緊急事態、発生


(き、気まずい……っ!)


 ……それから数十分後、零は予想だにしていなかった絶体絶命のピンチを迎えていた。

 なんともいえない空気の中、心の乱れを表に出さないようにしながら自分自身を落ち着かせている彼だが、今、この場では、ほとんどの者が彼と同じような思いをしている。


 まさかこんなことになるなんて……という後悔を抱えながら、零は音を響かせぬよう、静かな動きで呼吸を行っていく。

 なにか1つの物音で全てが崩壊するような張り詰めた感覚。

 そんな感覚を作り出しているTV画面に映る映像を見つめたり見つめなかったりしながら、彼はここまでの流れを振り返っていた。


(最初は良かったんだ。何もかもが順調だった。なのに、こうなるなんて……)


 映画の出来に問題があるわけではない。

 名作スパイ映画と呼ばれる【008】シリーズは、ストーリーもキャストたちの演技も素晴らしいの一言で、様々なツールを活かしたアクションや謎が謎を呼ぶサスペンス的な展開など、観る者たちを夢中にさせる魅力が詰まっていた。


 本当に楽しかったのだ、盛り上がっていたのだ、ほんの数分前までは。

 それが何故、こんな張り詰めた空気に変わってしまったのかというと……今現在、TV画面に流れている映像が原因だった。


『Oh……Yes! Yes!!』


『Come on Honey.I Love You』


 裸の男女が、ベッドの上でくんずほぐれつのやり取りを続けている絵面。

 2人の口からは甘く官能的な声が飛び出しており、これが男女のスパイが激しい肉弾戦を繰り広げているわけではないということは一目でわかる。


 おそらくは、誰もが1度は経験したことがあるであろうあの現象。

 家族とTVを観ながら共に団欒の時を過ごしていたら、唐突にベッドシーンが始まった時のあの気まずい空気が、この部屋の中に満ち満ちているのである。


 いや、それだけならいい。まだ笑ってごまかすという選択肢もある。

 今、この場で零を追い詰めている最大の要素、それは――


(なんで……主人公の名前がレイで、ヒロインがアリスなんだよ!?)


 ――なんの運命の因果か、神のいたずらか。今、自分たちの目の前で流れる濃厚なベッドシーンの中では、実に聞き覚えのある名前が飛び交い続けている。

 アイラブユーだのユアビューティフルだのの愛の言葉の後に自分とその隣にちょこんと座っている友人の名前が連呼され、その声に段々と艶が乗っていく様を観て、聞き続けている零の緊張は、既に限界寸前だった。


 自分ですらこれなのだから、気の弱い有栖はもっとひどいだろうな……と思いつつ零が彼女の様子を伺ってみれば、その予想に違わず有栖は顔を真っ赤にして俯いており、画面を直視できない状態になっているではないか。

 これはマズいと、映画が終わった後にとんでもなく気まずい空気が流れるぞと、その2つ隣に座る天へとアイコンタクトでシーンを飛ばすよう指示を送る零であったが、同じくこちらへと視線を向けている彼女は表情を引き攣らせたまま首を横に振ると、顎で食い入るように画面を見つめるスイを指す。


 お年頃であり、とても無邪気でピュアな彼女は、このシーンすらも楽しく視聴しているようだ。

 なんだか悪い教育をしているみたいで心苦しい気分になるが、ここで逆に映像を飛ばせばそれはそれで騒ぎになることは間違いない。


 あともうちょっとだから、なんとか我慢して……という天からのアイコンタクトに、今度は零が既に限界を迎えている様子の有栖を指してどうにかしろと再命令するも、天もお手上げのようだ。

 確かにベッドシーンはあともう少しで終わる雰囲気を醸し出しているが、それ即ちラストスパートをかけているということで、その内容は当然の如く激しくなっているわけで……盛り上がる画面内の2人に対して、部屋の空気は氷点下を下回るのではないかというくらいに冷え切っている。


 もっと早くにこの手の映画にはこういったお色気シーンがお約束であることを思い出していればこんなことにはならなかったと、浮ついていた数十分前の自分の行動を後悔していた零の耳に、甲高い女性の絶叫が轟いた。


『Ahhhhhhhhhhhhh!!』


「~~~っ!?」


 フィニッシュというか、上り詰めたというか……なんと形容していいのかはわからないが、クライマックスを迎えたことを示す女性の叫びに続いて、主役である俳優の甘い声が響く。

 腕の中に倒れ込んできた女性を優しく抱き締め、その耳元で彼女の名前を呼びながら愛の囁きを繰り返す俳優の演技に、有栖の口からは声にならない悲鳴が漏れ出ていた。


「おお~……っ! わー、こういうシーン、初めて見ました!! 大人ってすげぇ……!!」


「そうっすね……とりあえず三瓶さん、少し黙りましょうか?」


 体育座りの体勢のまま、顔を伏せてアルマジロのように丸まってしまった有栖の姿を見つめながら、零がどこまでも無邪気なスイへと半泣きの声で言う。

 この映画が終わるまでにこの気まずい雰囲気がどうにかなっていることを期待しながら、やっぱりこれまで神様が自分の願いを聞き届けてくれた試しなんてないということを理解している零は、再び硬派なスパイドラマに戻った映画の内容がまるで頭の中に入ってこない状況の中、心の中で盛大にため息を吐き出すのであった。


――――――――――――――――――――


ちょっと上の方にクリスマスイブ特別編が投稿されてます!

気が向いたら読んでやってください!

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