第13話 現代/一人称・独白/すこしふしぎ/春

 記憶のない冬を過ごした。

 晩秋、落葉樹の並木がぼろぼろと葉を落とし、空気が軽く、空が高くなり、風の冷たさが身に染みてそろそろファー付きのコートを出さなければ凌げないなと観念した翌日、世界は春になっていた。

 ちゅんちゅんと囀る鳥の声は歯切れ良く朗らかで、冬の鳥の喧しさとは明らかに異なる。晴れの日でもどこかよそよそしく遠巻きに辺りを照らしていた陽光が、活力を取り戻してぱきっと降り注ぎ、世界を鮮やかに見せている。何より、出したはずの厚手の毛布も、出そうと思っていた羽毛布団も被らずに、タオルケット、ウールケット、キルトケットという軽やかな寝具で眠っていた。紛れもなく、春の支度だった。

 寝過ぎてしまったか、と思うには、春支度が充分であった。寝具の軽さはもとより、寝巻きもひとえのガーゼである。ベッドから下ろした足が探り当てたのは、もこもこのムートンスリッパではなく羊革のバブーシュだった。

 部屋中くまなく調べてみても、何もかもが春仕様だ。衣替えも済んでいて、パジャマから着替えたのはオーロラピンクのブラウスにカナリアイエローのカーディガン、ホライゾンブルーのスカート。まだ花冷えの心配があるのかコートが一枚出されたままだが、厚ぼったいセーターやトレーナーは全て仕舞い込まれていた。

 ブラウスもカーディガンも買った覚えはなかったが、春の恋しい時期に見つけていたら買っていただろうと納得したし、スカートは三年前から幾度も履いている。冬物の仕舞い方は見覚えがあるし、付けっ放しになっていたクリーニング店のタグは、いつも使う店のもの。日付は四月二日となっていた。

 どうやらわたしは、冬の間もしっかり昨日と同じ、例年と同じ生活をしていて、それなのにそのことをすっかり忘れているらしい。

 狐につままれた気持ちであったが、不可解な現実にうんうん唸っているうちに携帯のアラームが鳴った。九時五十分。二限から講義を取っている火曜日用の、出宅時刻のリマインダーだった。

 なるほど確かに自分はずっと『普通』に過ごしていたらしい、と実感すると同時に、記憶がすっぽり抜けているくせにその間に決めた時間割りを把握していることに驚いた。どうにも都合のいい記憶喪失である。一体どういうことやら、さっぱりわからない。

 そうは言っても、その疑問にこだわってはいられない。悩んだところで答えが見つかるとは思えないし、高い授業料を払って、興味のある講義を選んで通っている大学を、そんなことのために休むのは馬鹿馬鹿しい。

 慌ただしく買い置きの携帯食を掴み、上着を羽織り、晩のうちに用意したらしい鞄を掴んで家を飛び出る。扉を開けて外に出ると空気がふわりと柔らかく、やはり春だなあと頷いた。

 それから一日過ごしてわかったのは、必要な記憶は脳裏に刻み込まれているということだった。一週目からの講義の内容も、新年度になって親しくなった人の顔や名前も、なんとなくわかっていた。消えているのは、凍えるような冷たい季節をどうやって凌いだのかということだけ。調べてみれば、昨冬はことに厳寒であったというから、あまりの過酷さに記憶が消えてしまったのだろうか。そんなまさか。

 もやもやした思いを抱えて家に帰り着くと、一通の手紙が届いていた。これ見よがしに雪の結晶が白く染め抜かれた薄藍色の封筒。差出人はわたしだった。

 勢いよく家に飛び込み、がちゃがちゃと筆記具のトレーを漁って封筒に鋏を入れる。角を押してがぱりと開口部を広げ、逆さまにしてみると、さあっと冷気を振りまきながら、鼠色のメッセージカードと短く切られた水仙が机に落ちた。少ししおれてはいたが、まだ乾き切ってはおらず、花びらや萼も折れてはいなかった。

 目を丸めて矯めつ眇めつし、封筒の中が濡れていないかも確認し、一つも謎が解けないままカードに目を向けると、そこには見知った文字で『冬の記憶を春に送るサービスを使いました。寒いばかりの日々のこと、本当は忘れちゃっていい気もしますが、なんにもなくなるのも淋しいので』と書かれている。どうやら、冬の記憶がないのは自分自身の選択の結果らしかった。そして、届いたこの手紙が、その記憶。しかし、水仙の鮮度に驚きはしたもののそれで記憶を取り戻すということはなく、記憶を送るとはどういうことか、さっぱりわからなかった。

 わからなくても、冬のわたしからの手紙は次々に届いた。焼き芋の屋台から分けてもらった煙、クリスマスケーキのマジパン、おみくじ、曇った夜空の一瞬、霜柱、炒り豆、木枯らし、バレンタインチョコの包み紙がたくさん、池に張った氷、ふきのとう、南天、シャシャンボ。

 何が届いても、わたしは何も思い出さない。送られてくるのは記憶ではなく、単なる冬の記録だった。最後の手紙と桜の蕾は、葉桜の緑が深く濃くなった頃に届いた。あっという間に儚い春が終わり、既に蒸し暑さが世間を賑わせ始めていた。

「ていうか、冬、めちゃくちゃ楽しんでるじゃん」

 きんきんに凍ったアイスを齧りながら、我ながら勿体ないサービスを使ったものだ、と冬を恋しく思った。

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