第2話 虐げられた女神

 思わず悲鳴が漏れてしまうほど、その少女は悲惨な姿をしていた。

 注連縄で四肢を縛り付けられたままで、空中に釣られていた。手足に長時間体重がかかり続けたのか、縄からは血が滲み出している。

 巫女服であったであろう衣服も、胴体部分を辛うじて覆っているだけ。

 露出している皮膚の一部は、腐っているとも形容できない……とにかくどす黒い何かが侵食していた。

 それだけ悲愴を極めているのに、どこか神々しさを纏っている……不思議な少女がそこにいた。

「こういう治し方しか出来ないの。ごめんね……」

 申し訳なさそうにしている少女を見て、あの耐えがたい苦痛が治療に伴うものだったことを知る。

 無尽蔵に恵まれた人生であったとしても、それを容易くマイナスに持っていくほどの苦しみだった。

 最低未満の人生を送っていた私からすれば、あれだけ苦しんで生き延びるのは、全く釣り合っていない。

 ……そうだとしてもこの子は、私のために原理はよくわからないが、治療を施してしてくれた。

 現に出血の止まらなかった傷口も、折れた骨も、元に戻っているのだから。

 思えば誰かにこうして優しくされたことなどなかった。嬉しくないわけがなかった。

 あの疼痛とも、恐怖ともつかない感覚に悶えている間は、地獄だと思っていたが……とても見ていられないほどに痛めつけられた少女の優しさなのだとしたら、許せてしまう。というより幸せでしかなかった。

 きっと私は相当ちょろい人間だ。これまで誰かに思われたり、愛されたりしたことがないから……それが手に入るなら、そこにどれだけの代償が伴おうと、こうして納得出来てしまうのだから。

「それで貴女はどうしてここに堕ちてきたの? もうこのあたりに人は住んでいないでしょう」

 物憂げにそう問いかけてくる少女の姿は、今の私ですら想像もつかない、永く永く苦しんできたのような、可憐な容姿には釣り合わない重みを感じさせる。

 きっと私ごときが差し出がましいとは思うが、この子に向き合いたくなった。

「…………っっっ?」

 その想いとは裏腹に、この場に適した言葉を発することは叶わなかった。

「まだ喋れないんだね。でも言いたいことは分かるよ。ここは身投げに適した場所じゃないから、辺獄に取り込まれちゃったんだよ。今ならこんな場所に囚われなくて済むから。帰ろうとしたほうがいいよ」

