56.片付け忘れていたよ

 トリシャにとって、良い思い出はなかったはずの舞踏会。念には念を入れる必要があった。青いドレスとラベンダーのドレスを2枚用意させたのは、不測の事態に対する準備だ。もちろん、お飾りも含めてすべて2対用意させた。


 靴も数種類、同じデザインで作らせた。足が痛くなってもトリシャは言わないだろうから、その点は僕が気づいてあげないと。それにソフィも皇妃の専属侍女として参加する。細かく足元や体調に気を配るよう命じた。まあ、あの侍女は命じなくても動くと思うけれど。


 会場となる大広間の安全は、何重にも調べさせた。ニルス指揮の下、彼が育てた若い侍従達が手分けして確認する。その直後に仕掛けられる可能性もあるため、これは複数回調べることになるだろう。いっそ大広間を封鎖してもいいかも。


 ダンスの指導はトリシャに関して問題なかったので、僕も一通り攫っておく。エスコートする僕に問題があれば、妃のトリシャに恥をかかせるからね。完璧だと太鼓判を押され、安堵の息をついた。トリシャを誘ってダンスを数回踊ってみたけれど、彼女は優雅な足運びで踊りきる。


「ダンスは得意なの?」


 尋ねた僕に、照れた顔で頷いた。休憩の時に聞き出した話では、舞踏会にエスコートされて進み出た異国の姫君に憧れたそうだ。その後で言葉を濁した理由は、聞かなくても分かった。あの王太子じゃ無理だろうね。夢見るトリシャの願いは僕が叶えるよ。


 白馬の王子様は無理だけど、皇帝陛下で我慢してもらおう。お友達もいないからお茶会はしないと言っていたけれど、友人候補も選んではあるんだ。トリシャがもっと僕に依存してから会わせるつもりだった。だって、僕より友人に夢中になったら悲しいじゃないか。女友達に嫉妬して首を刎ねるなんて、大人げない。


「とても楽しみだ」


「はい、私もエリクとなら……」


 楽しめそう? それとも嬉しい? 彼女の言葉の続きを奪ったのは、甲高く耳障りな女の声だった。


「あらぁ、皇帝陛下ったら私を放って……この女は誰ですの?」


 入り口に立つ近衛騎士をどう振り切ったのか知らないが、アースルンドの第一王女アマンダはずかずかと広間に足を踏み入れた。はぁ……僕の口から大きな溜め息が漏れる。片付けるのを忘れていた。僕としたことが、ニルスのケガや、告白への了承で動揺したのかな。


 きゅっと握られた手が嬉しくて、優しくトリシャの手の甲を撫でた。薄いレースに覆われた淑女の手に口付ける。それから姿勢を正して、僕はトリシャを守る位置に立った。


 斜め前でマルスが警戒し、アレスは廊下へ出た。指示しなくても、外の護衛の状態を確認しに行ったのだろう。離宮にダンスができる広間がないため、外へトリシャを出したのが失敗だった。反省した僕の後ろで、ソフィが動く。トリシャの肩にショールをかけ、肌を隠した。


「君に入室を許した覚えはない。下がれ」


「つれないことを仰らないで。私は」


「僕は下がれと言ったよ、マルス」


 血生臭い命令は不要だ。マルスは淑女に対する扱いを捨て、僕に不敬を働く罪人として王女を床に引き倒した。そこに女性への手加減はない。見下ろす僕の冷たい目に、王女は青ざめた。

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