97.これは寝られないかも
薔薇の成長促進について、温室まで作らせた甲斐があった。かなり急いだから、次世代の薔薇は同じ色にならない。庭師が苦渋の選択で組み合わせた品種は相性が悪いらしいから。でも彼女に見せるために作らせたんだから問題ない。新しく同じ薔薇を再現する予算を組もう。いや、僕の私有財産を使う方がいいな。
午後の散歩の愛らしい姿を思い出しながら、届けさせたのと同じ薔薇を見つめる。棘をすべて取った薔薇を届けさせたけど、枯れるのが早いのが難点だね。それでもトリシャの指を傷つけない方が優先だった。
「喜んでいただけて安心しましたね」
薔薇を指先でつつく僕に、ニルスが穏やかに話しかける。心地よい空間を壊したくなくて、頷いた。まだ余韻に浸っていたい。そう示した僕に、ニルスは心得た様子で引き下がった。
「本日はこれで。明日、報告がございます」
「明日で間に合う?」
「はい、問題ございません」
頷いた僕を残してニルスは部屋を出た。離宮にいる間、僕はトリシャとひとつ屋根の下だ。広い屋根だけどね。間にリビングを挟んだだけで、扉を開けて会いに行ける距離。でも手が届かない距離だった。
まだトリシャは婚約者だ。厳格に躾けられた彼女に、僕が手を出すなんて……信頼関係を損ねるよね。僕はトリシャを愛している。身勝手に抱きたいわけじゃない。求めて求められたかった。彼女に愛されていると実感したいなら、合わせなくちゃ。
窓の外に浮かぶ月はほぼ丸く、足元のハーブ園をぼんやりと照らす。あの一角、奥の方に白薔薇を用意させている。テラスに肘をついて眺める僕は、ふと気づいて顔を左に向けた。
「……トリシャ?」
「はい」
目の錯覚か幻影か。そう思ったのに、幻影は返事をした。ぱちりと目を瞬いて、じっくり見つめてしまう。柔らかなクリーム色のショールを羽織った彼女の寝着は、月光に似た薄い青だった。僕の色を纏っている。どくんと胸が高鳴る。ダメだ、まだ我慢だよ。自らに言い聞かせて、微笑んだ。
「眠れないの?」
「えっと……その。エリクが起きているのか気になってしまって」
窓から僕の部屋の明かりが見えるか、確かめたんだね? 困ったお姫様だ。そんなショールだけじゃ、体が冷えてしまう。本当はずっと見ていたいけど、彼女の体調が一番だ。
「もう寝ようと思ってた。今日は仕事もおしまいだよ……だからトリシャも寝て」
「はい、エリク。おやすみなさい」
挨拶をしたのに、トリシャは中に入らない。見送ってから部屋に戻るつもりの僕を、じっと見つめていた。
「トリシャ、冷えちゃうよ」
「ええ」
返事はするのに、動かない。焦れて、でも彼女に会いに行ったら、抱き締めてしまいそうで。怖がられても離してやれないかも知れないから。
「部屋に入らないと、僕みたいに悪い男に襲われちゃうよ」
「……っ」
何かを言ったトリシャは真っ赤な顔で部屋に逃げ込む。その言葉が聞こえなくて、残念に思う。今、トリシャは僕のことを考えてる?
もういなくなったテラスを見つめ、僕は名残惜しげに部屋に入った。後ろ手に閉めた扉に寄りかかり、ひとつ大きく息を吐き出す。
「熱を冷まさないと寝られないかも」
苦笑いした吐息は、いつもより熱かった。
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