第4話 救済と、呪いと……

 ここに堕ちる前も後も、絶望し切ったつもりで、誰からも見捨てられて、これ以上はないと思っていたのに……まだ仕打ちをされる余地が残っているとは思っていなかった。

 自分が望んだ相手に、血を一滴施すことさえ封ずる圧倒的な悪意。

 世界を繋ぐ楔としての生を強要された自分は、ただの人間を寄る辺とすることを拒絶された。

 憎悪に支配されながら、瞳に映るのは黒い影に飲まれた女の子。あの心理状態では楽に殺されないのは明白だ。

 ここに送られて来たということはそういうことなのだろう……だとしたら苦しむのは理不尽すぎる。

 生贄に選ばれるのは、除け者にされて、虐げられた者。ここに堕とされるまでに充分苦しんできたはず……

 なのに追い打ちをかけるのは、酷すぎる。そんな思いをするのは自分だけでいい。

 その願いが叶わないのなら、助けることが叶わないのなら、せめて安らかに死んで欲しい。

 この暗闇に刹那の間とはいえ、光を灯してくれたのだから。

「うぐっ……」

 そう強く願った瞬間、右腕があった場所に声が漏れてしまうほどの激痛が走った。

 反射的にそこを見やると、黒い影が腕の断面に抉り込み、血を採掘していた。

 なにをしているのかわからないでいると、断面に取り付いた黒い影が飛び出して、女の子の方へ跳んで行った

 そのまま地面に激突すると、黒い影は破裂して採取した血液を辺りにぶちまけた。

 それは幸運なことに女の子の指先にまで届いていた。

 思わぬ相手からの善意に驚きを隠せない。黒い影が向こう側の存在だから、自分の強い想いに応えてくれたとでもいうのだろうか。

 疑問は止まないが、とにかく女の子がほんの少し復活して身体を動かしてくれた。自分の血で僅かに生命力を取り戻してくれた。

 でも、それだけではあまりにも不十分だった。女の子には生きる意志が薄弱にすら程遠く、死にぞこなったという想いが強いようで。

 その感情に黒い影が取り付き、現実にしようと塞がった傷口をほじくっている。

 その後ろ向きな気持ちをどうにかしないと救えない。

 しかしそんなことを自分が出来るとは、到底思えない。誰からも必要とされなかった理由を、自分でわからないような存在だから。

 絶望し、失望し切った心に寄り添えるはずがない。自分もそうした感情を抱えているのだから。

 よしんば上手くいったとして、傷を舐め合うのがせいぜいだろう。

 それになにより、自分の存在を彼女が認識出来ないのだから、どうしようもない。

 せめて声だけでも届いたら……でも、もし届いたら、愚かな自分は逆に追い詰めてしまうのでは……

 不安で仕方がない。誰も教えてくれなかったから、与えてくれなかったから、優しい言葉とはどんな物なのかわからない。

 そもそも女の子に生きていて欲しい理由が、自分の寂しさを紛らわせたいなんて、自分本位なものだから、本当に優しい言葉など見つかるはずがなかった。

 そのことに気付いた自分は、いっそ開き直って、神様らしい言葉を試しにかけてみることにした。

「血が出てる。こっちにおいで。治してあげるから」

 無償で施しを与える、慈愛に満ちた口調で。上手く演じられたかはわからない。少なくとも今度は、言葉が届いたようだった。

 辺りを見回して、声がした方を探っている。

 自分と女の子の視線が合う。自分は思わず胸が高鳴ったが、女の子は恐怖を感じていた。

 彼女の感覚を探ると、どうやら自分の存在を、抽象的な物としか認識していないようだった。

 それでも恐怖を抑えて、女の子は自分の方へと近づいて来てくれた!

