静寂、嵐の前の静けさ

「マイク良し、スタジオソフト良し、飲み物良し……配信準備OK」


 それから数時間後の21時。有栖は、本日の配信に際しての最終チェックを行っているところだった。


 少しずつVtuberとしての活動に慣れてきたところではあるが、こういう時がとんでもないミスをしがちな頃合いだ。

 慣れに気を抜いてついうっかり炎上の火種を作ってしまわぬよう、有栖は常に細心の注意を払って配信に臨んでいる。


 何か1つでも失敗したら、そこからパニックになって問題を次々と引き起こしかねないと、自分の性格を熟知しているからこそ、準備を怠らない有栖は今日も気を引き締めながらPCの前に座った。

 といっても、今日は1つ面倒ごとが片付いたお陰で、最近の配信前と比べれば結構心が軽くなってはいるのだが。


(アルパさんからのメッセージ、ぴたりと止まったな。やっぱり、薫子さんが事務所を通して話をしてくれたことが大きかったのかな?)


 あんなにしつこく連絡してきていたアルパ・マリからのメッセージが、薫子との話し合いの後にすっかり止まったことに安堵しつつも、有栖は様々な人に申し訳なさを感じていた。

 動いてくれた薫子にもそうだが、やり方は苦手ではあるもののこんな自分とコラボしようとしてくれたマリや、自分のところのリスナーや牧草農家の人々の期待を裏切ってしまったことは、多少なりとも心苦しさを覚えるものだ。


 しかして、有栖は後悔はしていない。

 やはり、マリのような我が強い女性は苦手だと、そんな人と絡んでも自分がまともに話せるはずがないということを理解している彼女は、まずは少しずつVtuberとしての自分……羊坂芽衣として、経験を積みたいと思っていた。


 まだまだ経験の浅い自分が、性格や趣味嗜好を把握出来ていない上に相性の悪いマリと2人きりでコラボ配信をするだなんて、流石に難易度が高過ぎる。

 何もかもをマリに任せては自分の経験値とはならないだろうし、逆にテキパキ動こうにも我が強い性格をしているマリを押し込める自信はない。

 少なくとも、今はまだ彼女と絡むことに意味を見出せない有栖であったが、マリとのコラボを避けようとする1番の理由は、彼女のことがあまり好ましく思えないという部分であった。


 昨日の羊坂芽衣の配信とそこで起きた騒動を受けてアルパ・マリが行ったお気持ち表明とでもいうべき配信は、当然のことながら有栖も目にしていた。

 少なからず彼女に迷惑をかけたことを申し訳なく思いつつ、打ち合わせの後にアーカイブでの視聴でその配信を観た有栖は、零と同じような不快感を抱く。


 過激な物言いと適度な下ネタ、そこはどうだっていい。

 個人勢には個人勢の強みがあり、企業勢Vtuberには出来ない過激な企画や歯に衣着せぬ言葉を口に出来ることは間違いなく彼らの武器だ。

 アルパ・マリだって、それを活用しているに過ぎないのだから、そこは有栖だって気にはしていない。


 問題はその後。【CRE8】の、蛇道枢の、羊坂芽衣の……こちら側の情報を大して知りもしないのに、勝手な憶測だけで人を叩き、ファンを扇動して気に食わない人物を炎上させようとするその態度だ。


 羊坂芽衣と蛇道枢のコラボ配信は事務所からの圧力だと言い切り、それを芽衣が迷惑がっていたと断言したマリの言葉には、何の確証もありはしない。

 実際、それは根本からの大間違いであり、全てが的外れな意見ではあるのだが……裏側を暴露出来ない有栖たちにとっては、それを否定出来る証拠を出せないのがつらいところだ。


 1万人という数字は、決して少ない数ではない。

 それだけの人間が一斉に蛇道枢を、零を責める姿を考えると、標的にされてはいないはずの有栖の体にも震えが走る。


 マリも、牧草農家も、自分たちを正義だと思い込んで行動し、零へのバッシングを行い、引退させようとしている。

 そんな大勢の人々を扇動して、悪意なくそんな残酷な真似が出来るマリのことを、穏やかな性格をしている有栖が好きになれるはずもなかった。


「……阿久津さん、大丈夫かな? また、変なメッセージが届いてないといいけど……」


 そう、零のことを心配しながら、大勢の人々から罵詈雑言を浴びせられる彼の姿に、有栖は自分自身が経験した苦い思い出を蘇らせてしまった。

 大勢の人に叩かれる恐怖と、正義を振りかざして、あなたのためだという言葉を浴びせかけて、他人を操ろうとする人々の顔を思い出した彼女は、込み上げてきた吐き気を必死に押さえる。


 早くこのトラウマから脱しないと日常生活すら送れないじゃないか、と……自身を叱責し、心を立ち直らせた有栖は、数回深呼吸を行った後にPCと向き直った。


「そろそろ時間だ。始めなきゃ……」


 アプリを操作し、配信開始のボタンを押した有栖は、画面を確認しつつ息を整える。

 毎回、この瞬間は緊張するなと思いながら、入江有栖から羊坂芽衣へと意識を切り替えていった彼女は、配信の始まりを今か今かと待ち侘びてくれているリスナーたちの前に、Vtuberとしての姿を現し、いつも通りの挨拶を口にした。


『みなさん、こんばんめ~、です。【CRE8】2期生羊坂芽衣です。本日も私のお喋りに付き合ってください』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る