少女は辺獄を竈食ふ

神薙 羅滅

少女は辺獄を竈食ふ

第1話 辺獄に堕ちる

 人が自死を選ぶのはどういう時だろう。職を失ったり、不治の病に罹患したり、愛する人を喪ったり。

 共通しているのは、希望の一切を感じられなくなったとか、そんなところだろう。

 だとするなら私は見事、その条件に当てはまっている。

 賭博と虐待が趣味の両親に、暴力を振るう同級生。

 逃げる場所を探すだけの余力なんて、もうどこにも残っていない。

 青あざだらけの脚ではどこにも行けない。何枚かの爪はなくなり、ただ細いだけの腕では、蜘蛛の糸を掴むことさえ出来ない。

 丁寧に、丹念に希望を絶たれた私に許された最後の救いは、死ぬことだけだ。

 そこに希望はなくとも、苦痛もない無であるなら、今より遥かに最良だから。


 崖から眼下に広がる森を眺める。最後に見る景色としてはお世辞にも綺麗とはいえず、その上、空模様は曇り。魂が天に昇るとするなら、通行止めを食らうほどの分厚さ。

 本音を言えばもう少しいい条件で身を投げたかった。でも生き永らえようと思えば思うほど、死に後ろ髪を引かれてしまう。

 それほどに追い詰められた私が、天気とか景色とかそんな些事に気を取られているのもバカらしい。

 そう思って一歩空中に踏み出そうとしても、脚が動かなくなる。

 生きようと思えば、死にたいと願い。死にたいの願えば、生きたいと願う。

 二つの間にいる私は、相反する感情に引っ張られ、引き裂かれそうになる苦痛を味わうだけ。

 未知へと踏み出すのが勇気とか覚悟と呼ぶなら、きっと私にはどちらの素養も備わっていない。

 死んだあとのこと、その直前の痛み……考え出したらキリがない。踏みとどまりたい理由がたくさん胸の内から湧いてくる。

 崖っぷちで、打ち付けられたように動けなくなった私を、宙に誘ったのは、突然吹いた風だった。

 覚悟を決める間もなく、突風に背中を押されての身投げ。雷に撃たれて死んだのに似た理不尽な死因。

 フワフワする感覚に酔う暇もなく、地面が近づいてくる感覚もないままに、意識がなくなった。

 最後に思ったのは、天に昇る私があの雲に跳ね返されて、地獄に堕ちるのはイヤだなって、ズレたことを考えた。


※※※


 もう二度と取り戻さないで欲しかったのに、皮肉にも私は意識を取り戻してしまった。

 身体を地面に打ち付けたせいで、全身が酷く痛む。自殺をしくじると悲惨なのだと、身を以て実感させられる。

 神様がいるとするなら、どこまでも残酷だ。

 運命を司る存在を恨みながら、無理矢理身体を起こす。あの高さから落ちた割には、体の傷は浅く、吐き気を催す痛みを伴うが、なんとか身体を少し持ち上げるくらいのことはできる。

 痛みで頭がフラフラする。それでも自分の置かれた状況をなんとか知ろうと、辺りを見渡す。

 ここはあまりに奇妙だった。

 確かに私は森の中へ身を投げたはず。なのに地面は土ではない。それどころか鉄とも青銅とも言えぬ、金属質だが身の毛もよだつ嫌な肌触りをしている。

 周囲には木の一本もなく、暗黒が広がっているだけ。それだけ薄暗いのに、自分の体は、はっきりと、太陽の下にいる時と変わらず視界に写っている。

 いくら強い風に飛ばされたとしても、こんなわけのわからない場所へ運ばれるなんてあり得るだろうか。

 そして辺りに漂う不気味な感覚。抗いがたい、本能的な不安感が湧いてくる。それは力づくで放り込まれた、心霊スポットとは比べものにほどの強さ。

 夜の帰り道で、自分をつける何者かの足音だけがするような。家で一人のはずなのに、閉めたはずの扉がなぜか開いていた時のような。そんな例えようもない不安感の究極系。

 後ろ向きとはいえ、一度死を受け入れ、覚悟した人間が、逃げ出したくてたまらなくなる、どうしようもない溺死しそうになる粘ついた空気。

 漠然としたどうしようもない不安感が、次第に感情を壊死させていく。最後には、正気を失いながら、ゆっくりと朽ちていくのを待つことになるのだと、なんとなく確信する。

 自分の身体から滴り落ちる赤を見て、先が長くないことを悟りながら、床に倒れ込む。

 