 自分を選んでくれたことがこんなにも嬉しいとは思わなかった……

 誰かといることに飢えすぎていたから。ただ近寄って、寄り添ってくれようとすることが幸せでたまらない……

 女の子はもう死にかけで、満身創痍の身体を引きずって、命からがら自分の元へと辿り着く。


 それは幸福でたまらなかったはずなのに、女の子と自分の距離が縮まるにつれて、胸に不安と恐怖が湧き上がってくる。

 ここに堕ちる前の、遥か古に犯した罪が、鎌首をもたげてもう一度、自分を断罪しようとしているような……

「やめっ……」

 悪い予感がした。とっさに女の子を制止する……間に合わず彼女は自分の体に触れてしまった。

 突如、女の子はあまりの苦痛に身体を飛び跳ねさせ、のたうち回り始めた。

 それは散々拷問され尽くした自分が背筋を凍らせてしまうほど強烈な光景。

 痛みなのか、なんなのかわからない感触に、全身全霊を蹂躙され、その苦しみを体の動きで訴えている。

 痛みを誤魔化すために四肢が破裂するまで、地面に叩きつけ。

 海老反りになった背骨が折れて、体が二枚に折りたたまれて。

 致命傷になるそれに彼女は一切気付いていなかった。そんな肉体の痛みを些細未満にしてしまうほどの、概念的な苦痛が彼女を支配していた。

 どうしてこうなったのかわからない。わかるのは、自分のせいでこうなったということだ……

 いや……多分やきっとを確実にする記憶があった。今の今まで、目をそらしていただけで。



 ずっと屋敷に囚われていた。その生活で人間を目にすることは少なかった。

 屋敷の隙間から外を見た人間は自分と同じ姿をしていた。屋敷にいる存在はその誰とも違った。

 人とも動物とも違う、異形の姿をしていた。

 何も知らされず、監禁され、隔離され、生贄にされた。それはただの理不尽だが、理由はあったのかもしれない。

 あの異形を生み出したのが自分だとしたら……

 永劫を経てもわからなかった、自分が虐げられた訳を理解した。

 目の前で悶える女の子が、ほんの少しづつだけど姿を変化させ始めたから。

 今はまだ辛うじて姿形こそ人間だが……自分といればじきに、記憶に焼き付いた異形へと姿を変えるのだろう。

 彼らは自分がいなくなった後、どうなったのだろうか……

 感覚を読んだ時、彼らは確かに苦痛を感じていた。それが奇異の目によるものか、果てしない苦痛による物だったのか……

 前者に関してはもう取り返しがつかない。女の子の胸骨の辺りから、着ている服を突き破って、新しい指が生えてきている。それが腕に変わるのも時間の問題だろう。

 激しい苦痛があることは、我を忘れて暴れまわり、絶叫しているのを見れば、明らかで……

 

 理不尽に捨てられた理由がわかれば、少しは救われるかと思っていた。明確な怒りか、さもなくば納得を手に出来るから。

 でも現実はそうならなかった。

 自分はそう扱われて当然な、湧き出る黒い影と相違ない、呪いを撒き散らす、ただの呪物でしかなかった。

 その事実は、ただただ理不尽で、どうしようもなくて……

 排除された理由は納得出来ても、どうして自分が呪物として産まれたのか……そのことに満足いく理由を、誰もくれなかった。

 


 女の子の様子が落ち着いた時には、もう人としての形を成してはいなかった。

 骨格は歪み、ありえない箇所から指が生えている。増殖した内臓が外にはみ出して、脈打ちながら命の一部だと主張している。

 自分の血による影響で、黒い影の侵蝕が抑えられ、傷口は綺麗に塞がってこそいるが……

「よかった。綺麗に塞がってる」

 罪悪感を減らそうと、欺瞞に満ちた言葉が口から漏れる。

 反射的にそんなことをする、自分が嫌になった。

「こういう治し方しか出来ないの。ごめんね……」

 次に出たのは謝罪の言葉だった。 

 直したなどとは、口が裂けても言えない惨状……自分の寂しさを埋めたい一心で、とてつもない苦痛を背負わせてしまった……

 謝って済む問題ではないとわかりながら、謝って済まそうとしている。

 それでも自分の罪に向き合おうと、目をあげる。

 また目があった。今度は自分をちゃんと認識してくれていた。そこに恨みや恐怖の感情は宿っていなかった。

 あるのは同情と幸福だった。どうしてそうなるのか、疑問に思って女の子の記憶を探る。

 

