第6話 すこしふしぎ/三人称/陰鬱
桃娘という伝説がある。その体が仙気を蓄え吐息のひとつさえ病を癒す甘やかな薬となるように、生まれた時から桃だけを食べて育った乙女。体臭も体液も、当然肉も、桃の香りのする不老長寿の薬となったという。
伝説は伝説だ。本当かどうかはわからない。けれど、桃しか与えられない娘はひどく虚弱で早くに死んだとか至極真っ当な話も残っているあたり、妙な信憑性がある。
それにやはり、雑食の獣の肉は臭い。草木を食む草食獣の肉の方が断然美味い。木の実をよく食べて育った獣の肉は、微かに木の実の匂いがして香ばしいという。伝統を守ってドングリを食わせたイベリコ・ベジョータは脂身にドングリ由来のオレイン酸を豊富に蓄えさらりとした口当たりとしっとりとした甘みの肉になる。
「だからやっぱり桃娘も全く架空の存在ではないと思うし、ボクは自分が口に入れて己の肉にするものを、きちんと吟味しなきゃいけないと思ったんです」
ミイニイがそう主張を締めくくり、自分の前に置かれた餌皿を遠くへ押しやると、飼育員のナナメさんは引き攣った笑顔をいっそういびつにした。
ナナメさんが持ってきたのは、いつもとそう変わらない食事だった。みかんと、りんごと、にんじん、それにキャベツとパプリカが入っていて、少しだけカルシウム剤がふりかけられている。ミイニイの体が必要とする栄養をきちんと賄えるし、新鮮で美味しい、正しいメニューだ。それでも、ミイニイは今日からは違う食事を摂りたいのだと言って聞かない。
「わがままを言わないで、ミイニイ。今日はもう、こうして用意してしまったんだし」
「じゃ、今日の食事はいりません。我慢します。明日からでいいから、ボクには毎食クレームブリュレを出してください」
菓子類は、誕生日のときだけ特別に与えられる。今年のミイニイの誕生日に与えたのがクレームブリュレだった。
「そんなんじゃすぐガリガリになって、病気になってしまうよ」
既に一度言ったことをもう一度根気強く繰り返して、ナナメさんはお皿をちょっとだけミイニイの方に押し戻した。ミイニイはムッと眉根を寄せて顔を背けた。
「痩せないように、いっぱい出してくれればいいんです。クレームブリュレを」
「それじゃあもっと不健康だ」
「ボクが求めているのは健康じゃありません」
ミイニイは強情で、取りつく島もない。
一体どこでこんな話を聞いてきたのかとナナメさんは痛む頭を押さえたけれど、どこで、なんて決まっている。ミイニイはふれあい牧場からは出られない。けれどお客さんはいくらでも入ってきて、ミイニイと会話ができる。最近来たお客さんの誰かがこんな話を吹き込んだのだ。
厄介なことをしてくれた、とナナメさんはため息をついた。それを聞き咎めたミイニイは、「なんと言われても、絶対、断固、譲りません」と更に言い募る。
「そもそも、食べるものを一つだけに決めてどうしたいんだい」
ナナメさんが尋ねると、今度はミイニイがため息をついた。
「何を当たり前のことを。ボクの肉をクレームブリュレの香りにするんですよ」
「どうして」
「だってボクたちは大人になったら猛獣園の餌になるでしょう」
なんでもないように言うミイニイに、ナナメさんはギョッとして、思わず椅子を倒してしまった。それは確かに間違いではないのだけれど、ふれあい牧場の獣たちには決して伝わらないよう、飼育員にもお客さんにも厳しい制約が課せられているはずだった。
誰が違法行為を、とナナメさんが動揺するのをよそに、ミイニイは自分の前脚をもう一方の脚で撫でながら滔々と告げた。
「ボクはそこいらの獣と一緒くたに十把一絡げの安売り肉になりたくないんです。一口で飲み込まれて終わるただの養分じゃ嫌なんです。今からでも努力して、美味しい美味しいお肉になって、ああ、あの日の肉は美味しかった、あんな美味しい肉はあれ以来出てこない、あれは一体どれほど大事に育てられた高級な肉だったんだろうと一生、一生忘れられずにいたいんです」
熱を持って語るミイニイとは逆に、ナナメさんは少しずつ冷静さを取り戻していた。
ふれあい牧場の予算には余裕がない。ミイニイの求める食事を出し続けてあげることは不可能だ。そもそも、上質な毛皮と安価な肉のために飼育している獣に不摂生をさせては、大損もいいところだ。けれどミイニイは折れそうもないし、自分たちの行く末を知ってしまったミイニイが、他の獣にそれを隠していられるとは思えない。
ナナメさんは胸ポケットから通信端末を取り出して、獣医を呼んだ。
クレームブリュレの香りになりたかった獣は、憧れを胸に抱いて十把一絡げの安肉になった。けれどその毛皮だけは、ナナメさんが買い取って自分の襟巻きにした。ナナメさんは、いつどこの喫茶店でクレームブリュレを見つけてもいいように、春でも夏でも襟巻きを持ち歩いている。
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