 そうして意識を失う直前、指先にサラサラとした、何かが触れた。


「そこにいるの? 顔を見せて」

 言葉だけしか判然としない、声らしきものが聞こえた。声がした方向も、声色もなにもわからない。

 それは今までの人生で、耳にしたことがない音。いよいよ正気を失い、幻聴が聞こえ始めたとしか思えない……だけど声の主がここにいるのだと。そう心に確信があった。

 そして、どこかに懐かしさというか、心地よさを同時に感じる。

 心が通じ合う人なんて、ただの一度として存在しなかった。それなのに、ことここに至って、そんな存在が現れるのをどこかげ期待してしまう。

 得体の知れない音の正体が、生まれて初めての友達であればいいなと、淡い期待にすら及ばない、絶望的な望みを胸に、最後の力でもう一度だけ身体を起こす。

 視界はさっきよりもぼやけていて、痛みすら彼方に感じて現実感がない。

 それでもこの空間に生じた、一つの変化は確かに知覚できる。さっきまでなかったはずの、赤い霧がこの空間の中央に生じていた。

 存在していたのであれば気付かないはずはないと思える確かな濃さ。なのにどこか不明瞭で、現実味のなさを持った奇妙な霧。

 今の私がなんとか這っていける程度の場所にそれはあった。

「血が出てる。こっちにきて。治してあげるから」

 赤い霧が手招きするように、微かに揺れる。その不思議な魔力に魅入られた私は、なんの疑問もなく、そこに吸い寄せられる。

 子供が何の疑問も抱かずに、母親に抱かれようとするのは、きっとこんな感覚なのだろう。

 本能が例えようもない安心感を覚えている。

 味わったことのない愛を求めて、床に血を塗りつけて、残り少ない命をすり減らしながら進む。

 

 指先がほんの少しだけ、赤い霧に触れる。

 その瞬間、赤い霧が傷口から体の中に入ってくるのがわかった。

 そしておぞましい感覚が全身を包み込んだ。

 自分の中にある血が、赤の霧と混ざり合い、魂というものがあるなら、それを凌辱されているような、言葉での理解を超越した、感触に変わる。

 痛みには人並み以上には慣れているはずなのに、そんな積み重ねた耐性ではどうにもならない激しさと異質さを併せ持った、痛みを超えた痛み。

 それだけの苦痛を味わっているのに、頭は冷静で、真正面から人知を超えた刺激に向き合わされる。

 精神が刹那を経ずに磨耗していく。時間の感覚が、限界まで引き伸ばされて、限界まで圧縮されて……永劫に続いた苦痛が、泡沫のように消えていく。それが永遠と繰り返される。


 死にぞこなった私がたどり着いたのは、まぎれもない地獄だった。


一秒か、一年か。矢のように過ぎ去ったようにも、永遠に続いたようにも思える、堪え難い痛苦を煮詰めた時間。

 それを乗り越えた私は、溺れてしまう直前に、水面に顔を出せた時のように、荒い呼吸を繰り返して、なんとか平静を取り戻そうとする。

「よかった。綺麗に塞がってる」

 声が聞こえた。今度は確かに女の子の声が。可愛らしい声質にしては妙に落ち着いた、荘厳な雰囲気。

 頭に浮かぶのは、美術の教科書で見たような優しげな少女の姿。

 虐げられ続けてきた私さえも、救い上げてくれるような女神様を。


 確とした期待を胸に振り向くと、そこには私と同じように……いや、私以上に虐げられた少女の姿があった。

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