 そこにあったのはいわれのない暴力と差別。

 人と同じであるはずなのに、親に捨てられ、環境から零れた。

 それでどうしようもなくて、身を投げた。

 生贄ではなかった。それが嬉しいようで寂しかった。

 それは本質的に自分とは違うのだと、傷を舐め合う権利さえ自分にはなくなったように感じられたから。

 存在するだけで周りを破壊する自分とは根本的に違うから。それを知らないから、同じ境遇なのだと思って優しくしてくれる。

 自分にそんな価値はないのに。ただ運が悪くて、周囲が歪んでいて、どうしようもなかった貴女とは違うのに。

 そうじゃないと今知ってしまった自分に、無償の愛は耐えられない。

 貴女はこんな自分を選んでくれるの? 一緒にいるだけで、周りを傷付ける自分を?

 もう一人で痛みに耐えるのはうんざりの自分が、この誘惑に抗わないといけないの?

 そんなこと出来るはずがなくて、結局貴女の優しさにすがってしまう。

 自分が貴女を受け入れることで、幸せを感じているのだから、構わないんだと自分に言い聞かせながら……



 日に日に女の子だった存在は、変わっていった。

 神と呼ばれた自分との境界が、徐々になくなっていき、感情を読みやすくなる。

 それに比例して、異形化も進行していった。指だったものが腕になり、腕だったものが頭になる。

 言葉も人間が発するものから、昔屋敷で響いていた呻きのようなものになった。

 幸いなことに、女の子は自分の変化には無自覚だった。

 見た目なんて自分達の関係には無関係なのだから、彼女本人は知らない方がきっといい。

 でも、異形化が進めば進むほど、黒い影は彼女に強く干渉するようになった。

 私も異形も黒い影も、常世よりも向こう側の存在だからなのか、黒い影が日に何度も何度も彼女を向こう側の世界へ引き摺り込もうとする。

 辺獄に引きとどめるのが、どんどん困難になる。

 自分との距離が離れるほど異形化は遅くなるからと、最初は物理的に距離を置いていたが……もう側で密着していないと、貴女を黒い影の侵蝕から守りきれない。

 纏わり付く黒い影を浄化しようと、注連縄に吸われる前に零距離で自分の血液を注ぎ続ける。

 不格好でも二人の幸せを護ろうと、貴女に心血を注げば注ぐほど、常世の存在から……人から離れていく。

 その度に向こう側へ強く、強く引き寄せられるようになって、貴女を禊ぐためにまた血を注ぐ。その繰り返し。

 どうしようもない負の連鎖。二人でささやかな思い出を重ねることさえ、もう長くはなさそうだった。


 別にこんな風に産まれたかったわけじゃないのに。不老不死なんて、人間が憧れる能力と引き換えに、周囲を呪ってしまうくらいなら、瞬きほどの短命がよかった。

 女の子も除け者にされたかったわけではないのに……ただ愛されたかっただけなのに、こんな呪われた存在にしかもたれかかる相手がいなくて……

 ただ不幸で、恵まれなかっただけで、どうして二人は苦しみと引き換えでなければ、幸せを得られないのだろう。

 不幸を跳ね除けて、幸せを掴み取るだけの力は二人にはない。

 神のなり損ないと人の行き着く先に、光は見えなかった。

 私たちは、自分が流した涙を拭ってくれる相手なんていたことがなかった。私たちは刹那の間だけでも、潰えると分かりきっている光の中で過ごしていたかった。

 