 直感でしかないけど、この子は私とは違う存在なのかもしれない。

 でもそんなことはどうでもいい。こんなにぼろぼろなのに、私を気遣って突き放そうとしてくれている。

 よくわからないけれど、ここにいてはいけないことくらい誰でも分かる。今だって、意味不明の恐怖が魂の奥から湧き上がってきて、おかしくなりそう。

 この子は、恐怖の訳を知っているから、こう言ってくれているのだろう。

 それに私の身体が勝手に動いただけで、望んだわけではないけど、この子は私を心配して怪我を治してくれた。

 そんな女の子が、鏡で見た私よりも、悲しそうに、寂しそうに。本当はそばにいて欲しいのを必死に隠しているのが、はっきりわかる瞳で、私を見つめているから……

 そんな鏡に映した自分を、自分で放っておけなかった。

「……っ! どうなっても知らないよ」

 私が一歩少女へ近付くと、彼女はあり得ないものを手にしたかのように、驚いた表情を見せる。そして次の瞬間には、瞳に涙を浮かべていた。

 この子のためにしたことではなかった。自分を救いたくてしたこと。それがこの不幸を凝縮した少女を、少しでも癒せたのだとしたら。

 それが嬉しくて私も泣き出して。身動きの取れない少女に思わず抱きついて。

 お互いに言葉にはならない声をあげて、今まで積み重ねた辛いことを吐き出しあった。



「ここにいても本当にいいことないよ」

 衝動的に二人揃って泣き崩れてから、どれだけ時間が過ぎたのかわからない。

 ともかく二人の悲しさが少し落ち着いた時、少女は私を気遣って、案にここを離れるようにともう一度忠告してきた。

「っっっ……」

 相変わらず声を発することはできないが、意を汲み取ってくれた少女が私の疑問に答えてくてれる。

「なんとなくだけど、ここにいると不安になるでしょ。この場所は瘴気とか呪いの類が溢れる場所だから。それを私で蓋してるの」

 少女が口にし始めたのは、にわかには信じがたいオカルトめいた話だった。でもそれが真実であることが、今ならわかる。

 最初は姿の見えなかった少女が見えるようになった。最初は漠然とした恐怖しか感じなかった不安感を、今は黒い影として認識出来るようになっていた。

 ここにきてから拡張された奇妙な感覚は、怪異がこの世に実在するのだと教えてくれる。

「私はもう手遅れだけど、まだ貴女は人として死ねるから。ずっとここにいたら私のせいで、中途半端な不死になっちゃうし、こんな身体になるよ」

 少女の身体からはとめどなく血が流れ出ている。それだけじゃなく、黒い影が全身に絡みついて、皮膚が黒く爛れている。

 自分が今まで負った傷と比べても格段に酷い、目を覆いたくなる悲惨な姿。

 少女が語る未来は、私の想像が及ばないほどの苦しみに満ちているのがわかる。だからといって、私の決意が揺らぐことはない。

 戻る場所も、帰りたいと願う場所もないから……優しくしてくれた少女がいる、このわけのわからない闇の中を選ぶことに躊躇いはない。

 無知な私には人として生きて死ぬこが大切だとも思えない。半端な不死になることさえも、母親たちよりも本当の意味で心配してくれる人と、ずっといられる保証にしか思えない。

「……そんなにいいものじゃないよ。不死も、私そのものも」

 少女はどこまでも自分を卑下する。こんな場所で、独りずっと寂しいのと痛いのに耐えていたのに。

 こんな場所にひとりぼっちにされるくらいに……生まれた頃からずっと虐げられ続けてきたから、自分を認めてあげられないんだろう……私がそうだから。

 どれだけ頑張っても、見てもらえず、認めてもらえず、否定されて……もう自分で自分を認めるなんて、永遠に出来なくなってる。

 でもこの子なら、そばにいるだけでありえないくらいに褒めてくれる。こんなに嬉しそうに笑って、泣いてくれる。

 私が幸せになる方法はこれしかないって……私なんかがそばにいるだけ、なんて破格の条件で愛してくれる人は、この子しかいないよ。


 こうしてお互いが自分を許してあげるために必要な、二人っきりの生活が始まった。


 何にもなくて、何にもすることのない二人は、ただ身を寄せ合って生きた。

 四肢を縛られている少女から私に触れることは出来ないから、私から抱きついたり頭を撫でたりする。

 すると少女が子猫みたいに頭を揺らして、私の胸に顔を埋めてきたりして、イチャイチャして過ごす。

 私が言葉を話せないから、その分だけ肌の触れ合いだけが激しくなっていく。

 だけど接触が増えれば増えるほど、少女は「血の侵蝕が激しくなるから」と言って、突き放すから、思う存分触れ合わせては貰えない。

 どういう意味か、わからないけれど、それさえも私を思ってのことなのはわかるから、ただただ少女を愛おしくさせるだけ。

 幸せだった。

 生まれて初めて手にした、不安のない生活。あえて不満を述べるとしたら、少女の方から私を触れられないのが不満だった。

 だから少女の自由を奪い、苦しめるだけの注連縄の存在が許せなくなってくる。

 ほどき方なんてわかる訳がないし、そんなことをしたら、少女と注連縄で封印している災厄が溢れ出すかもしれない。そうなったらどんな影響をこの空間に与えるか想像もつかないから、実行しようとは思わないけれど。



