怪物、喜屋武沙織



「ぅぁ……!?」


 沙織の歌を聞き始めた李衣菜の口から、苦悶の呻きにも近しい声が漏れる。

 自分の耳が拾う沙織の歌声が頭の中で大きく響いて、全身で弾けているような、そんな衝撃が彼女の心を激しく揺さぶった。


 【SunRise/Up Rising!!】は聞き慣れた、歌い慣れた、自分たちの楽曲だったはずだ。

 それなのに……今、自分たちが聞いているこの歌は、自分たちが知っている、歌っているそれとは大きく違う曲に思えてしまう。


 ごくりと息を飲み、握り締めた拳に強く力を込めながら……沙織の歌のサビまでを聞いた李衣菜は、自分の背後でその感想を漏らす恵梨香の震える声を耳にした。


「私たちより……沙織さんの方が、上手い? ち、違う、上手いんじゃなくて…………!?」


 その言葉が、この場にいる全員の想いを表していた。

 恵梨香の感想に否定の意見を述べ、【SunRise】の方が上だと誰も言い出さないことが、スタッフを含めたこの場に集った面々の正直な想いを表現していた。


 そう、そうなのだ。6人揃って披露した【SunRise】の歌より、たった1人でこの曲を歌う沙織の方が、圧倒的なまでのパフォーマンスを見せているのだ。


 単純な歌唱能力を取ってみても、恐らくは沙織の方が上。

 【SunRise】の現センターである李衣菜より、メンバー中最高の歌唱能力を持つとファンたちから評されている羽衣より、沙織の方がパワーも繊細さもある。


 その上、声や歌い方で曲の雰囲気を盛り上げたり、リスナーたちの心を動かしたりと、そういった表現能力すらも沙織の方が数段上手だとしか思えないパフォーマンスを披露しているではないか。


 2年ぶりに聞いた彼女の歌声を耳にした李衣菜の顔から、血の気が引いていった。

 先程まで自分たちが有利であると、沙織は引退してから衰えていると、そう断言していた静流の顔は既に蒼白を通り越して血色が悪くなっている。


 誰もが言葉を失い、ただただPCから流れる沙織の歌声を聞き続ける中……李衣菜は、再び自分自身の不覚を恥じた。

 2曲目、3曲目と流れる【SunRise】自分たちの歌を、【SunRise】自分たち以上のクオリティで歌い上げてみせる沙織のパフォーマンスを目の当たりにした彼女は、今、この瞬間まで自分自身がとんでもない思い違いと思い上がりをしていたことに気が付き、握り締めた拳をソファーの背もたれへと叩き込んだ。


(私は、馬鹿か? いや、大馬鹿だ! 自分たちの相手が誰だと思ってた!? あいつは喜屋武沙織。私が心の底から、本気でライバルだと認めた、唯一のアイドルなのよ!?)


 6対1の人数差があると思っていた。

 三次元と二次元、現実とバーチャルという舞台の差から、歌だけでなくダンスや表現力においてもこちらが優位だと思っていた。

 そういった有利な条件が揃ったこの勝負は、まず間違いなく自分たちが勝利すると、本気でそう信じ込んでいた。


 そのせいで、何よりも忘れてはならないことが完全に頭の中から抜け落ちていることにも気付かずに、だ。


 才能だけでアイドルをやっている人間、人付き合いが上手く周囲に助けられることで芸能界での好位置をキープし続ける女、見た目が優れていることからファンに持ち上げられているタレント……そんな奴が相手だったのなら、それでも問題なかったのだろう。

 だが、今、自分たちが勝負している相手は喜屋武沙織……上記3つの優れた素養を持ち合わせながらその上で超人的な努力を重ねるという、とんでもない意志を有した化物だ。


 彼女の努力量は、アイドルに懸ける想いは、李衣菜も理解していた。

 自分と同等……いや、自分以上の熱をアイドルという夢に傾け、情熱を注ぎ、その実現のためならば一切の努力を惜しまないその姿こそが、李衣菜が沙織を好敵手として認めた最大の要因だったはずだ。


 それが、その情報が、完璧に頭からすっぽ抜けていた。

 沙織が誰よりも楽譜と向き合い、シューズを履き潰し、その努力を学業やタレント活動と両立させていた過去を、完全に失念してしまっていた。


 そしてようやく、李衣菜は自分がとんでもない思い違いをしていたことにも気が付いたのだ。


 確かにVtuberとして活動する沙織は、ダンスという視覚的に観客を楽しませるパフォーマンスを披露することは出来ない。

 だが、それは逆を返せば、ダンスパフォーマンスを諦めて、ということでもある。


 もしも沙織が、この配信のために現役時代と変わらない努力量で歌のレッスンを重ねたとしたら?

 現役時代とは違って、学業やタレント活動といった両立すべきもののない、24時間を全て努力に費やせる環境でそれに集中したとしたら?

 仲間たちの支えによって覚悟を決めた彼女が、全ての迷いを振り切って、歌に特化した全力のパフォーマンスをしようと決意したとしたら?


 人数の優位など、出来るパフォーマンスの有利性など、簡単に吹き飛ぶ、埋められる。

 彼女の名前は喜屋武沙織。誰もが羨む才能を持ちながらそれに胡坐をかくことなく、平然と誰よりも努力を重ねる、正真正銘の怪物アイドルなのだから。


 そもそも、2年前までアイドルとして活動していたとして、そこで培った経験や技術があったとして、沙織がそれらをこの2年間で衰えさせていたとしたら、彼女は新進気鋭のVtuber事務所である【CRE8】のオーディションを突破出来るはずがないのだ。


 誰よりも沙織の努力を間近で見てきた自分が、誰よりも早くそのことに気が付くべきだった。

 沙織が再びアイドルとしてこの世界に戻ってきた時点で、彼女がこの2年間一切努力を怠っていなかったということを……。


 沙織は引退してからも、ボイストレーニングや体力を保つための運動、体型維持のための健康管理を行い続けていた。

 自分が抜けてから発表された【SunRise】の楽曲も何万回と聞いて、自分だったらどう歌うかのイメージを膨らませ続けたのだろう。


 忘れていた。【SunRise】の楽曲は、沙織の歌でもあるということを。

 2年前まで、彼女もまた自分たちと共にこの曲をステージで歌っていたということを。

 そして彼女は誰よりも完璧に歌と踊りをこなし、観客たちを喜ばせていたということを李衣菜たちは失念してしまっていた。


「……ようやく、思い出しましたか? これが沙織さんの本気、2年前まで私たちを引っ張ってきた、元センターの実力です」


 祈里の淡々とした声が、沙織の歌声に紛れて響く。

 メンバーの誰よりも、スタッフの誰よりも、現状を正しく把握している彼女は、仲間たちの最大の思い上がりを正すようにして、こう言った。


「この勝負は、沙織さんが私たちに挑むのではありません。私たちが、沙織さんに挑む勝負なんですよ」

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