とあるVtuberファンの出勤と正体
「ふう、なんかつい買っちゃったけど、これで休憩室がカレー臭くなったら文句言われそうだな……」
翌朝、職場に向かう道すがら、コンビニで昼食としてカレーを購入した界人はちょっとした懸念点を不安として呟く。
昨日の枢の配信や芽衣の記事を見たせいで口がカレーを食べる気分になってしまっていたのだが、職場で臭いがキツいものを食べるのはよろしくなかったかもしれないと今更不安がる彼に対して、背後からよく見知った人物が声をかけてきた。
「よう、源田。お前も今出勤か」
「あ、中島さん。おはようございます」
そう声をかけてきたのは界人の直属の上司である
物腰柔らかながらも威厳がある中島に委縮しつつ共に仕事場へと向かい歩いていく界人は、その道中で他愛もない話に花を咲かせる。
「この間は大活躍だったな。熱意を持って仕事にあたる、いい男の顔してたぞ」
「ありがとうございます。でも、中島さんがサポートしてくれたお陰ですよ」
「謙遜するな。俺から見てもお前の仕事ぶりはいいものだったよ。……ただ、感情を前面に出し過ぎるなよ。それは大きな武器にもなるが、時に自分を苦しめる諸刃の刃とでもいうべきものだからな」
「はい。肝に銘じておきます……っと!?」
ベテランであり、上司でもある中島の言葉に頷いた後で、何かに気が付いたように地面へと手を伸ばす界人。
そのまま周囲を見回した彼は、自分から離れていく女性の背中を見つけ、彼女の下へと駆け寄っていった。
「ちょっと、そこの人! すいません。これ、あなたのじゃないですか?」
「えっ? あっ! 本当だ! すいません、ありがとうございます」
「いえいえ、お気になさらず。間に合ってよかった」
柔和な笑みを浮かべながら女性が落としたスマートフォンを差し出した界人がお礼を言う彼女に手を振ってから中島の下へと戻っていく。
足早に上司の下に戻ってきた彼に対して、中島は少し訝し気な表情を浮かべるとこう問いかけた。
「源田、どうしてお前、あの落し物が彼女の物だとわかったんだ?」
「あ、ああ、簡単ですよ。あのスマホ、ケースがとある企業のグッズ製品だったんです。彼女の持ってたバッグにも同じ企業が出したアクセサリーが付いてたんで、もしかしたらと思って声をかけたんですよ」
「はぁ、なるほどな……やっぱりそういう知識がものをいう時もあるんだな……」
自分にはない、若い世代だからこそ有している知識を基に推理を繰り広げた界人に感心したように頷いた中島が、ぶつぶつと言いながら職場への道を歩み始める。
その背に続き、自分もまた歩き出そうとした界人であったが……背後からけたたましい叫びが聞こえ、はっとして振り返った。
「どけぇっ! 邪魔する奴はぶっ飛ばすぞっ!!」
「ひ、ひったくり! 私のバッグがっ!!」
界人が振り返ってみれば、先程の女性がヘルメットを被った男にバッグをひったくられ、悲鳴を上げているではないか。
こちらへと真っすぐに突っ込んで来るひったくり犯の男の剣幕に押され、人々が左右に分かれてその道を開ける中、界人はじっと相手を見つめ、その場から微動だにしないでいる。
「てめぇ! どけって言ってんだろうがっ!!」
「源田ぁっ!!」
前方から響くひったくり犯の叫びと、背後から聞こえる中島の声のどちらに反応するか一瞬だけ迷った界人であったが、即座にそれらを後回しにすると軽く腰を落として構えを取る。
そのまま、自分目掛けて突っ込むひったくり犯の突進の勢いを殺しながら彼の体を掴んだ界人は、残る勢いを活かして相手の体を地面へと倒してみせた。
「ぎゃっっ!?」
「大人しくしろっ! 暴れるんじゃないっ!!」
地面に男を押し倒し、腕を捻って拘束する界人。
完全に逃亡を阻止されたひったくり犯は観念したのか、うつ伏せで地面に倒れたまま抵抗を止め、素直に敗北を受け入れる。
そうした後、懐から手錠を取り出した彼は、捻り上げた男の両手首にそれを掛けると共に吼えるようにして叫んだ。
「7時48分、ひったくりの現行犯で逮捕する! このまま署に連行するから、覚悟しとけよ!」
「げぇっ……お前、警察官だったのかよ……!?」
「お前も運が悪かったな。現職の警官2人とばったり遭遇するなんてよ」
犯人の身柄を預かり、その背を押して警察署へと連れて行く中島を見送った後、界人はひったくりに奪われた女性の鞄を確認し、それを彼女へと差し出す。
2度も彼に助けられた女性は感謝の言葉を何度も口にしていたが、そんな彼女に対して界人は、言葉と心の中の声でこう返事をした。
「そんなに感謝せずとも大丈夫ですよ。これが自分の仕事ですので!」
(それと、同じ箱推しファンとして助け合うのは当然なんで!!)
……源田界人、27歳。趣味はVtuberの配信を観ることで、最推しタレントは【CRE8】所属の蛇道枢。
『ガチホモ兄貴』『蛇道枢ガチ恋勢』『くるめい限界民』……様々なあだ名を授かり、同志たちからの尊敬と好意の眼差しを受ける彼だが、意外にも普段使いしているハンドルネームを呼ぶ者はほぼ皆無だ。
ハンドルネーム『
昼は市民の安全を守る警察官として、夜は蛇道枢の配信に現れるネタ枠のリスナーとして、それぞれで別の顔を見せる彼の生活は、ある意味ではVtuberもびっくりの二面性を持っているといえるだろう。
(さ~て、朝から面倒な仕事が出来ちゃったけど、お陰で早めに帰る言い訳は立ちそうだな! 中島さんに色々と押し付けて、今日も配信を観るためにとっとと帰ろう!!)
Vtuberファンとして、人間として、規範的な存在であるように努めながら推しを応援し続ける彼はまだ知らない。
自分がこれから先、リアルの世界でもちょくちょく推しと関わることになるということを。
世間は意外と狭いということを身を以て証明することになる彼だが、今の所、本人がそんなことを知る様子は露ほども感じられないのであった。
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