災禍成る刻、福音鳴る
第5話 絶望の淵で……
少女と出会う前と後を比べたら、私は生きることに前向きになれた。
あんな場所で、少女を一人ぼっちにはできないから。
私の身体が全て剥がれ落ちた瞬間の、涙が張り付いて離れない。
私が戻らなければ永遠にあのまま、深い慟哭に沈んだまま……なんの救いもなく、黒い影の侵蝕と、血の搾取に耐えるだけの地獄に残される。
大好きな、愛をくれた少女を残して消えるなど到底許容できない。
その強い意思だけで、向こう側の世界で自意識を保つ。
辺獄と呼ばれた場所にいた時とは比べ物にならない黒い影の侵蝕に、気が触れそうになる。
それを耐える、耐える、ただ耐える。ずっと一人で、黒い影を抑え続けた少女の辛さを思えば、なんてことない……
きっと辺獄に戻るチャンスは訪れる。
少女の側から私を引き上げられる瞬間がくるかもしれない。
こっち側から這い上がる方法があるかもしれない。
ほんの少し前の自分なら諦めていた。誰も手を差し伸べてくれたことがなかったから。
私を思ってくれる人などいたことがなかったから。
今は違う。心が通じ合って、手を伸ばしあえる相手がいる。
ひとりじゃない確信さえあれば、希望がなくても希望を追える。
※※※
常世と辺獄は空間的に隔たれている。自分がここに堕とされた時は、誰かが力技でこじ開けた。
自分が辺獄から出れられなかった理由は、注連縄の封印によって、次元の壁を超えられないからだ。
女の子が連れていかれた向こう側と、辺獄の間にある理の壁は、常世と辺獄の間よりも更に分厚い。
理屈でどうこうなる範疇ではない。
貴女を諦めることなど到底出来ない……それでもあの瞬間に、貴女を掴めず、あろうことか自分たちを見捨てた世界に奇跡を願ってしまった。
そんな甘い話が自分たちにあるわけがないと、骨身に染みるまで、わからされて来たはずなのに。
どうにかしないといけない……しかし全てを削がれた自分に出来ることなど、ほとんど残されていない。
心細さと無力感で押し潰されそうになる。
いつも通りに戻っただけ。でも一度幸せを知ってしまうと、孤独に耐えられなくなった。
ただでさえ弱かった心が、もうどうしようもないくらいに弱くなった。
このどうしようもない苦しみから逃れたい……不死の自分にはそれさえも許されない。
ずっとずっと、この寂しさに耐えないといけない。
向こう側に連れていかれた、貴女の苦しみを思いながら……手を差し伸べるふりをすることさえ叶わない。無力な自分はどうすることも出来ない。
自分と貴女が笑っていられる未来は、全て閉じた。なのに、永遠に終わらせられない苦しみ。
もう一秒だって耐えられないのに、これが明日も、悠久を経ても続く。
心が沈むと、慣れ親しんだ血を採取される瞬間の痛みも、より鮮明に感じてとても耐えられない……
ささいな刺激が頭をかき乱して……もうどうにでもなってしまえ……
身体を一心不乱に振り回して、注連縄を千切ろうと足掻く。
せめてこの世界に一矢報いてやりたい。苦しんだ分だけ、さらに奪っていくだけの世界。
そんな物を維持してあげたくない。
でも、世界は自分にそれを強要してくる。とんでもない強度の注連縄を千切れるはずがない。
それが叶うのならとっくの昔にやっているのだから……
どうしようもなくてうなだれる。
時間が過ぎて、この苦しさが記憶の彼方に消えるか、世界が滅びて、自分も消失するのを待とう……
そう決めようと思った瞬間、足元から這い出てくる黒い影が見えた。
思えばこいつはなんなのだろうか……どうして辺獄と向こう側にある壁を易々と超えられるのだろう。
向こう側から常世へ直接湧いてくることまであったはずだ。
そこで人を喰らったり、世界の理を歪めることもあると聞いた。
かと思えば、女の子を助けてくれたこともあった。
自分はあまりにも、黒い影について知らなさすぎる。向こう側にある世界のことも。
誰のためでもない。ただ貴女と笑いあえる未来のために、世界の深淵を知る必要がある。
絶望と紙一重の希望が射した。
※※※
少女が辺獄と呼んだ場所にいた時も、黒い影に責め苛まれていた。
