍に居続ければ、ぎこちない二人の関係から何かを察する人間が現れるかもしれない。

 そうなった時、再び澪が脅迫される可能性も十分あり得ると判断した優人は、彼女を守るために澪を【トランプキングダム】から脱退させることを決めた。


 澪もまた、このまま自分が事務所に残ることなどできないと心の何処かで理解しており、彼からの説得にすんなりと首を縦に振って同意し……こうして、ハートのクイーンはデビュー前にその座を退くこととなったのである。


 決して、波紋を残さない抜け方ではなかった。

 そもそも、この段階で事務所を抜けること自体が大きな波紋を呼ぶことであり、【トランプキングダム】の全員を納得させることなどできるはずがなかったわけだ。


 その後、【トランプキングダム】内では突然の澪の脱退に関して、様々な噂が流れた。

 葉介が口走った社長の愛人説、家族の反対説、もっと条件のいい事務所に引き抜かれた説……等々、様々な憶測が流れながらもメンバーが真実に到達することがなかったのは、一聖が敷いた緘口令と優人の努力の賜物だろう。


 澪が事務所を抜けてから、優人は彼女と会おうとはしなかった。

 ライル・レッドハートとしてデビューして忙しかったこともあるのだろうが、それでも事務所の仲間たちに澪との関係を勘繰られないように必死に気持ちを押し殺して彼女との関わりを見せないように振る舞ったお陰で、突然の脱退劇に関するほとぼりも冷めつつあったわけだ。


 それでもたった一つだけ、優人が彼女を想って取った行動があった。

 自らハートのキングの座を降り、ジャックへと転身したことだ。


 それはきっと、彼のこういった想いを表しているのだろう。

 自分にとってのクイーンはたった一人だけ……須藤澪がその座にいない以上、自分は王になるつもりはない、と……。


「……以来、ゆーくんはあたしが渡した証拠を手に、ずっと剣山さんが悪事を働かないか傍で見張り続けてる。もう二度と、あたしみたいな被害者は出さないようにしなくちゃいけないって、そのために僕は【トランプキングダム】に残るんだって、そう言ってた。あたしはその後、【CRE8】のオーディションに合格して、左右田紗理奈としてデビューすることになって……今に至る、ってわけ」


「トラキンの代表に愛人関係を結ぶよう脅迫されて、その結果、事務所を抜けることになった……狩栖さんが言ってた、前にあった似たようなことって、このことだったんだ……」


 沙織からのSOSを受けて彼女の下に急行する際に優人が口にした発言の意味を理解した零が呆然とした様子で呟く。

 自分の立場や権力を活かして澪に迫った一聖のことを知っていたからこそ、彼は同期たちが沙織に同じような真似をしているかもしれないと予想できたのだろう。


 しかし、事態は優人が予想していたよりもずっと質が悪いものであった。

 事務所の顔であり、各スートのキングの立場に就いている同期たちが後輩を利用して同業者に手を出しただなんて……とショックを受けていたのは零だけではなかったようで、その被害に遭った沙織が口を開く。


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