第9話 現代/一人称/ほのぼの/犬

 犬を買った。

 黒くて、大きくて、懐っこくて、真四角のやつ。

 真四角のボディに白い塗料で「いぬ」と書かれていて、脚に相当するパーツは見当たらず、飛んでいるわけでもないのに、どんな難路でも物音を立てずに俺の二歩後ろをついてくる忠犬。

 いや、どう考えても犬ではないんだけど。

 でもペットショップで買ったし、市役所の窓口で飼い犬の登録もした。しっかり受理されたし、ちゃんと三千円払った。狂犬病の注射も受けに行ったし(えっ必要ある? 本当に? いやでも……犬……だったら困るもんねえ、とやや渋られながらもきちんと射ってもらえた)散歩に行くときは必ずリードをつけている。これはかなり、犬と見ていいと思う。

 まあ、絶対に犬ではないことは、最初から気づいていた。

 俺はショッピングモールの一角、客の入りはフードコート内でちょうど真ん中ほどの中華料理店でバイトをしていて、店の繁忙時間と扶養内勤務の兼ね合いの都合で先月から夕方六時から閉店一時間前の九時までのシフトで働いていた。クローズの雑務から逃れられるのはラッキーだが、腹具合的に微妙なシフトだった。六時前にガッツリ晩飯を食うのも腹が重いし、三時間の労働で賄いをもらうのも、仲間がまだ働いてる中閑散としたフードコートで飯を食うのも気まずい。近隣にファストフードの路面店は少ないし、そもそも微妙な時間なので母親は一応俺の分も夕飯を用意してくれていて、それをほったらかして買い食いして帰るのも罪悪感がある。本当に、なんとも微妙、としか言えないシフトだった。

 それでまあ、三日前も九時にバイトを上がって、店の裏から従業員用通路に出てぼてぼてと歩いていたら、道中設けられた従業員用ドアにもたれかかるようにして、ペットショップの店長が電子タバコを喫っていた。

 よく休憩時間にウチに来るおっさんだから、とりあえず頭を下げて挨拶しておいた。絶対ここ禁煙っすよ、電子だからは免罪符になりませんよ、とかは言わなかった。そんなん言ってやるほど親しくはない。そうしたらおっさんは、澱んだ目をこちらに向けて、次の瞬間はっとひらめいた顔をして急接近。呆気に取られている俺の肩をがしっと掴んで「君、犬飼わない!?」と唾を飛ばして訊いてきた。

 いきなり何すか〜と内心ビビりながらへらへら笑ってみたら、おっさんは「もう殺処分にするしかない犬がいる……」と重いことを言ってきた。普通なら自店のバイトに知らせるのも躊躇うような話を中華屋のバイトに振るなと突っ込むのをかろうじて我慢した。しかし、我慢したせいで押しに弱いと思われて、俺はあれよあれよと言う間にペットショップに連れ込まれ、犬と対面させられていた。黒くてデカくて四角くて「いぬ」と書かれた犬と。

「犬じゃないですよね」

 思ったことを正直に告げるとおっさんは差別だと言わんばかりに俺を責めた。

「犬だよ。犬と書いてあるだろ。それに犬のショーケースの中で生まれたんだから、絶対に犬だよ」

 突っ込みたいことがいくつもあったが、俺は強いて焦点を絞った。

「店先で出産ショーとかしたら違法なんじゃないすか? 動物愛護法とか……」

「掃除直後の空っぽの部屋で生まれたからうちの子犬たちの子ではないんだ」

「犬じゃないじゃん」

 犬じゃないじゃん。犬用ケースの中で見つけたというだけで犬になるなら、ゴキブリだって犬になるぞ。そういう論法だ。

 しかし、おっさんは譲らなかった。

「だが、ほかの子犬たちも懐いている。きちんとワンと鳴けるし」

「鳴ける、という言い方がもうダメだと思うんですけど」

「ドッグフードも食べるんだ。ちゃんと子犬用のを。試しに成犬用の餌を与えてみたらそっと首を振られた。賢いんだ」

「首がどこかはおいといて、それは犬の賢さとは質が異なると思うんですけど」

「少しずつ大きくなってね……最初は新しいおもちゃとして誤魔化せていたが段々無理が出てきて……潔く犬だと公開して売りに出すことにしたが見向きもされず」

「そりゃそうでしょう。ていうかマジで犬だとしても出自も仕入れルートも不明な犬を店の商品にするってどうなんすか」

「俺が飼えればいいんだが、うちは大型犬を飼える環境がないんだ。君、実家住みだろう? 一軒家だろう? 夕飯食いに行った時に聞こえたよ。頼む、モール側が不審に思い始めているんだ」

「マジで逆にどうして大丈夫だと思ってたんだよ」

 そんな混沌とした一方通行の言葉の殴り合いの末、俺は空腹に負けて折れた。バイト上がりに三十分もそんなふうに拘束されたらヤケクソにもなろうというものだ。

 そうして一昨日、俺はその犬を買い受けたのだった。リード代込み二千円。登録料より安かった。

 犬として買ったので冗談半分、当て付け半分で犬として扱ったら、案外世間的にも犬として通った。嘘だろと思ったが通ってしまったので仕方ない。俺はその真四角を犬として接し、毎日の散歩をさせることになってしまった。

 犬は犬らしく吠えるが、鳴き声っていうかもう「ワン」って喋ってるからいっそのこと会話してくれた方が気が楽なんだけど、一生懸命「犬」をやってるこいつは結構健気なんじゃないか? と愛おしむ気持ちも生まれ始めている。愛玩動物恐るべし。いや絶対に動物じゃないんだけど。

 ともかく、犬を買ってしまったので、俺は扶養内勤務に拘るか稼げるだけ稼ぐか悩まされている。どうせならいいもん食わせたいし、家もちゃんとしたの作ってやりたいしな。

 結構犬みたいだからな。飼い主の責務は果たすつもりである。

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