あんたがすべきことはそうじゃない
静かに、唸るようにそう言い放った零が鋭い視線を沙織へとぶつける。
その眼差しを受けて一瞬たじろいだ彼女であったが、意を決するように顎を引くと、言い返すようにして言葉を発した。
「そう取られちゃうのも仕方がないことだとは思ってる。でも、こうしなきゃこの炎上は収まっちゃくれな――」
「それで終わると思うんですか? この炎上が? 喜屋武さんは、本当にそう思ってるんですか?」
自分の引退を以てこの炎上にケジメをつけるべきだという沙織の言葉を途中で遮り、吼えるようにして叫ぶ零。
再び、彼の気迫に押されて口を閉ざした沙織は、今度は静かな声でぼそりと呟くようにして己の意見を述べる。
「……零くんだって、昔はそう思ったでしょ? 自分がいなくなれば炎上が収まるっていうのなら、引退した方がいいって……あなたなら、この気持ちがわかるんじゃないの?」
「ああ、俺だって昔は自分のせいで炎上が起きてるんだったら、とっとといなくなった方が事務所のためだって思ってましたよ。でも、今回の事件はその時とは違う。あんたが今、【CRE8】からいなくなったら、この騒動はもっと大きなものになっちまうはずだ」
かつて、女性だらけの事務所に男性タレントとして自分が所属したことで起きた大炎上のことを沙織から指摘された零は、彼女の意見を半分肯定しつつも、もう半分の意見は完全に否定する。
今回の問題に関しては、あの時とは大きく状況が違っていると……そう述べた零は、その差について沙織に言い聞かせるようにして話を始めた。
「あの事件は、【CRE8】っていう箱のファンたちやVtuber界隈のファンたちが起こした騒動で、奴らの意見は俺の引退を求めるって部分で一致してた。俺は、その願いを叶えることでこの炎上が収まるなら、もうこれ以上薫子さんや有栖さんに迷惑をかけることがなくなるのならって、そう考えたから引退することを申し出たんだ」
「……それと、今の私の状況と何が違うっていうさ?」
「規模が違う。これはもうVtuber界隈だけの問題じゃなく、【SunRise】っていうアイドルを根幹としてそっちの界隈のファンやタレントを巻き込んだ問題になってる。双方のファンたちがいがみ合い、争う状況を止めるために必要なのは、花咲たらばの引退じゃない。喜屋武沙織の過去に何があったのかを明確にすることのはずだ」
ぐっ、とその意見を耳にした沙織が唇を噛み締めた。
拳を握り、痛みに耐えるかのようにそこを震わせ、ただただ俯いたまま押し黙っている。
零の言うことは尤もで、沙織も心のどこかでは理解していたことだ。
Vtuber、アイドル、双方のファンたちの争点はたった1つ。喜屋武沙織というアイドルの引退に関する真実であり、花咲たらばはあくまでその魂に引っ張られて炎上しているだけ。
ここでVtuberとして彼女が引退したとしても、問題はなにも解決しない。零の言う通り、悪化の一途を辿るだけだろう。
Vtuberファンたちは、自分たちの界隈を脅かし、1人のタレントを引退に追い込んだアイドルのファンたちを許さないであろうし、そうなればデビューを控えた【SunRise】になにかしらの報復を目論む輩も現れるかもしれない。
アイドルファンたちも一時は勝利に酔い痴れるかもしれないが、結局は沙織の過去に何があったのかもわからないまま、自分たちが推している【SunRise】の大事な時期を邪魔されたという恨みがVtuber界隈に残るだけだ。
双方の関係が悪くなることは必至で、そうなれば、残された者たちが更なる受難に晒されることは目に見えている。
【CRE8】にも、【SunRise】にも……かつての仲間たちに全てを押し付けて逃げるとしか言いようのない自分の決断を咎められていると、零の叱責に胸を痛めた沙織は、握り締めた拳を震わせて、ただ黙りこくることしか出来ずにいた。
だが、次の瞬間、零が発した言葉を耳にした彼女は、驚きの感情と共に顔を上げることとなる。
「逃げんなよ、逃げちゃ駄目だろ。俺たちや嫌な過去から逃げたくなる気持ちはわかるさ。でも……今、あんたを応援してくれてるファンから逃げることだけは、絶対にやっちゃいけないことだろうがよ!!」
「えっ……!?」
その言葉に驚き、顔を上げた沙織は、怒りとも悲しみとも取れない感情を浮かべた零の表情を見て、はっと息を飲んだ。
零はこの炎上や自分の過去からどうにかして逃げようとしている自分を叱責しているのだと思い込んでいた沙織であったが、彼が最も伝えたかったことはそんなことではないのだと、そこでようやく気が付く。
「今、騒動を起こしてる連中の中には、Vtuberになったあんたを応援してくれてるファンが沢山いるんだ! それに、アイドルだった頃のあんたを応援していた人間だっているかもしれないじゃないか! そいつら全員、本当はあんたのことを信じたいんだよ! そんな風に、これまで自分のことを応援してくれてた人間に真実を伝えるどころか何も言わずに消えるだなんてこと、絶対にやっちゃいけないだろ!?」
「うっ……」
……それは、沙織の心を抉る重く鋭利な正論だった。
かつて、アイドルであった頃に感じたその痛みを思い返した沙織が再び俯く中、荒げた声を静めた零が彼女へと言う。
「あなたがすべきことは、責任を取ってVtuberを辞めることじゃない。逃げずに本当の責任の取り方を見つけ出すことなんじゃないんですか? 過去、本当にファンを裏切ったっていうのなら、そのことを正直に告げて謝罪する。そうじゃないっていうのなら、堂々と活動を続けることで潔白を証明すべきなんじゃないんですか?」
「………」
零のその言葉に、沙織はなにも反応を示さない。
ただ押し黙り、俯いたまま口を噤んでいるだけだ。
「……あなたにだって、叶えたい夢があるはずだ。だから、【CRE8】に入って、Vtuberになったんでしょう? その夢を、こんなところで諦めていいんですか? このまま逃げて、後悔しないんですか?」
「……私、は――」
ぽつり、と零の問いかけを受けた沙織が口を開く。
何かを言いかけたような、そこで力なく途切れるような、そんな弱々しく小さな声が室内にか細く響いた、その時だった。
「……随分と情けない顔をしてるじゃない。年下の男の子に説教されるだなんて、あんたも落ちたものね」
「えっ……!?」
この場にいる、どの人物のものでもない声を耳にした零が、他の2名と同じように驚きの表情を浮かべる。
その声は、全く聞き覚えがないようでいてそうではなく、何処かで聞いた覚えがあるのだが、誰のものであったのかがまるでわからないという不思議なものであった。
確かに、この声の主を自分は知っている。
だが、それが誰だったのかがまるで思い出せない。
そんな疑問を抱きながら、声の聞こえてきた方向へと視線を向けた零は……そこに、信じられないものを見て絶句した。
「う、うそ……なんで、ここに……?」
「決まってるでしょ。引退したかつてのライバルが再び芸能界に舞い戻ったっていうから面を拝みに来てやったのよ。でも、拍子抜けね。まさか、わざわざ忙しいスケジュールの合間を縫って来てみたら、目当ての人間が引退するだなんて腑抜けたことを言ってるんだもの。ホント、がっかりだわ」
ずかずかと、遠慮なしに社長室へと入り込んできたその女性が、平然とした様子で沙織と会話を交わす。
失望と軽蔑が入り混じった表情を向けてくる女性に対して、沙織は驚きを隠せない様子でその名を呼んだ。
「李衣菜、ちゃん……!?」
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