ここに連れてこられてからの苦しみは、その比ではなかった。
少女だった赤い霧に初めて触れた時の感触が、ずっとずっと続く。
激しい肉体的な痛みと、魂の嗚咽。終わりの見えない苦痛の大海に沈む。
少女が救い出してくれなければ、ずっとこのままなのか……そもそもここから出る手段は存在するのか……
少女を信じ続ける。その決意が早くも揺らぎ始めている。
時間感覚も曖昧な世界で、一人ぼっちで耐え続ける。
ずっと一人で責め苦を受けていた少女を思えば頑張れると思っていた。今でもそう思っている……
だけどそれで苦痛が消えるわけではない。
必ず私を助ける方法を見つけてくれると信じている。
私だけが一人なわけじゃない。少女も今一人なのだ。
だけど、信じたい希望があったとしても、折れてしまいそうな苦しさで、今すぐに逃げ出してしまいたい。
時折少女と出会わなければ、こんな思いをしなくて済んだのに……なんて最低な考えが生まれてくる。
このままだと黒い思考が頭だけじゃなくて、魂まで埋め尽くしてしまう。
別のことを考えないと……少女と過ごした日々のこと。まだまだ残っている、一緒にしたかったいろいろなこと。
思い出を噛み締めて、これからに思いを馳せる。少女と出会えた奇跡を恨むなんて馬鹿げていると、確信し直すことで正気を保つ。
少女の元へ戻る方法を考えないと。私だけが苦しいわけじゃないから。
少女はあの注連縄に搾取されながらでも、考えてくれているはずだから。
私が折れるわけにはいかない。
こちら側からしか出来ないことがあるかもしれないのだから。
※※※
黒い影について自分が知っていることは多くない。
あれが世界に溢れたら世界が滅ぶとは教えられた。
だがどういった性質のモノで、何が引き起こされるのかは、教えられてはいない。
どうして自分の血を用いれば、黒い影を抑えるのかも本当のところはわからない。
考える価値はある。
黒い影は強い魂の躍動に感応しているのではないか。自分はそう推測していた。
だとしたらそもそも女の子が向こう側に引きずり込まれるはずがなかった。
誰もそんなこと望んでなどいなかった。明らかに望みを代行してくれるような性質のものではない。
しかしそれだと納得できないことがある。なぜ最初女の子が落ちてきた時、助けるようなことをしたのか。
その説明がつかない。きっと何か理由がある。
突き止めれば女の子を救う一助になるかもしれない。
これまでの黒い影の行動を思い返しながら整理する。
大昔にあったこと。最近起こったこと。可能な限り多く思い出そうとする。
一際大きな違和感のある行動は、黒い影が女の子を助けたということだ。
世界に仇なす黒い影が人助け。
浮かんだのは一つの仮説。
あれはそもそも助ける行為ではなかったのではないか。結果的にそう思えただけで……
※※※
黒い影に埋もれ、苦痛に喘ぎながら、上を見る。
そこに広がっているのは、真っ暗な空と壁。
それもただの壁じゃなくて、空間的な隔たりを帯びた、理の壁。
それがここと辺獄を隔てている。
手は届かない。届いたとしてもどうにもならない。
纏わり付いた黒い影を、僅かに払うことさえももう出来ないのだから。
黒い影が理の壁を超えて、辺獄へと滲むように侵攻している。
私を連れてきたのだから、同じように連れて帰って欲しい。
そう強く願っても、黒い影が私を運ぶことはない。
私がここでやれそうなことは、理の壁が破られた時、そこに向かって手を伸ばす。
それくらいしか思いつかない。
何の力も知恵もない、ただ少女を愛することしか出来ない無力な私は、少女に全てを託すしかなかった。
それが悔しくて、無力感に苛まれる。そこに黒い影が漬け込んできて、魂を汚染しようとしてくる。
黒の感情を抱いてはいけない。前を向いていた方がいい。
それは少女から教えてもらったアドバイス。
何度も、何度も思い出を思い返す。
その時の少女の声色や表情まで。そしたらどんなことでも耐えられる力が湧いてくるから。
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