57.少し地図を書き換えよう

「何するのっ! 無礼者! 私は王女なのよ、皇帝陛下の未来の妻に」


「妻はトリシャ1人だ」


 ぴしゃりと否定した。絶対、トリシャに勘違いなどさせない。まだ自分の価値を確立していない彼女が、身を引こうと考えないよう……きっちり言葉と態度で示した。


 振り返ってトリシャの前に膝を突き、彼女の手のひらに唇を押し当てる。求婚を示す仕草は、見間違いようがなかった。青ざめて震える王女が、叫ぶ。


「うそっ! 私は、お父様に言われて、陛下に」


「僕が一度でも君を望むと言った? ないよね。君の国は数日中に地図から消えるよ。もう王女なんていない」


 僕が命じる必要もない。だって、今の言葉を聞いたマルスが静かに頭を下げた。これは命令の受諾を意味する。皇帝騎士が自ら出陣せずとも、いくらでも動かす駒は揃っていた。それこそ、足下にひれ伏す貴族に「切り取った土地を与える」といえば、大喜びで攻め込むだろう。


 立ち上がってトリシャの前に立ち、震える女を見下ろした。僕は彼女に何も約束していない。ただ否定しなかっただけだ。これが罪深い行為なのは理解しているけど、だから何? 僕にとってはトリシャに少し嫉妬してもらうためのスパイスでしかない。口に合わなければ吐き捨てる。


「片付けて」


 ずるずると引きずられる女の声を聞かないよう、トリシャの耳を優しく両手で塞いだ。不安そうなトリシャの額に、鼻の頭に、唇に、触れるだけのキスを贈る。声が遠ざかってからようやく、僕は彼女の耳を解放した。いっそ、僕の声しか聞こえなくなればいいのに。


「エリク、ひどいことは」


「ちゃんと法に従って裁くよ」


 酷いことをしないと約束は出来ない。彼女に嘘は言わないと誓ったから、そのくらいは守らないとね。でも、法に従って裁くと言われれば、それ以上君は何も言えないだろう? トリシャも知る通り、この国の法はちゃんと公平だった。他の国と違い、処罰の内容に見せしめが多いだけで問題はない。


「せっかくの楽しい時間が台無しになったね。部屋でゆっくりしようか」


 仕切り直しと伝えれば、トリシャは頷いた。ソフィに目配せし、先に準備をするよう伝える。察しのいい彼女は一礼して離宮へ向かった。銀の刺繍が入った薄紫の裾を捌く侍女の後ろ姿を見送り、トリシャの手を取って歩き出す。


「あの……ソフィの服をありがとうございました」


「ううん。僕の大切な妃の専属侍女だから当然だよ。あの色は彼女の申し出だってね」


「はい。髪色に近いドレスがいいと言うのです」


 自分の銀髪をさらりと触れたトリシャが、困ったような顔をする。きっと困惑しているんじゃないかな。ソフィがなぜそう言ったのか、わからないみたいだ。教えてやる義務はないけど、君が喜ぶ言葉にして伝えてみようか。


「ソフィはトリシャが大好きだと言っていたから、君の色を纏いたかったんだろう。僕も、トリシャの瞳の色である濃桃の宝石をあしらった、銀細工のブローチを作らせてるよ」


「まあ……そんなことを?」


 嬉しそうに微笑む彼女の中で、その髪色の価値や意味が少し変化したね。そうやって僕の言葉を聞いて、信じて、君は美しく羽を広げればいい。愛らしい声で囀る小鳥を、大切に守るから。

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