重石、それは夢の残骸


 ぬるい湯が、体を伝って流れていく。

 ザーザーという雨にも近しいシャワーの音を聞きながら、そこから流れる温水を体に浴びながら……沙織は、深い溜息を吐いた。


「逃げてるだけ、かぁ……なんも言い返せんね~……」


 自嘲気味に笑い、鼻を鳴らしても、その笑顔に普段の快活さはない。

 自分自身に対する嫌悪と、過去と現在から否定の言葉を喰らったような痛みが、沙織の中で渦巻き続けていた。


「………」


 無言のまま、鏡に映った自分を見る。

 死ぬほど見たくない、生の姿のままの自分を。


 水に濡れた長い黒髪。

 日に焼けた部分とそうでない部分のコントラストが魅惑的な体。

 大きく膨らんだ胸。

 未だに細く引き締まったままの腹部と脚。

 etc.etc……


 鏡の中に映る自分は、数年前の輝くステージを目指していた頃とほぼほぼ変わりはない。

 弾けるように、眩さを放つように、渾身の笑顔を浮かべてみせた沙織は……すぐにその笑みを引っ込め、今にも泣き出しそうな表情を浮かべて俯いた。


 アイドル……子供の頃から憧れ、追い続けてきた、沙織の夢。

 その夢を叶えるためならば苦しみなんて感じなかった。困難も、苦労も、全てが愛おしく思えていた。

 全ては夢に近付くためのステップなのだと、この階段を上っていった先には沢山の人の笑顔が待つステージがあるのだと、そう思えていたから。


 だが……沙織がその舞台に立つ日は、訪れなかった。

 上り続けていた階段は急に途切れ、真っ逆さまに落下した彼女は深く暗い海の中に沈み……もう二度と、浮かび上がることが出来なくなってしまった。


 わかっている、自分がもう、普通のアイドルとして返り咲くことなんて出来はしないってことくらい。

 その現実を理解して、受け止めた時から、眩く輝いていた沙織の夢は、彼女を苦しめる重しとなった。


 この重しのせいで、自分は暗い海の中から浮かび上がることが出来ず、水圧と酸欠に苦しめられ続けている。

 さりとて夢の残骸であるこの重しを捨て去り、別の道に進むだけの度胸も覚悟もなく、今や錆びて汚れてしまったこの夢を大事に抱えたまま、海の底で蹲ることしか自分には出来ない。


 なにが悪かったのだろう? なにをどうすれば、自分はあのままアイドルでいられたのだろうか?

 自分が悪いのか? それともただ運が悪かった? 周囲の環境? それとも、別の何か?

 ……あの日以来、ずっと沙織は延々と答えの出ないその疑問を思い返しては、苦しみ続けていた。

 

「わかってる、わかってるさ……」


 延々と流れるシャワーの湯を止めて、苦し気にそう俯いた彼女は、濡れた全身を拭く手もそこそこに浴室を後にする。

 ほんのちょっぴりの肌寒さを感じながら、先程の自分の呟きを思い出した沙織は、その言葉が過去を振り返っても意味がないということを指しているのか、あるいは自分がただ逃げようとしている臆病者であることを理解していることを指しているのか、その両方の意味にも取れることに気が付き、寂し気に笑った。


 わかっている、こんな考えに、迷いに意味などないということは。

 どんなに悩んでも、考えても、仮に答えが出たとしても、自分はもうアイドルにはなれない、戻れない。

 それでもずっとこの苦悩を捨て去れないのは、まだまだ自分がその夢を諦められていないからなのだろうなと、往生際の悪い自分には苦笑してしまう。


 それでいて、過去の痛みと対面しそうになった今、その恐怖に怯えて再びその夢から逃げ出そうとしているのだから、本当に救いようがない。

 複雑な過去を持つ自分を拾ってくれた薫子と【CRE8】、零や有栖をはじめとした同僚たちを裏切って、自分だけ楽になろうとしている自分自身は、臆病者以外の何者でもないではないか。


 逃げ癖がついてしまったのだろうか? と、沙織は思う。


 2年前のあの日、自分には逃げたつもりはなかった。

 だが、自分を応援してくれていたファンや共に夢を追いかけてきた仲間たちにとっては、沙織の行動は裏切りに他ならなかったのだろうと今更ながらに思わざるを得ない。


 あの時はそれが最適解だと思った。いや、そう思おうとしていた。

 迷いもあった、苦しみもあった、後悔していないといえば嘘にもなる。

 しかし、それは結果を見てのことで、全てが万事上手くいっていたのならば、それでよかったのだと自分に言い聞かせて納得していたのだろう。


 【SunRise】のデビューが流れて良かったのか、悪かったのか、それすらも未だに沙織には判断がつかないままだ。


 ただ、1つだけいえることがあるとすれば……今日、自分はかつての親友を失望させてしまったということだろう。

 2年間、何も言わずに消えた自分のことを、李衣菜は信じ続けてくれていた。

 そんな彼女は、困難から逃げようとしている自分の姿を見て、どう思っただろう?


 その答えは、沙織が覚えている彼女の最後の言葉にある。

 もう二度と会うことはない……その決別の言葉が、李衣菜の感じた失望の強さを物語っているようだった。


「どうしようねぇ? ほんと、どうしようか……?」


 また1つ、悩みが増えてしまった。しかも、すぐに答えを出さなければならない悩みだ。

 このまま『花咲たらば』としての活動を続けるか否か、この決断だけは今すぐにでも下さなければならない。


 瞳を閉じ、ほんの少しだけ逡巡した沙織は、即座にその答えを導き出す。

 続けたい……それが、彼女の偽りならざる本心だった。

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