逃げないって、決めたから
そして、その日の夜。
他の2期生たちが事件の影響を考えて配信を行わずにいる中、リア・アクエリアスだけがソロ配信の枠を取っていた。
事前にSNS上での告知を行い、多くの人たちの注目を集めた上で行われようとしている配信のタイトルは『話をさせてください』。
気の利いた言葉も思い浮かばず、これが今の状況に合った題なのかの確信も持てぬまま、スイが必死に頭を悩ませてつけたタイトルだ。
愛鈴の炎上も、蛇道枢が倒れたことによるファンたちの【CRE8】への反発も治まらずにいる状況で、同期であるリアが行おうとしている配信には多くの人々からの注目が集まっている。
意味深な配信タイトルも相まって、ファンたちは今宵彼女が語る内容について期待と不安を半々に入り混じらせた複雑な感情を抱きながら、始まりの時を待っていた。
【リア様大丈夫かな? 火に油を注ぐようなことにならないといいけど……】
【どうなるかはわからんが、くるるん関連のことだと思いたい。体調とか復帰の見通しが立ってるかどうかだけでも知りたい】
【2期生コラボ中止とかのお知らせじゃあないといいけどな……】
【あんまり余計なことするとまた枢の心労が増えそうで心配だ。大人しくしてくれてた方がありがたいかもしれん】
待機所に流れるコメントを確認するスイは、時計の針が進むごとに自分の中で異様な緊張感が高まっていくことを感じていた。
心臓を鷲掴みにされたような不安と、ファンたちから寄せられる複雑な感情による重圧に息を飲んだ彼女は、深呼吸をすることで自分を落ち着かせようとする。
「大丈夫、大丈夫……!! 私が、やるんだ。やらなくちゃいけないことなんだ……!!」
どれだけ苦しくても、辛くても、不安だとしても、これは自分がやらなくてはいけないことだと自分に言い聞かせるスイ。
これまでずっと逃げてきた、目を背けてきた責任を果たす時が来たのだと、そう自分自身を叱咤した彼女が赤くなった目でPCの画面を見つめる。
待機所で待つリスナーの数は、およそ7万人。
配信開始前でこれなのだから、時間が経てばもっと数は増えていくだろうと……自分のチャンネル登録者とほぼ変わらない数の人々が自分の発言に注目し、何を語るのかを観に来ているという状況に、スイの心臓が再び不安の魔の手に鷲掴みにされる。
今、この場には無口な自分をフォローしてくれる人間はいない。自分の想いを汲み取って配信の企画を考えてくれる人間もいないし、自分以外の誰も配信を引っ張っていってはくれない。
全ての責任は自分が背負うのだと、そう改めて自覚したスイの心に弱い気持ちが生まれ、誘惑の囁きを投げかけてくる。
逃げ出してしまえばいい。理由をつけて配信を中止して、なかったことにしてしまえばいい。
多少の荒れはあるかもしれないが、時間が経てばきっと鎮静化するだろう。少なくとも、今から自分がしようとしていることに比べれば、大きな影響は残さないはずだ。
後は零が復帰して、事務所が天の問題をどうにか解決してくれるまで静観を貫けば……それでいいじゃないか。
これからも今まで通りのリア・アクエリアスとしての活動をしていく道を呈示し、そちらへ歩んでいけと甘く囁く悪魔の誘惑に心をくすぐられたスイであったが、自分を強く持つと大きく首を振ってその誘惑を跳ね除けた。
「わーは、わーは……! 決めだんだ、もう逃げねって。だはんで……っ!!」
助けてくれる人は何処にもいない。全ての責任は自分が負うしかない。
その重圧はとても重くて、苦しくて、出来るのならば放り出して逃げてしまいたいと思う時もある。
だが……自分は今まで、この重圧をずっと零に背負わせ続けていた。
2人分の苦しみを、辛さを、大変さを、零だけに背負わせて彼を苦しめ続けていたのだ。
どうして零は、自分の分の重荷まで背負い続けてくれていたのだろうか?
彼にとってはなんの得もないその行為を、どうして進んで行ってくれたのだろうか?
その答えは今日、病院で彼が語ってくれた話の中にあった。
零はずっと……自分のことを信じてくれていたのだ。
今は甘ったれていても、ふわふわとした生温い考えていたとしても、いつか必ずスイが自分の殻を破る時が来る。
その時が来たらきっと、スイは正しい道を選んでくれるはずだと……そう、零は自分のことを信じ続けてくれた。
親が子を守るように、兄が妹を庇うように、零は自分の成長を信じ、格好いい歌姫になりたいという自分の夢を守り続けてくれていたのだと……そのことを理解した時、スイの心の中に熱い何かが火を灯す。
本当は怖い。苦しい。重圧に耐え切れない。許されるのならばなかったことにしてしまいたい。
だけど、だけれども……それ以上に、逃げたくないという感情が心の奥底で叫び続けている。
ここで逃げてしまったら、これまで自分を信じてくれていた零に顔向けが出来ない。
今、この瞬間こそが、スイが自分自身の判断で道を選ぶその時だと、彼女は理解しているから。
その選択から逃げ出したくなんかない。零の信頼に応えたい。
どんなに迷っても、悩んだとしても、この1歩目を踏み出さなければなにも始まらないとようやく理解出来たから……スイは自らの夢の旅路に繋がる道を見据えながら、手元のマウスを動かしていった。
「始め、ます……!!」
その言葉が誰に対して告げたものなのかは、スイ自身にもわからない。
この場に居ない零か、あるいは薫子か、それとも他ならぬ自分自身なのか……答えはどうでもよかった。
今、自分がすべきこと。それは、心の奥底にある感情を全てと吐き出し、ファンたちにそれを伝えることだ。
瓶から溢れる水流のように、尽きぬことなく溢れ出す感情を自分の想いとして纏め、沢山の人に伝える……その目的を再認識したスイが、右手の人差し指に力を籠め、マウスをクリックする。
カチッ、という音と共にポインターが『開始』のボタンをクリックして、サイトの画像が切り替わって……彼女の分身である、リア・アクエリアスが大勢の人の前に姿を現した。
大勢の人の注目と、関心と、重圧を浴びながら深く息を吸ったスイは、それに負けぬよう自分を強く持ちながら言葉を発した。
『……少し、お話をさせてください』
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