136.お帰りなさい(SIDEベアトリス)

*****SIDE ベアトリス




 口出しする人はいない。いいえ、そうじゃないわ。ニルスが止めてくれているの。私が知っている分量で塩を溶かして口元へ運ぶけれど、果実水を飲む様子はない。頬や喉へ流れた分を拭き取り、私は覚悟を決めた。


「人払いをお願い出来ますか?」


 医者を含めた護衛達も廊下に出してもらい、果実水を口に含む。それから口付けた。後ろにいるソフィが息を飲む気配がしたけれど、構っている場合じゃないわ。唇を割って舌で隙間を作って流し込んだ。咽せるかと思ったけれど、エリクの喉がごくりと動く。


「エリク、もっとよ」


 少なくともコップ数杯分飲ませなくては、体が毒を排出できない。繰り返すたび、甘い痺れが襲う。治療行為なのに、口付ける行為はエリクへの愛おしさを募らせた。


 絶対に死なせない。


 持ち込まれた水差しが空になるまで繰り返し、私はほっと息を吐いた。でもこれで終わりじゃないわ。慎重にエリクの上掛けを剥いで、手足を確認する。不自然に腫れている膝に手が触れた時、予感が当たったことを知った。


「ここを切開して毒を出してください」


「医者の診断時はまだ腫れていませんでしたね」


 驚いた様子だが、ニルスは詳細を聞くより早く短剣を抜いた。護身用に持ち歩く短剣の鞘を払い、私の次の指示を待つ。


「何かに刺された可能性が高いです。深く小さくお願いします」


 誰かの命を救うための書物を読み漁った時期がある。あれは確か、流行病が王都に広がった時のこと。原因は蚊による病の媒介で、刺された場所をすぐに熱したら防げた。答えを知っていたら簡単に防げるのに、誰も知らなかったの。あの時多くの命が失われた。


 エリクの膝にある傷の原因は分からない。もし毒がある虫に刺されたなら、その場所を切って血を絞り出す。腫れる前の方が効果が高いけど、やらないよりマシね。後は毒を排出するために薬湯を飲ませるの。でもその配合はわからないから、汗をかかせる方法に切り替えた。ここまでしか私の知識は及ばないのが悔しかった。もっと学んでおけばよかったのに。


 徹夜で看病するために、私は豪華なドレスを着替えた。動きやすい部屋着でベッドの端に腰掛け、切開した膝の傷を消毒する。果実水を飲ませて、汗を拭き取り続けた。体が発熱しているのは戦っているから。もし負けたら冷たくなっていくの。それが怖くて、ずっと指を絡ませていた。


「姫様、少し休まれては」


 ソフィの気遣いに首を横に振った。だめよ、離れたって休めないわ。それに……美しい青い瞳が開いた時、私を最初に見て欲しいの。微笑んで「お帰りなさい、随分とお寝坊なのね」って言いたいわ。


 心配そうなニルスとソフィに微笑みかけ、エリクの首や額の汗を拭う。黒髪がぐっしょり濡れていた。


 彼、私のところに帰るために戦っているのよ。誇らしげにそう呟いた私の手を握る指に、ぐっと力が入った。高鳴る胸の音が聞こえてしまいそう。閉じた瞼がぴくりと震え、ゆっくりと持ち上がった。


「おかえり、なさい。エリク」


 声が震えた。情けない私を見上げて、彼は一度瞬きをした後で微笑む。


「おはよう、僕の……トリシャ」


 掠れて低くなった声が私の名を紡いで、頬を伝った涙はエリクの頬に落ちて流れた。

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