51.身勝手で無様な懇願でいい

 ここでニルスを追うのは、彼の望む主君の姿ではなかった。周囲の守りがすべて倒れても、毅然と胸を張って前に進むよう教育したのはニルスだった。僕はこれ以上、彼に失望されたくないからね。


 今回の失態は僕の罪で、罰も受けよう。今の僕が優先するのは、当初の目的を果たすこと。襲撃で予定を変えて逃げ戻るのは、皇帝が為すべきではない。ひとつ大きく息を吐いて、アレスが前に立つのを待った。双子に目配せして立ち位置を確認し、歩き始める。


 犯人捜しはすでに手を打った。ニルスの治療も手配した。僕が優先するのは、これ以上僕の愚かさのせいで大切な人を傷つけないことだ。足早に離宮に入り、ひとまず自室で湯を浴びる。血の匂いで、トリシャを不安にさせるわけにいかなかった。


「トリシャは?」


「お部屋におられます」


 間にあるリビングに来てもらうよう伝え、僕は気持ちを落ち着けた。側近のニルスは常に隣にいた。それが当たり前なのに離脱したのは、僕の失態ゆえだ。これ以上無様を重ねて、トリシャを失うわけにいかない。謝罪もするし誹りも受けよう。だけど、彼女は手放せなかった。


 先にリビングへ移動し、ソファに腰掛けた。普段と違う香水を纏ったのは、血の匂いを誤魔化すためだ。念入りに洗う時間を惜しんだ僕の苦肉の策だった。


「エリク、さきほどの騒ぎは……何があったのですか?」


 不安そうに顔を見せたトリシャの手を取り、長椅子に座らせる。端に腰掛けた彼女と向かい合う形で反対の端に座った。ひとつ深呼吸する。それから切り出した。


「ごめん。トリシャ、君を不安にさせたことを謝らせてくれ。本当に申し訳なかった」


 驚いた顔をするトリシャの前で、僕は素直に頭を下げる。皇帝になって、こんな風に謝った記憶はなかった。恥ずかしいとも情けないとも思わない。傷つけた大切な人に頭を下げるのは当然だから。


「顔を上げて、エリク」


 声がまだ揺れている。こんなに冷たい手をして……僕の罪深さが沁みてくるようだね。両手で彼女の手を温めながら、僕は脳裏の不安を追い払った。大丈夫、間に合うはずだ。トリシャの気持ちも、ニルスの命も掴まえる。


「僕は君を傷つけないと決めたのに、醜い欲で傷つけた。不安にさせたことを許してほしい」


 あの女性は隣国アースルンドの王女であること。トリシャが心配するような女性ではなく、国王が勝手に送り込んだこと。それを利用して嫉妬させたくて、愚かにもトリシャに事情を隠した。すべてを包み隠さずに話す。


 嫌われて逃げられる心配はしなかった。だって、そんなことさせないから。どんなに君が僕を嫌っても、離してあげられない。閉じ込めて愛でる僕の鳥籠からは出さない。不自由を強いるかも知れないけれど、これが僕の愛し方だった。


 彼女を閉じ込めるのに誠実な愛を向けられないなら、僕の価値はゼロだ。まっすぐにトリシャの紅色の瞳を受け止めた。揺れる眼差しは困惑している。


「直接なんでも聞いて欲しい。僕は君に嘘を言わないと誓う」


 誰かに聞いて不安になる前に、嘘を吹き込まれて疑う前に、僕に直接聞いてくれ。哀願するように彼女の手を僕は握り締めて誓った。身勝手な男だ、無様で情けないのは承知している。


「……っ、でしたらお伺いしますわ。この香水は……どなたの」


 移り香でしょう。不安に揺らぐ声に、僕は逆に安堵を覚えた。

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