137.離れないでいてくれ
倒れてからの記憶はほぼない。ただ僕を呼ぶ声が聞こえていた。悲しそうな細い声ではなくて、戻ってこいと強く願う声だ。まだ眠るには早い、そう叱る響きは強いのに……とても心地よかった。
目を開いて、トリシャの泣き崩れそうな笑顔が見えた。お帰りなさいと口にした彼女の声は、掠れて震えている。安心したように微笑んだトリシャに見惚れた。紅色を濃くした瞳から溢れた涙が、彼女の頬を伝って僕の上に落ちる。
「おはよう、僕の……トリシャ」
愛している。ありがとう。様々な言葉をすべて凝縮して、痛む喉から声を絞り出す。そこで気付いた。喉や唇が乾いていない? これだけ喉が痛いのは発熱のせいだろう。なのに唇がカサカサに乾いていない。見つめる先で、トリシャの軽装が気になった。
僕の看病のためかな。シンプルな服を纏っていて、水差しは彼女の脇に置かれていた。もしかして……トリシャが僕に水を? 眠って意識がない僕に飲ませるとしたら。どきっとしてニルスに視線を向けるが、誤魔化すように微笑まれてしまった。その隣でソフィが頬を染めている。
なるほど、僕に口移しで飲ませてくれたんだね。起きあがろうとした体は怠く、崩れるようにシーツの上に倒れ込んだ。駆け寄ったニルスが支えて体を戻すが、その際に力を入れた膝が痛む。
「何が……った?」
状況を把握しようとした僕の意図を察し、ニルスが意味ありげに目を伏せた。トリシャやソフィがいる場所では言えない。つまり病じゃないのか。まだ発熱の余韻でぼんやりする頭で、状況を整理した。
「処理をお任せいただけますか」
頷いた。一任するよ。僕の分までしっかりやり返してくれ。指示した僕の声にならない命令を察して、ニルスは優雅に一礼した。外へ出た彼が双子や護衛に状況を報告する声が聞こえる。ずっと僕の手を握って離さないトリシャを手招きした。
「どうしました?」
「少し寝る、から」
目を見開いたあと、トリシャは額に残る汗を拭いて頷く。
「隣の部屋におりますわね」
首を横に振って否定した。そうじゃない。
「ここに……」
離れないでいてくれ。僕がもう一度目覚めるまで、手を握っていて欲しい。疲れているはずのトリシャに、僕は無茶を言ってる。だから拒否してくれていいのに、蕾が綻ぶように柔らかく彼女は微笑んだ。すごく嬉しそうに見える。
「ソフィ、クッションを足してくれるかしら」
「はい」
ソフィがソファから拾い上げたクッションをいくつかベッドに置く。彼女が出ていくのを待って、トリシャはベッドの端に腰掛けた。シーツを捲らずに隣に横たわる。それから僕の手をしっかりと握って、胸元に引き寄せた。
「ここにおります、安心してくださいね」
ふふ、さすがトリシャだ。シーツ越しに寝転がれば、同衾していないと言える。彼女と僕の名誉は傷つけずに、最大限願いを叶えるなんて。それに僕の看病で疲れたトリシャも休める。最高のアイディアだ。
褒めた言葉は少し掠れて、聞き取りづらかっただろう。僕は触れる温もりに安心しながら、目を閉じた。
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