 ここに堕ちてからどれだけの時間が過ぎたのかわからない。

 それでも私の幸福量が減少する見込みは一切なかった。

 ずっと人の顔色を伺い、その努力を踏みにじられて。愛情も食べ物も与えられず、あらゆる正の感情にずっと飢えていた。

 ここでは何にも飢えることがなかった。

 この場所に来てからは、一切何も口にしていないのに、空腹感はない。

 少女は私が彼女のために何かをしなくても悪い顔ひとつしないどころか、人を苛立たせていた何気ない一挙手一投足までも、肯定してくれる。

 夢の中でさえ手に入らなかった、平穏な生活。痛みがなく、愛してくれる人がいる。

 この場所の本質とか、どうして少女がここにいるのかも、私には知る必要のない些事未満のことでしかなかった。


「あんまり触れてると、危ないからダメだよ」

 指先で少女のサラサラとした髪を梳かす。

 それだけでも危険が伴うらしく、嬉しそうにしながらも距離を離すように言ってくれる。

 とはいえ少女は抵抗ひとつ出来ないから、触れるのをやめることはない。

 というより、少女のそばにいて身体がおかしくなったことがないから、離れる必要性を感じられない。

「なん……だいじょ……だよ」

 なんともないから大丈夫だよ。そう言葉にしようとした。

 いつもなら音にさえならないのに、今日は違った。

 ほんの一部だけど、ちゃんとした言葉になった。

 心の中で言葉をつぶやいて、口を動かせば少女が神の力で意味を汲み取ってくれる。

 そうこうしているうちに喋れるようになった……というわけではなさそうだった。

 私が微かに言葉を発したのを聞いた瞬間、少女が顔を真っ青にさせたから。

「……多分これが最後の忠告になると思う」

 少女は何十回目かになる忠告を私にする。でもそれはいつもと違って、事態の重さを象徴するように、長い溜めを伴い、今までで見たことのない、深刻そうな表情を浮かべながら、言葉を続けた。

「これ以上一緒にいたら、私……貴女にどんな思いをさせてでも、側に置いちゃうよ」

 忠告の後に続けたのは、いつもの少女らしくない内容。

 私たちが知り合ってから、それほど長い時間が過ぎた訳じゃないけど、少女がこんな風に自分の欲求を口にしたのは初めてのことだった。

 誰かに自分の存在を。こうして強く求められるのは本当に初めて……だから、嬉しくてたまらない。

 一緒にいることで私が傷つくとしても、目の前にいる少女も痛みに耐えているのだから、きっと頑張れる。

 最初に感じたあの意味不明な苦しさも、この子といるために必要だというなら、受け入れられる。

「どん……へい……き……よ」

「……ごめんね……ありがとう…‥必ず後悔させちゃうから……本当に、ごめんね……」

 少女は私の方を見て、いつになく悲しそうにしている。

 私が少女と出会ってから嫌なことなんて、ほとんどなかった。

 その嫌なことだって、少女に過失があった訳じゃなくて、それしか重傷を負った私を救う手段がなかっただけのこと。

 私のことをいつでも思ってくれる少女の側であれば、この先も嫌なだけのことはないんだと、胸を張って楽観視出来るから……

「あな……そばな……わた……しあ……せ」

 少女と一緒にいられるのならそれだけでいいんだと、片言で伝える。

 優しくしてくれる人さえいれば、それだけでいい……それだけがいい私たち。

 二対ある腕で、少女の涙を拭いてあげながら、頭を撫でて、背中をさすって、腰に腕を回す。

 いつもなら呪いの侵蝕を恐れて、受け入れてくれない距離。

 だけど何があっても一緒だと決めた今、初めて受け入れてくれた。

 満足に動けないから、比較的自由な頭を私の胸に預けてくれる。

 思い返せばなんだかんだで今までずっと私の方が甘えてばかりだった。

 自分の孤独を和らげるために、触れたいから触れる。心配されてもそれさえも無視して。

 もう取り返しがつかないから。なぜか少女はそう思っていて、だから私に甘えることを許してあげられた。

 わからないことも多いけれど、今も未来も幸せだからそれでいい。

 最近見えるようになった、少女と世界の間から溢れ出す黒い影の正体を知ったところで、きっとその先に幸せはないから。

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