辺獄に堕つ女神は少女を見初め給ふ
第3話 選ばれた少女
ここに堕ちてからどれだけの時間が過ぎたのか。あらゆる生物の中で最も正確で、強固である自分の感覚が麻痺してしまうほどの時間が流れた。
どうして自分がここに送られたのかも、とにかく理不尽であったという強い怨念だけを残して、忘却の彼方に消えた。
身体中に走る肉体的な激痛にはとっくに慣れた。世界の狭間から溢れ出る黒い影による、魂への痛痒だけは相も変わらず耐え難いまま。
身動き一つ取ることもできず、気が触れることも許されず。世界が楔を必要としなくなるその時まで、この堪え難い拷問に耐えねばならないのだと痛感する度に、私をここに突き堕とした相手への呪詛が脳裏に過ぎる。
だがそんな作業はすでに、何億回と繰り返した。その中でこの苦しみが晴れたことなど、ただの一度としてなかった。
今日も今日とて、向こう側の世界からとめどなく溢れて、常世に纏わりつこうとする黒い影を自分の血で祓い清める。
その過程で私がするのは、苦悶に顔を歪めていることだ。
血が周囲を浄化するのに足りなくなれば、四肢を縛る注連縄が、文字通り最後の一滴までそれを搾り取る。
注連縄が皮膚が裂き、骨が砕き、なお終わらぬ血の搾取。そこまでしても抑えれるのは、常世への侵食だけで、自分は黒い影に侵される一方。
とっくの昔に並みの神性であれば、自身の存在が消滅していてもおかしくない呪いが魂に蓄積している。
それでも自分の特性が不死ゆえ、致命傷たり得ない。
この能力でロクな目にあったことがないことだけは確かだ。
「うっっ……っっっっ……」
縄が四肢を強く捻り、骨が皮膚を突き破る。その深い傷口から、黒い影が入り込み、神である私でさえ、理解の及ばぬ領域へと引っ張られそうになる。
それに必死で抗っていると、常世と向こう側の狭間であるこの辺獄に、迷い子が堕ちてきたのを感じた。
それは人間の女の子の気配……
そこで一つの疑問が湧いた。この空間は外部から途絶されていたはずだ。
黒い霧が常世へ漏れ出さないよう、元凶を自分で塞ぎ、その周囲は結界で覆われている。
どこかで綻びが生まれたのだろうか。だとすれば、この女の子は自分に代わる、新しい生贄ということだろうか。
だとすれば、注連縄にくくりつけられる作業は自分ですることになる。
……全力で引き止めよう。
無理矢理、意思とは無関係に人柱とされた自分が……自分に見向きもしてくれない世界のために、身をやつすのにはもう疲れ切っていたから。
他人にそんな役割を背負わさせるのはごめんだった。
黒い影が世界を飲み込むかもしれない、なんて親近感のない危機よりも、ここに堕とされた女の子の方が大切に思えた。
その子は、この未来永劫続くと思われた孤独と絶望を癒してくれるかもしれない……永遠に続く責め苦に耐え続けてきた自分に齎された僅かな希望に他ならないのだから。
ようやく苦しいだけの時間が終わるかもしれないと思うと、全身の痛みも、魂が原型を残さずすりつぶされていく感触も、ほんの少し忘れられた気がした。
血の搾取での傷が癒えた頃、目の前の、だが決して手が届かない場所に何かが落ちてきた。
それは確かに記憶にある人間の姿形をしていた。それは思わず抱きしめたくなるような、愛らしい容姿をしていて……
そしてここに来る前につけられたであろう深い傷痕が目に入って、どこか懐かしさと親近感を感じた。
思わぬ来訪者に心が踊る。自分が何なのかさえ覚束なくとも、目の前の存在が自分にとって、何よりも大切な存在であることはわかった。
誰からも必要とされず、物として捨てられた時点で、諦めたつもりだった。
永劫を経て慣れたつもりだった。
そのはずなのに、寄り添ってくれるかもしれない存在が現れてしまえば、胸を突き破る衝動を止められなかった。
誰かがそばにいて欲しい……
人間なんて自分に釣り合うわけがないのに、それでも縋りたくて仕方がなかった。
だが自分のわがままは叶いそうになかった。女の子は既に虫の息になっていたから。
落下の衝撃で開いた傷もあるようだけど、物理的な現象はここでは影響が小さいから、それが原因ではない。
原因を探るとそれはすぐにわかった。この女の子には生きようとする意思が一片もなかった。
