101.贅沢な悩みかな

 仕事の分業と細分化が進み、書類は確認と報告の署名が主になってきた。皇帝の署名がなければ動かないなら、国の組織は停滞している。もっと活発に意見を出し、互いに効率よく動けるよう考えるのが、正しいあり方だろう。


 僕が即位してからすぐ、帝国貴族を大量に処分した。僕の帝位を脅かす者、兄を支持して僕を蔑ろにした者。数え上げればキリがない。それらが消えてしばらく、僕はほとんど何もせず国の動きを見ていた。


 勝手に他国を制圧して領土を増やす軍、属国から搾取する貴族。一度は臣下に下ったくせに叛逆する王族……様々な状況をじっくり観察し、一気に処断した。この方法が正しいか知らないが、内部の膿をある程度出せたことは成果だ。その上で、わざと隙を見せて属国を回った。


 僕のいない間に動く馬鹿、皇帝を取り込もうと動く属国、僕を消そうとする連中……見極めの途中で、天使を見つけた。彼女がいれば何も要らない――そんな愚かな言葉は吐けない。この手はたくさんの命を奪った。人々の希望も摘んだだろう。ならば、その分はしっかり貢献しないとね。


 処理した書類と、罪人の現状を記した報告書。どちらも目を通した僕は、疲れた目を押さえて背もたれに寄りかかった。今日は少し報告書が多かったな。トリシャとの午後を優先したため、夕食後に自室で目を通した書類に文鎮を乗せる。


 風呂のお湯の手配を言いつけ、襟元を緩めた。ポケットに手を入れた指先に、懐中時計が触れる。部屋に時計はあるが、引っ張り出して文字盤を開いた。


 かちこちと心地よい音を立てる時計の文字盤は、ヒビが入っている。蓋には大小様々な傷があった。新品を手配することも、修理することも可能だ。でも僕はこのまま手元に置くことを選んだ。


「……マルグレッド」


 誰もいない部屋で呟く。彼女が遺したのは、息子とこの傷だらけの時計。夫から貰った愛用品を我が子ではなく僕に渡した。あの時の決断が、今の僕を生かしている。はぁ……天井を睨みながら、時計をポケットにしまった。


 ちょうど風呂のお湯が届いた知らせがあり、服を脱いで浴室に入った。僕は風呂に誰も入れない。無惨な傷が残る肌は僕の勲章で、誰かと共有したいと思ったことはなかった。双子の騎士とニルスでさえ、直接見せた覚えはない。


「トリシャは、怖がるだろうか」


 今までこの傷を誇りに思っても、疎んだことはなかった。だけど、トリシャを怖がらせるかも知れない。泣かれるくらいなら、隠して見せない? でも服を着たまま女性を抱くなんて、最低の行為だ。まるで性欲処理みたいで、僕は嫌だった。父がそうだったから余計かな。


 あれこれ悩みながら、ふと気付いた。こんなことを悩むなんて、僕の周囲はなんて平和になったのかと。今までなら命を脅かされ、引き摺り下ろそうとする連中の手を警戒していた。それが婚約者に傷を見せるかどうかで迷っていられるなんて……。


「怖がっても逃してあげられないよ、ごめんね」


 閉じた瞼の裏に浮かんだ美しく気高い小鳥に詫びて、僕は寝息に繋がる息を深く吐き出した。

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