「これからなにする? これが邪魔で、出来ることはあんまりないけど……」

 女の子がここに堕ちてきて一ヶ月が過ぎた。

 最初は姿さえ見えていなかったのに、今では念話で会話出来るまでになった。

 誰かとこうしてお話しするなんて、夢のような時間で……ただこうしているだけで幸せで。何度噛み締めても足りなかった。

「また私のこと考えてくれてる? 嬉しい」

 存在するだけで有害な自分を、無条件で肯定してくれることが嬉しかった。

 存在するだけで愛する人を傷つけてしまう自分を、無条件で愛してくれることが辛かった。

 ほとんど蠢くだけの塊と化した貴女を見ていると、これ以外の結末があったのではないかと思わずにはいられない。

 貴女だけならもっと何か、何も犠牲にしない結末があったのではないかと。

「また悲しそうな顔してる。何をそんなに気にしてるの? 辛いことは分け合おう。ね?」

 全身に女の子の肉が変質したものが巻きついて離れないし、もう離せない。

 温もりを欲し続けていたから、こうして全身で貴女を感じられることがただ幸福だった。

 それを失ってしまうことが、ただただ恐ろしかった。

 向こう側に連れて行かれた時に貴女が味わう苦痛を思うと、それが自分の身にだけ降りかかればどれだけよかったかと思わずにはいられない。

 罪のない貴女があの時死ねていればと、後悔する結末にしかたどり着けないことが悲しかった。

 理不尽な痛みと悲しみに慣れている自分だけが、苦しむことで済むならどれだけ幸せだったか。

「私はここに来られて幸せだよ。それは絶対変わらないよ」

「……私も貴方がここに来てくれて嬉しいよ。ずっとずっとここにいようね」

 二人で優しい言葉を掛け合う。

 女の子が強く抱きついてくる。また引き摺り込まれそうになったから。昨日よりも強い力で。

 それがおさまると、今度は寂しそうに女の子が轟く。

 先が長くないことを、お互い薄々感じていた。

 きっと痛みや恐怖があるはずなのに、それを気丈に振る舞って、今ある有限の幸せを分けてくれる。

 貴女は貴女のためではなく、こんなどうしようもない、呪われた神様のために命を削って、そばにいてくれる。

 やっぱり人間は神と釣り合わない……こんな自分に貴女はもったいないよ。

「私のためにありがとう」

 どちらが発したかわからない言葉。きっと同時だった。


 それが滅びの合図だった。

 

 背中に巻きついた肉壁の内部から突然、黒い影が溢れ出した。

 悲鳴が広大な辺獄に木霊する。

 赤黒い血が、滝のごとく降り注ぐ。

 ずっと黒い影に引き摺り込まれてそうになっているだけなのだと思っていた。

 でも本当は、自分のような存在に近付いているのだから……身体に黒い影をずっと溜め込み続けていたのだ。

 前触れなく訪れたあっけない終わりに、気が違いそうになる。

 どうにかしようと足掻くが、どれだけ血を注いでも、注いでも肉の破裂が止まらない。

 止まらない。

 止まらない。


 黒い影は自分の真下から湧いて出てくる。

 そこに引き摺り込まれるのを見ていることしか出来ない。

 抱きついた身体が裂けて、それをつかむことさえ注連縄が許さない。

 祈った。願った。最初貴女に出逢った時のように、もう一度黒い影が護ってくれることを。

 奇跡が為ることを願った。



 貴女の最後の一片が体から零れ堕ちた瞬間、永劫に続く痛みを耐えて得た幸せの全てが、もう戻らないことを理解した。

 









 

 自分が苦しいより、相手が苦しい方がよっぽど辛い。

 そう思える相手に出逢えたのはきっと幸せなこと。

 私は少女を一人ぼっちにしてしまう。あんな場所で永遠に。

 捨てられて、奪われて、苦しんで……そんな結末、納得出来ない。

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