自分の推測でしかないが、黒い影が溢れてくる向こう側の世界は精神や魂の世界。常世は物質に偏った世界。
それゆえ常世では魂が淀み、壊死していたとしても、滅びることはない。
だがここは狭間の世界である辺獄だ。
肉体が滅びずとも、魂が滅びに瀕していれば、常世とは比べ物にならない速度で命が摩耗していく。
女の子は辺りを見渡すくらいの体力はある様子だが、それが失われるのもそう遠くないだろう。
どうにかしないと声を発するが届かなかった。というより、彼女はここにある存在が何も見えていないようだった。
偶然堕ちてきただけの見ず知らずの女の子に縋るか弱い存在にも。彼女の死を望む心に惹かれた黒い影が、周囲に集い始めていることにも。どちらも認識出来ていない。
あれは不死の自分が、命の危険を感じるほどの代物だ。ただの人間が、それもあんな不安定な人間が耐えられる物ではない。
胸が締め付けられる。足掻かねばならないとわかりながら、四肢を縛られて足掻く術がない。
神仏に類する能力も、身体を縛る注連縄が、黒い影を抑える為の力へと変換している。
最悪なことに、黒い影を抑える範囲を制御する権限は自分には与えられていなかった。
なんとかしようと思考を巡らせる。永遠に行使することはないと信じていた、無用の長物と化した英知を総動員する。
それでも救う手立てはないように思えた。そうしている間にも、女の子に黒い影が取り付き始めた。
自分の血には浄化の能力があるはずだから、それを与えることが出来たなら、目下の危機は退けられる……かもしれない。
しかし、肝心の血を彼女に与える術が思いつかない……
だが何もしなければ、彼女は喰い殺されるだけ。
必死に考える。どうにか救う手立てを……唯一脳裏に浮かんだのは、賭けのような手段。
あまり上手くいきそうにない方法。だが試してみるしかなかった。悩んでいる間にも、黒い影は女の子に取り憑いていくのだから。
自分はためらうことなく、縛られたままの右腕にあり得ないほどの力を込めた。
木の幹が折れるような音がするが、構わず腕に力を加え続ける。骨も腱も砕けて、力を加えるのが困難になり、痛みも強くなる一方。
ありとあらゆる困難を無視して、腕を根本から引き千切るために力を込める。
だが優れた膂力を持つがゆえ、自分は頑強な肉体を持つ。自傷行為で、身体を酷く損壊させるのは困難を極めた。
なんの感情が内に渦巻いているのか朧になりつつある。か細いなりに、確かな戦略があったはずなのに、それも女の子を救うという目的以外思い出せない。
とにかく腕を千切ろうと足掻く、足掻く、足掻く。吹き出した血液を彼女の元へ届かせるためだけに。
一際大きな音が腕からしたと同時に、一切の力が入らなくなった。
自分の腕は肩と腕の部分で、わずかに剥がれて、血がほんの少しだけ溢れている。それはあと少しで血液を届けられたかもしれないということだ。
だがそれより先に、骨と腱が砕けてしまった。
突然の出来事に困惑しながらも、腕に力を込めようとするが、徒労に終わるだけ。
そうこうしている間にも、はがれかけた肩と腕が再生して繋がり始めた。女の子は黒い影に覆い尽くされようとしている。
呑気に腕が動くようになるのを待つ時間はない。どうにかしてもっと力を加えないと……
頭は僅かに動く。肩までなら頑張れば届く……やるしかない。
比較的自由のきく頭部を、肩や腕の付け根へ向けて、無心で叩きつける、叩きつける……
頭蓋が砕けた衝撃で、肩が半分吹き飛ぶ。だがそれだけの傷では、勢いよく血が噴き出すだけで、到底女の子の元へは届かない。
もっともっと破壊せねばならない。不死だから治る、大したことのない取り返しの効く傷だから、気負いなど一つもない。
だけど、ここにいる女の子が死んでしまったら、その子は永遠に取り戻せないのだから。
顎が砕けた。そしてついに肩と腕が完全に別れた。腕の断面からおびただしい赤が洪水のように溢れ出る。
これで彼女を救える。そう思って、赤い飛沫を女の子の方へ手向けた。
だが世界は残酷で、血の雨を遮断するように、注連縄が変形して、血を全て受け止めてしまった。
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