84.蔑ろだって? どちらが先か

 彼女の細い肩を引き寄せ、僕は彼女の頬に口付けた。意識が恐怖から羞恥へと移動する。ほんのり頬が染まったのを見て、薄絹の影で唇を重ねた。


「安心して。危害を加えることはないよ」


 僕がいるからね。小声で告げた僕に微笑もうとして失敗したトリシャの顔が、泣き出しそうだ。頬を擦り寄せて、温もりを分け与えた。それを睨む鋭い視線に気づきながら、完全に無視する。


「兄上、そちらが皇妃になられる方ならばお顔を」


 見せてください。続くはずだった言葉は、ニルスによって遮られた。ギリギリだったね。後少し遅かったら、双子が動いてたよ。


「姫様は皇帝陛下のもの、本日のお披露目も存在を知らせるだけにございます」


 遠回しに、必要な人間との面通しは済んでいると伝える。兄と呼んで親しさを演出しても、僕と弟の距離は明確だった。ニルスが「ユリウス殿下」と呼称した意味すら気づけない無能者が、僕のトリシャに近づく気か? なんて図々しい。


 この舞踏会は、トリシャがソフィにこぼした話を聞いた僕が、彼女のために計画した。多くの人が集まる舞踏会で、トリシャは婚約者にエスコートされた経験もなければ、ダンスを踊ったこともない。舞踏会は罵倒されるだけの場だと悲しそうに呟いたトリシャを、もっとも尊い存在として楽しませるためだ。


 多少、片付けが残っているけれど。それが終われば2人で踊って、よい思い出として彼女に捧げるつもりだった。ニルスの鋭い指摘に、段下の弟は唇を噛む。その程度の理解は出来るんだね。


「ですが……」


 そこで思わせぶりに言葉を切る。周囲の貴族が息を呑んで見守る状況で、弟は口を開いた。わずかに口角を持ち上げて、愉悦の表情を浮かべる。


「姫の家族を蔑ろにしてのお披露目は、いかがなものかと」


 蔑ろ? そんな言葉はそっくり返してやろう。さすがにこれ以上、僕が応じないのは恰好がつかなくなる。徹底的に潰してやろう。確実に息の根をとめ、二度と僕の前に顔を出せないようにね。


「トリシャの両親はすでに鬼籍に入ってる。大賢者の話を知らないのかい? それと手配が掛かった犯罪者を舞踏会に引き入れるなんて……愚かにも程があるね」


 叛逆の意思があり、犯罪者を使って皇帝を殺そうとした。そう突きつける。どう反論する? お前の粗末な脳では、この切り返しは無理かな。それとも事前に問答の練習でもしてきたか。


 ぎゅっと僕の首に回した手に力を入れたトリシャの、頬に触れるキスをひとつ。落ち着いて。僕の腕の中にいて害される心配なんて不要だ。微笑むと、彼女は小さく頷いた。


「育ての親がおります。陛下がご存知ないとしたら不義理になると思い、連れて参った次第……そのような邪推は悲しいですよ。兄上」


 ふふっ、宰相が満足そうに頷くのは、彼の入れ知恵というわけか。彼もそろそろ鼻についてきたし、交換時期だね。横領した予算の証拠も揃ったし、片付けよう。

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