第3話 現代/一人称/すこしふしぎ
最近のコンビニには、どこもコーヒーマシンが置いてある。
俺はカップ式自販機の継嗣のように感じているが、一回り下の部下はマックのコーヒーと比較しているし、二回り下の新入社員はスタバやらドトールやらと比べている。
コーヒーの野郎、随分とまあ勢力を強めたもんだ、と俺は思ってしまう。俺が若かった頃は職場に持ち込むのは炭酸ジュースやなんかで、コーヒーは小洒落た喫茶店でのんびり過ごす時間の、余韻の演出のひとつだった。
それでもまあ、これだけ世の中に普及してしまえば俺もふらっと立ち寄った店でコーヒーを一杯貰ってそのまま路上でちびちび啜る、なんてことを当たり前にするようになってしまって(血糖値やら何やらを気にして飲み食いしなければいけない歳になったと言う実際的な問題もある)、最早優雅さとはかけ離れた飲み物になってしまった。
今日もまた、会社から徒歩十分の定食屋からの帰り道、いつもは寄らないコンビニに入るとコーヒーマシンを確認して、機械的にホットのSサイズを頼もうとした。
だが、レジに進んでみると、気だるそうなアルバイトの少女の左胸に『しぼりたてあります』というシールが貼られていた。
しぼりたて。
情けないことに、ほんの一瞬、いかがわしい考えが頭をよぎってしまって慌てて目を逸らした。子供じゃあるまいしなんて馬鹿なことを。
しかし、しぼりたてとは一体なんだ。ビールのことか、とも思うが、それにしては随分とポップなデザインだった気がする。精神を統一してもう一度少女の胸元を見ると、名札の名前を隠すように貼られたシールには、スイカやらイチゴやらリンゴやら、季節を無視したさまざまな果物のイラストが散りばめられている。
フルーツジュースということなのだろう。だが、ジュースとコーヒーでは使用する器具が違う。コーヒーマシンでフルーツジュースは作れない。
一体なんのシールなのかと思い「それ、」と指差すと、既にレジ前に立っている客からの声かけを注文と受け取った少女が「なんにします?」とぶっきらぼうな口調で返してきた。本当にジュースなのか、何が出てくるのか全くわからないまま、つい「何があるの?」と訊けば「なんでもありますよ。あーしメチャ得意なんで」と答える。何があるのかさっぱりわからない。しかし、うだうだと質問攻めにするのも申し訳ない――いや、おそらく大学生であろうアルバイトの少女に無知を晒すのが悔しくてそれ以上食い下がれず、「じゃあ君のおすすめを」なんてキザなセリフを吐き出してしまった。
今のご時世、相手によっては唾を吐かれかねない言葉が飛び出てしまったことに内心焦ったが、少女は気にした風もなく「いっすよー。あーしちゃんスペシャル入れますねー」と間延びした返事をしてカウンターの下から空の紙コップを取り出し、二十センチほど上空でぐっと拳を握りしめた。
は、と呆けているうちに、紙コップの中には透き通った水色の液体が八分目まで入っていた。
「しぼりたてSサイズ二百七十円でーす」
コーヒーより値が張ったが、それが『しぼりたて』の価格として安いのか高いのかはわからなかった。
狐につままれた気持ちでカップを受け取り、ふらふらと店の外に出ると、タイミング悪くごうっとビル風がぶつかってきた。思わずよろめいて中身をこぼしそうになり、それだけはなるものかと慌てて水色の液体を啜る。
途端に、夏の味が鼻に抜けた。
忙しない日々の中の小休止、その単調になった時間を自分たちで彩って飾り立てていく夏の騒がしさ。パチパチと微かに弾ける炭酸が甘さも苦さもしょっぱさも含んでいるものだから、ひどく奇怪な味がして、しかし不思議と不味くはなかった。
アルバイトの彼女が何をしぼったのか見当はつかなかったが、それは俺に何十年も昔、気ままに過ごした夏の日々を思い出させて、懐かしさと寂しさと憧れで視界までスパークした錯覚を起こした。
恐る恐る振り返ると、コンビニは確かにそこにあり、ガラス張りの壁の向こうではアルバイトの少女が人目も憚らず大欠伸をしている。
一体なんなのだ、と怪訝に思う気持ちと裏腹に、俺はそのままそこを立ち去り、会社に戻った。
デスクに戻ってちびちび舐めた『しぼりたて』は定時ちょうどに底をつきた。
帰りにまたあのコンビニに寄ろうか、明日行こうか、などと考えたが、しばらくはやめておくことにした。俺のような年寄りには、『しぼりたて』の刺激は少し強すぎる。一月後、またあの少女がいたら、今度はじっくりメニューを確認してしぼってもらおうと、手帳を取り出してヘタクソなリンゴのマークを書き込んだ。
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